小さい天幕の中、俺は爽やかな気分で目を覚ました。外は朝というには明るすぎるから、今は昼過ぎなのかもしれない。隣ではイーザーがとっくに起きていて、あくびをしながら髪を束ねている。
「イーザー、今何時だ?」「昼少し前。寝過ごした」
「仕方がないだろう、昨日が昨日なんだ」
俺は誰も責めていないのに言い訳をしてから、手を組んで大きく伸びをした。
昨日というのは改めて言うまでもない。おかしな魔法によって街1つがカーリキリトでも日本でもない世界に閉じ込められた事だった。俺たちは居合わせたフォールストやミサスと協力して町から脱出しようとし、結果的に街の結界を破壊してクレイタを救った。
で、どうして天幕で優雅に寝ていたかというと、その後のやり取りに由来する。あの後すぐに調査に来ていた魔法使いの一団と会い、調査団の宿泊所に連れて行かれて根掘り葉掘り事情聴取された後、天幕を貸してもらったのだった。
こう言うと物事が円滑に進んだように聞こえるかもしれないが、実はかなりの紆余屈折があった。俺たちはその事件を引き起こした犯人じゃないかと疑われたのだった。
俺はこっそり、俺たちから離れたところで寝ているミサスを見る。疑われた原因は同行していたミサスが黒翼族だったからだ。黒翼族は魔法に長けているし、何を考えているか分からない種族だからやってもおかしくない。ミサス当人はけろりとしていたが、その理不尽な言いがかりに俺たちは反発した。とくに熱しやすいイーザーは危うく剣を抜いて血を見るところだった。
これを収めたのは武力ではなく話術だった。キャロルもそうだったが、とくにフォールストはしゃべり上手で、俺たちの冒険を多少の尾ひれをつけて話し、俺たちが禁呪を使った1団ではない事を納得させて、調査本部へ案内させた。さらに幸運だった事に、捜査本部の中には知り合いがいた。ナーシェというイーザーの友人、アットの部下の魔法使いだった。俺は彼のことを忘れていたが相手とイーザーは覚えていて、それから話はとんとん拍子に進んだ。
「昨日は本当に危なかった」俺はしみじみ自分でうなずいた。フォールストがいなければどう話がこじれていた事やら。下手をすれば未だに逃亡の身だったのかもしれない。
「アキト、あたしにも感謝しているわよね」「うわっ、勝手にのぞくな!」
テントの布1枚をへだてた向こう側は女部屋となっていて、キャロルが泊まっていた。フォールストは別のテントを利用しているらしい。しかしどうしてこっちがのぞかれるのだろう。普通立場が逆じゃないか?
「分かっているよ。昨日は俺たちをなだめてくれてありがとう、とくにイーザーを止めてくれてありがとうっ」「分かればよろしい」
キャロルは顔をひっこめた。実際にフォールストが一団の説得に当たっている間、キャロルは俺たちに思いとどまるよう言を尽くしていたのだった。劇的でなかったから忘れていた。昨日言いくるめられたのを思い出したのか、イーザーがおもしろくなさそうな顔で仕切り布を見る。向こう側から布ずれの音がした。着替えているのかなと思い当たり、ついつい俺は想像してしまう。
「ねぇ」「何だ」
想像を打ち消そうとしている俺の代わりにイーザーが声を上げた。
「こっち毛布も荷物も片付けたから仕切り布を取ってもいいわよ」「こっちはまだだ。片付けるから少し待て」
何だ、毛布をたたんでいただけか。俺はがっかりした。
「アキト、早く片付けろよ。それから食事を調達しに行こう」「へえい」
俺はのんびり起きて、重いわりに暖かくない毛布に手をつけ始めた。
起きないミサスはほったらかして、俺たちは兵士に混ざってまんまと朝食を頂いた。時間帯が昼食といっているそれは、いつも食べているここでの食事よりさらに質素だったが量はそれなりにあった。それに熱かったしただでもあったから誰も文句を言わなかった。
食後はイーザーの提案によりナーシェに挨拶をしようという事になった。昨日あったときはごたごたしていて私的な会話はろくにできなかったから改めて、という事だった。正直俺は面倒だったが、特に反対する理由もないし、ナーシェには散々世話になっているんだしと惰性でついていった。
ナーシェは半分廃墟となったクレイタの入り口脇にいた。兵士たちが忙しく街に出入りして避難しようとしている住民を誘導したり、生存者を救助したりしている。その光景は兵庫大震災の時の自衛隊を連想させた。街の元大通りにはあちこち粗末な露店が立ち並び、炊き出しをやったり生活必需品の売買をおこなっていたりとにぎわっていた。
「意外と生きているものね」キャロルがたくましいその様子を見てもらした。ナーシェはその付近でしゃがみ、地面に片手をついて軽く目を閉じていた。キャロルを先頭に俺らが進むと気がつき、長い灰色の髪をゆるやかに動かして挨拶をした。
「昨日はありがとう、ナーシェさん」「当たり前の事をしただけですよ。イーザー、あの黒翼族の方は?」
「ミサスか? 寝ている」
「こんな時間でも?」
ナーシェは空を見あげた。もう昼だ。
「そういう奴なの、気にすることはない。ミサスに何か用だったの?」「用ではなく、禁断魔術について話を聞きたかったのです」
「フォールストが散々話をしただろう。それじゃ足りないのか?」
俺は少し身構えた。まさかまたミサスが疑われているんじゃないだろうな。
「魔術を解いた本人に直接話を聞きたいのですよ」無理じゃないかと俺は思った。あのミサスから話を聞きだすなんて、石に話しかけるようなものだ。
「性格上話してもまず答えてはくれないわよ」キャロルも俺と同じ意見だった。「ナーシェさん、これからどうするつもりだ?」
「報告のために少ししてから一回帰りますよ。イーザーたちも来てくださいね」
何で俺たちまで。
「事に一から十まで関わっていて、結界を解いたのはあなたたちです。同行をお願いして当然でしょう。連れて行かないと私が殿下にも陛下にもしかられます」ごもっとも、返す言葉がない。
「分かった。いいじゃないか、アキト。久々にアットに会えるんだし」イーザーはどことなく嬉しそうだった。そういわれると俺も秀才風のアットが懐かしくなった。また会うのもけして悪くない。
でもな、と同時に思う。グラディアーナの事はどうするんだ。何にも進展していない、時間だけが無駄に過ぎた。この上さらに寄り道か。俺はこのままいつまでたっても見つからない気がして、内心あせっていた。
「それまでに何か、手伝うことはありませんか」「いっぱいあります。救助隊に混ざってください。思ったよりも大規模で、人手がとても足りないそうです」
おまけに何だかボランティアに加えられそうだし。暗澹たる思いでいると、俺は後ろから突っつかれた。キャロルだった。
「アティウス殿下なら、何か新しい事が分かっているかもね。一介の人間には分からないような事も調べてあるかも。行っても無駄にはならないわよ」言われてみるともっともな気がした。
「そうだな」「だからあせるな」
俺は口をあけてキャロルをまじまじと見た。平然と俺を見つめ返している。
「何で分かった?」「アキトって分かりやすいのよ。自分では気づいていないだろうけど、顔に出ているわ」
にやにや笑い、からかうようにキャロルは言う。俺はやり込められた気がして面白くはなかったが、それでも気は楽になった。
その後俺はボランティアに精を出したかというとそうではない。イーザーとキャロル2人から止められた。
「体力がないんだから、いてもいなくてもそんなに変わらない」「死体を見てひっくり返られても困るわ」
という訳で、俺はキャロルと一緒に待っている事になった。それにしてもずいぶん見くびられているんだな、俺。事実だから反論できないが。
待っているといっても室内で呆けていた訳ではない。「1日でも身体を動かすのを怠ると身体能力は驚くほど下がるんだよ。今のたいした事のない力量をさらに下げて、異国の地で果てたくなければ修行しようね」とキャロルの笑顔の奥の気迫に押されて一日中俺はしごかれた。ここを出発するまで続くのかと思うとうんざりしたが、影の世界をうろつくよりはずっとましだと思い直した。
次の日俺はぼんやりと起きた。荷物とスタッフこそあるものの、ここは天幕内ではない。
「俺んち」帰ったのかと俺はゆっくり起き上がった。とりあえずこの格好を誰かに見られたら事だ。靴を脱いで俺は自分の部屋に避難する。姉気が1人暮らしをするまで共有していた自分の部屋は1人で使うには広く、スタッフも楽に入った。
「声、いるか?」返事はなかった。すぐに俺はあきらめて普通の服に着替える。
「行ったり来たりで忙しいな俺」自分で自分に言って、俺はこれから何をしようかと考えた。
「あ、テスト勉強」こっちでの最優先事項を思い出してしまった。しかも俺は確か高校1年生としてすさまじい学力低下を起こしていたことも。
「まずい」史上最低点なんて取ってみろ、普通の高校生から突如転落笑いものになる。俺は部屋に散らばった教科書やルーズリーフをかき集めて机の上にまとめて積んだ。スタッフを部屋のすみに蹴飛ばす。これ母さんに見つかったら何て言おうと考えて、そして真面目に机に向かった。
翌日も俺は日本にいた。今までにないほど復習に時間を費やしつつ、しかし理解度最悪で俺は高校に行く。どうしようかと考えながら教室に入ろうとすると入り口に見知った顔がいた。えっと確か。
「荷沢先輩?」文化祭実行委員会会長の2年の荷沢さんだ。教室に入りかけていた荷沢さんは「大谷君」とこっちを向く。
「ちょうどよかった。これ」俺は紙を渡された。さっと目を通すと書記の仕事がびっしり書いてある。
「これなんですか」「引継ぎノートのコピー。主な仕事内容はこれだから目を通していて。次回の集まりはテスト明けね。がんばろう!」
やたらと荷沢さんは張り切っているが、俺は面倒そうでいやだった。こんなにやる事があるのか。
「あれ、先輩その本」俺はふと荷沢さんの持っている文庫本を見た。俺は非読書家だが本の表紙には興味を引かれる。イーザーみたいな剣士と可愛い魔法使いの女の子が描かれていた。
「これ? 休み時間に読もうと思って持ってきたの。あたしこういう本好きなんだ。大谷君も?」「いや、俺は最近興味が出てきて」
強制されない限り絶対本は読まないとは言えなかった。
「じゃあ貸してあげるよ」「え? いいですよ、別に」
「いいから。感想聞かせてね」
荷沢さんはそういって軽い本を俺に手渡し、2年生の校舎へ帰っていった。
……どうしよう、これ。なりゆきで渡されたけど俺は本が苦手だぞ。字が一杯あってうんざりする。でもまあ貸されたのだから観念するかと腹をくくって、俺は自分のロッカーに行った。
その日はこれ以外何もなく過ぎ去った。強いて言えば英語の授業で指されたが、付け焼刃の予習のおかげで何とか切り抜けられた。
荷沢さんの本については、朝のホームルーム前の5分、昼休みの25分、放課後40分かけて読み終え、俺は机に倒れふした。
つ、疲れた。本を読むなんてなれない事をするものではない、こんなに疲れたのにちっとも面白くない。人の名前と物の名前がごちゃごちゃ出てきて話はよく分からなかった。あらすじは強い剣士と強い魔法使いがばったばったと敵をなぎ倒すものだが、今の俺には参考になる訳がない。
「帰るか」本をロッカーに放り込んで俺は家に自転車で向かった。
家に戻ってすぐかばんを投げ、ベッドに寝ころがる。今日も疲れた、大変だった。体形を変えると、部屋の隅に転がしてあるスタッフが目に入った。
「1日でも身体を動かすのを怠ると身体能力は驚くほど下がるんだよ」今は遠く異国にいるはずのキャロルの声が鮮やかに脳裏によみがえった。
「異国の地で果てたくなければ修行しようね」「どうしてキャロルはああも直接的に物言うかな。婉曲に言おうとすればどこまでも婉曲にいえるくせに」
分かったよと俺は口の中でつぶやいてジャージに着替えた。スタッフを持って、ぶつけないように部屋から持ち出す。
さてどこに行こう。あっちなら宿の中庭、裏路地、どこででも練習はできるし、やっていてもけしておかしくはなかった。でもここは治安国家日本。人目のない所なんてないし、見られたら確実に変な人扱いだ。それに剣道ならまだ多めに見られるけど棒術は俺すらも以前まで知らなかった知名度の低い武術だし。
「あそこがいい」人に見られないぴったりの場所を俺は思い出した。俺は警察に職務質問されないようにスタッフをシーツでくるみ、こっそり表に出て自転車にまたがった。安定が取れないのを何とか我慢してこぎ、目的地の母校日坂高校に着いた。
日坂高校は進学校の癖にやたらと自然が多く、目の前には海、背中にはうっそうとした山が座り込んでいる。俺が注目したのはこの裏山だった。裏山と気軽に読んでいるけど、これはずっと奥にハイキングコースがあったり、県の自然保護何とかに推薦されていたりする深い山で、俺たちは半分本気でトトロの森と呼んでいる。もしこの奥でオカリナを吹いている毛玉がいても俺は驚かない。
部活である意味昼より盛り上がっている学校で俺はスタッフ片手に山に入った。スタッフを自由に振るえて、かつ迷子にならずに学校に帰る事が出来る場所を見つけるのにざっと1時間かけ、やっと畑跡のような場所を確保した。
シーツをスタッフからはぎ取って、さてどうやって練習しようかと俺は考えた。1人だとどうすればいいのか分からない。とりあえず素振りから始める。
スタッフって意外と重いと50回で止める。そうだ、運動部には筋トレの道具の1つや2つ転がっているだろう。それを借りよう。じっとここで棒を振り回しているよりはいい。俺はスタッフを置いていそいそ学校へ行った。
すごすご戻ってきた。ぱっと見て筋トレ道具は全部使われていた。それどころか供給不足に見えた。部外者の俺が行って貸してくれるようにはとても見えない。
どうしたものだろと時計を見ると、5時半を回っていた。まだ外は明るいがここにいてもやることもない。帰るか。
結局俺は何1つすることなくとぼとぼ家に戻った。
玄関をくぐって鍵を閉めたとき、背後に何かの気配が現れた。泥棒…… ではない。
(全く、何をしていたのか。ふがいない)声だった。悪かったなと俺は言い返す。自分でもそれぐらい分かっているとも言おうとした時、ぐらりと世界が揺れた。
いきなりとは久しぶりだなと思いつつ、俺の意識は飛んだ。
目が覚めて数時間後、完全に日が昇って朝食を頂く時、俺はイーザーに聞いてみた。今日もただ飯だ、ありがたい。
「なぁ、イーザーは1人だった時、どうやって剣の修行していたんだ?」「ん?」
口一杯にパンをほおばっていたイーザーは俺を見、飲み込んだ。
「何でそんなこと聞くんだ?」「いや別に、なんとなく」
「そうだな」
イーザーは思い返すかのように目を細めた。
「素振り、筋力増強訓練、他の人に頼んで稽古をつけてもらったり、火竜神殿に行ったり」「どうして1人の時に他の人がいるんだよ」
「同じ宿に剣士ぐらい他にも泊まっているよ。同士のよしみで仲良くなる」
「後、火竜神殿って?」
「火竜神アケをあがめている神殿。火竜は武勇を司る、戦の神の一面があるからな、戦士養成のようなこともやっているんだ」
「ふぅん」
日本にはそんな機関はないし、周りに棒術やっている友達もいない。地道に素振りと筋トレか。面倒そうでうんざりしながらも、俺は目の前の薄いスープをすすった。
「それよりアキト、フォールストとミサスはどこ行ったか知らないか?」「フォールストはその辺にいる、ミサスは知らない」
「実は明後日ナーシェは俺たちを連れて首都フォロゼスに行くことになったんだけど、ミサスにも同行して欲しいって言っている」
「ミサスだけ?」
「俺、アキト、キャロルも。フォールストは行かなくてもいいらしい」
「何でフォールストだけ」
「さぁ」
イーザーは最後の一切れを食べると、簡単に食後の祈りをして(!)席を立った。
「ミサスに会ったら伝えといてくれ」「ああ」
俺は軽くうなずいた。でも一体なんでだろう?
それからはどちらの国でも特に変わった事はなかった。俺は両方を適度に行き来し、カーリキリトで2日間、日本で2週間を過ごした。
カーリキリトの2日間は何もなかった。一応ミサスを探してみたが見つからなかった。キャロルも見かけていないし、内緒でミサス1人出て行ったのかと不安になった。一方日本では、テストでそれなりに忙しく日々が過ぎた。必死に復習したせいか、テストの出来は思ったより悪くない、それどころかむしろよかった。とりあえず一安心。
試験最終日、チャイムの音とともに俺は英語の答案用紙を前の席に送ってそのまま死んだ。
「あー、終わった終わった」教室に主旨は俺とたいして変わらない言葉と呟きと、ごくまれに悲鳴が入り乱れる。俺はもうここには用はないと教室を飛び出て駐輪場へ行った。自転車の鍵を解除して乗ろうとした。
「大谷くん?」そこで女の子の声がした。振り返るとそこには、どこかで見たような子がいる。確か文化祭実行委員の……
「桜木さん」「うん。今帰り?」
「ああ。桜木さんも?」
言って気づいた。同じ1年生なんだからそんなの当たり前か。
「うん。私部活も今日はないし」「何部に入っているの?」
「美術部」
家の方向が同じだったのか、なんとなく俺たちはそのまま一緒に帰ることになった。
「桜木さんのところにも荷沢先輩来た?」「うん。会計の仕事メモ渡された」
「先輩張り切っているな」
「そうだね。劇も楽しみにしているみたいだし」
どうしてここに劇が出てくるのか俺には分からなかった。
「大谷くん知らないの? ここの学校の実行委員会は、毎年何か演劇をやるんだよ」「げっ」
「仕事もあるからものすごく大変だけど、皆楽しみにしている。演劇をやりたいために実行委員会に入る人だっているんだよ」
「聞いていないぞそんな事っ! 俺の中学では実行委員会なんて先生からもらったプリント配ればよかったぞ」
「中学と高校では違うよ」
何て事だ。幸村先生の言っていた出し物ってこれの事か。こんな事になるのだったら他の委員会にすればよかった。
後の会話は演劇の衝撃でろくに覚えていない。5分ほど途切れがちに話し、そして俺は桜木さんと別れた。自転車に乗りながら事態の深刻さにうなる。
(そこまで悩む事でもなかろう)「わっ!」
突然現れた声に、俺はとっさにブレーキを踏んだ。2週間ぶりだったので心の準備が出来ていない。うっかり声を出して周りに変な目で見られた。
(いたのか、声)(私はいつでもいる。そう神経質になるな)
(なるって)
(しかしたかが学校の行事で悩むとはな)
(声、お前事の恐ろしさを分かっていないな? 荷沢さんのような人は知っているんだ。行事が大好きで大好きで、そのためなら夜まで人を学校に残そうと、日曜人を電話で呼び出すことも平気で、むしろそうして従わないと怒って周りに悪口をいいまくる、俺とは水と油の関係の人なんだ。あ〜、今年の夏休み潰れた)
(お前のような無気力人間は少し影響されたほうがいいぞ)
(やだね。お断りだ)
ぐだぐだ言っているうちに家に着いた。階段を登って玄関をくぐって鍵をかける。そのとき図ったかのように激しいめまいと眠気がした。
「げ」(忘れたのか秋人。お前は行かなくてはならない)
「待て、スタッフが…… まだ部屋に」
(運んでやる、安心しろ)
それを最後に俺はその場でくずれおちた。
目覚めたカーリキリトでは報告のために1部隊が戻る事になっていた。宿営所はそのための仕度で忙しそうだった。
「はいアキト、起きている?」キャロルが半覚醒で外を眺めている俺の頭を軽くどつく。それに反応して俺はやっと動き始めた。
「あたしたちもナーシェさんに着いていって首都に戻らないといけないんだから。フォロゼスは近い訳ではないよ」「フォロゼスってなんだ?」
「首都の名前に決まっているでしょ。まだ寝ぼけているの?」
「あ、そういやイーザーが言っていたな」
自分の天幕のすみを見ると俺たちの荷物がきちんと整理されて置いてあった。スタッフも一緒にある。今更ながらに俺は声がどうやって運んでいるのか疑問に思った。
「あれ、そういやミサスは? 見つかったのか?」「知らない。フォールストなら外だよ」
「ミサスはどこ行ったんだろうな」
「逃げたんじゃない? 朝食を食べたらディマ車に乗るよ。用意して」
「ディマってなんだ?」
「車を引く大きな動物、足は遅いけど力は強い」
キャロルはそっけなく言いながら服をたたみ、荷物の中に加えた。
朝ご飯の後俺たちはディマ車へ向かった。俺から見たディマという生き物は角のない大きな牛のようで、確かに力は強そうだったが鈍そうでもあった。
「馬じゃないのか」「馬は高いんだって。何、荷引きならこっちの方がいいよ」
キャロルは後ろの汚い荷車に入ろうとした。ヘリに足をかけたところで動作を止めて後ろを振り返る。同じようにイーザーも首を回した。何やっているんだと言いかけて気がつく。
「待って、よかった、間にあった。こんなに早く行っちゃうなんて思いもしなくて」息を荒げて走ってきたのはフォールストだった。「なんだ?」とイーザーが尋ねる。
「イーザー冷たいよ。ここで別れちゃうのだから挨拶しにきたのに。これから首都?」「ああ。フォールストはどうする?」
「もう少しここにいてそれからどこかに行く。気楽なものだよ」
格好のいい言葉だが、フォールストの口から出ると本当に適当にいい加減に行き先を選んでいるようで不安だ。キャロルの顔が歪んだのを見ると俺と同意見なのだろう。
「イーザー、アキト、キャロル。どうもありがとう。一緒に入れて楽しかったよ。またどこかで会おう」「ああ。道中気をつけてな」
短いが気持ちのこもった言葉を交わしあい、俺たちは車に乗り込んだ。俺たちの以外の荷物がたくさんある中で、イーザーは前に出て御者台に座る。
「もしかして、イーザーがディマを動かすのか?」「そうだ。別に難しくはないぞ、いったん動いたら後は勝手に前に行くからな」
「そういうのって専門の人がやるんじゃないのか?」
「金持ちの物見遊山じゃないんだぞ。人も金も足りないんだ、そんな贅沢に専門家を雇えないとナーシェさんが言っていた」
ひょっとしてここの国は貧乏なのだろうか。報告のために戻るのはごく1部のようで、見わたしてみたらディマ車も大半が残っていた。俺はぼんやりと移動する団体を見ていた。
「れ、イーザー先頭の牛車動いていないか?」「牛車じゃなくてディマ車。そろそろだな。アキト、中に戻れ。馬車ほどひどくはないがゆれるぞ」
「そうか?」
こんなとろそうな動物に引かれる車が揺られるとは思わなかったが、それでも俺は車の中に戻った。中ではキャロルがフォールストと大声で喋りながら荷物を動かして座る空間をつくっている。俺は遠慮しつつキャロルの空間のすみに腰かけた。
「うわっ」車全体が大きく揺れた。なまじ座っていたものだから振動が直接身体に響く。ゆっくり車は前に動き出した。
「こんなに揺れるのか? 酔いそう、目の焦点が合わなくて視力が悪くなりそう」「たいした事ないよ」
キャロルが平然という。本当かよ。
「じゃあ気をつけて。あ」フォールストが外へ手を振った。と同時に黒い何かが飛び込んできた。俺は影の町の出来事を思い返しとっさにスタッフに手を伸ばす。黒い人影は俺のことなんて気にもとめずに壁にもたれて座った。
「ミサス」「帰ったんじゃなかったの、ミサス」
キャロルは半分腰を浮かして、飛び込んできた黒翼族の魔道士に話しかける。返事は返ってこなかったがキャロルも期待していなかった。ミサスなんてたいした事ではないと腰を落とした。
「これで全員か」イーザーは嬉しそうな様子を隠そうともしなかった。
約1週間ディマ車に乗ってみて、俺はこれが16年間の生涯最悪の乗り物だと結論を下した。振動は骨や脳に直接響き酔う暇さえなく、そのくせ速度は人間の徒歩並みというどうしようもなさだった。
俺は早々にこの乗り物に見切りをつけ、なるべく道中は歩いていった。何せ速度が遅いから外に出ても何の問題もない。車があるのに歩くのは馬鹿げていたが、こっちの方が快適だった。
ある時、以前から聞こうと思ったことを尋ねた。
「なぁ、首都ってどんな街だ?」うつらうつら寝ていたイーザーと石つぶてで遊んでいたキャロルは暇がまぎれると思ったのかすぐ反応した。
「そうだな…… 大きくて古い。千年王国の二つ名は伊達ではないな、街ひとつが丸々遺跡みたいだ」「人間外が多い。学術研究も商業も盛んに行われている。アキト、なんだったらフォロゼスにとどまって異界研究をしてみたら? ふらふらしているよりも効果的に事が進むよ」
「字が読めないのにどうやって研究しろっていうんだ」
「情報屋に言って自分の情報を引き換えに身柄を預かってもらって、のんびり研究を待つというのは?」
「その選択はずいぶん前にした。今でいいんだよ。2人ともフォロゼスに行ったことがあるか?」
「あたしは何回かある」
「俺は1回だけある。アットのお兄さんに呼ばれて助けに行った事がある。城の中にも入った事があるぞ」
「おお」
そういえば俺は城を1回も見た事がない。せいぜいお館止まりだった。
「どうだった? きれいだった?」「フォロゼスと同じ、大きくて古くて圧倒された。アットに呼ばれたんだから今回も入れるぞ。楽しみにしとけ」
「そうする」
俺はそうして首都や城を想像しながら道中を過ごしていた。8日後、キャロルと軽い会話をしていると御者台のイーザーが声をかけた。
「アキト、フォロゼスが見えてきたぞ」「やっとか」
俺はディマ車によじ登ってイーザーの隣に立った。
目前の盆地に街が収まっていた。高い建物はあまりなく日本の田舎町のように平坦だったが、その代わり中央にどっしりとした灰色の城が見える。城に通じる通りは車が5台は楽に通れそうなほど広く、両端には様々な露店が並んでいた。城の扉は高さが見上げるほどあり、広さは高校の敷地面積より広かった。さすがに建物の高さはせいぜい日本の普通のビル程度しかないが、周りが皆低いからあまり気にならない。
「へぇ」想像していたほどではなかったが、今まで見てきたカーリキリトの中で最大の街だった。まるで京都のように古いが、寂れてはいずにぎやかに市が立っている。ディマ車は特に何の感慨もなさそうに街へのんびり入っていった。