真昼に闇が落ちた街の中を、俺たちはひっそり固まり、びくびくしながら歩いていた。
「何か出そう。まるで肝試しみたいだな」そんじょそこいらの遊園地じゃ絶対に出せないこの空気と雰囲気。心臓が弱ってなくてもうっかり昇天してしまいそうだった。しかも入場の代償が命ときている。いや待て、俺。最後のは確定じゃない。
「カーリキリトで近未来SFをやる事になるとは思わなかったな」「えすえふって何?」
「サイエンスフィクション。科学的空想物語の事」
「何それ」
「そこ、喋っている余裕があるの?」
キャロルに怒られた。
「だって、落ち着かないんだよ。この辺の影、全員俺たちを見ているんだぜ?」俺は必要以上に饒舌になっていた。深い闇の中、俺たちのすがる明かりは、頼りない懐中電灯とキャロルがフォールストに持たせた脂臭いランタンのみ。明かりの外では俺たちの何倍もの影がじっと俺たちをうかがっている。許されるのなら先頭なんて歩かずに誰かの後ろに逃げ込みたいくらいだ。
「これで落ち着いていられるか。俺だって不安だよ。でも不必要に緊張する事はよくないぞ」「そうだよ、わたしだって怖いよ」
リュートを抱いて不安そうにフォールストは身を縮めた。
「なんだかまるで、戦場を歩いているみたい」ある意味その例えはそのまんま当たっているかもしれない。足元を見ていなかったのか、回りに気をとられていたのか、それともかかとの高いサンダルなんか履いていたのが悪かったのだろうか。「あっ」とフォールストがつまずいた。キャロルが支える。
「逃げろっ!」その行動が危うい平衡点の起爆剤となった。津波のように影たちは四方八方より手を伸ばして俺たちへ走る。俺は飛び跳ねたように走り、イーザーがすぐ俺の横で前に立ちふさがる影を一刀の元に切り伏せる。キャロルはフォールストの肩から手を放し、手首をつかみ直す。そしてフォールストが転びかけるのも気にせず走り出し、ミサスを追い抜いた。最後尾のミサスは影たちが来ても眉毛1つ動かさず、歌のように響く言葉を使い後指1本まで迫り来る影を黒い炎の塊で薙ぎ払った。
「でやっ!」スタッフのいい点は適当に振り回しても結構当たる事だと思う。おまけに長いから離れていても平気だ。俺の横ではイーザーが無言で、しかし俺より熱意を持って近づく影を剣で切り裂いていった。
「キャロル、ついてこれているかっ?」「あたしも、あいつらもね!」
キャロルは皮肉っぽく答えた。フォールストが聞いている方が情けなくなるような声で泣き言を言う。
「影が山のようだよぉ!ミサス1人じゃ無理だよ」
「げ」
俺は後ろを振り向きかけ、「よそ見をするなっ!」とイーザーに叱られた。
イーザーは正しかった。戦いから気をそらしていたら、いつのまにか俺のすぐ前にまで影が来ていた。そのまま伸びて襲いかかってくる。
ばしっ。影がなぜか引く。すかさず俺はスタッフで殴った。今の音は、と思うと、地面に銅のコインが落ちた。
「アキト、集中しろって」「今の、キャロルの石投げか?」
「ポケットにこれしかなかったの。後で拾うから放っておいて」
「銭形平次みたいだな」
「何それ」
「後で説明する」
直前まで影を見逃していたのはどうも俺1人の失点ではなさそうだった。俺にああ言ったくせに後ろを見ていたイーザーが何かに気づき、声を張り上げた。
「右だ!」何だそれは。俺は右を見たが、イーザーがいるだけだった。もちろん影もいるが、それは全方角そうなのだから警告するまでもない。俺はイーザーが何を言いたかったのか分からなかった。
でもイーザーは俺に言ったのではなかった。
最後尾のミサスがその声に従い右へ、燃えさかる安っぽい建物へ魔法を放った。鋭い黒い刃は家の基礎を切り裂き、道の方へ、つまりミサスと影へ火の粉と木片を振りまきながら降ってくる。
ミサスは羽根を広げて走り抜けた。ミサスほど速くなかった影たちは木材に押しつぶされる。
これで後ろからの心配はなくなった。
「やっ!」キャロルがフォールストの手を放し、剣を両手で構えた。俺たちの横に並ぶ。俺も意識を前に向けて、スタッフで影たちを押しつぶそうとする。
俺たちはそれこそ一呼吸休む間もなく戦い続けた。ちょっとでも怠けたらそこからどっと影に押し切られる。俺は痛み始めた腕を意図的に無視して、視界が歪み世界が揺らぐ事実を我慢した。キャロルとイーザーは分からないが、俺が長く持たないのは明らかだった。
影たちは襲ってきたのと同様、退散するのもあっという間だった。あ、と思ったときにはもう俺たちの前には何もなかった。
「行ったか?」イーザーはかすかに息を荒げて、抜き身の剣を持ったまま周囲をうかがった。
「みたい」キャロルが緊張を解いた。それを聞いて俺はその場に座り込んだ。本当は倒れてしまいたいと思っていたが、何とかそれは思いとどまってスタッフで身体を支える。
「無駄な動きが多いからそこまで疲れるんだ」酸素を必死の思いで渇望する俺へイーザーが言う。何て奴だ。こんなにがんばったのに。
「アキト、悪いけど早く立って。進まないとまた影に襲われる。あいつらは不利と知っていったん引いただけなのだから」キャロルも言葉使いは穏やかだったが、要求している事はイーザー以上にひどい。でもいかにもありそうなことなので泣く泣く俺は立ち上がった。後ろから熱風で俺の短い髪がなびく。俺は後ろを振り返った。建物の残骸から赤い舌が出ていて暗い通路を照らしている。ミサスはその光景を少し離れた所で見ていた。影を警戒しているのか、別の事を考えているのかそれは俺には分からない。
フォールストがうずくまっていた。涙目になって自分の足首をさすっている。よく見えないけど、これはひょっとして。
「フォールスト、ひねったのか?」イーザーが聞いた。
「そうみたい。痛いよ」「歩ける?」
「ちょっと、無理。誰か肩貸して」
イーザーは剣を持ったまま、無言でフォールストに手を伸ばした。もし転んだ時にひねったんだとしたら、その後キャロルに手を引かれて走ったはずだから、相当はれているはずだ。
「フォールスト、平気か? 走れるか?」「平気じゃないな、これは」
本人の代わりにイーザーが答える。「体重のほとんどが俺にかかっているぞ。1人じゃ歩けないじゃないか」
キャロルは肩をすくめた。
「まいったね」「キャロル、少しどこかで休もう。フォールストもそうだし、俺たちも自覚が薄いが慣れない場所で消耗している。アキトを見ろよ、へろへろだ」
そこで俺を例えに出すのは正しいけれどもやめてほしい。
「あたしもできるならそうしたいわよ。でも、どこで? 座り込んだ途端に雪崩のように化け物が来るのに」「どこかに隠れられないか?」
「四六時中見張られているからできない」
「いや悪かった、俺の言い方がよくなかった。隠れなくてもいいからどこか一時的に避難して休めないか?例えばどこかの家を借りてそこでじっとするとか」
キャロルは腕を組んだ。
「悪くないとは思うけど、自分から袋小路に入るのはぞっとしないわね。追いつめられたらどうしようもない。あたしたち3人で何ができる?」「警護は俺がやる」
炎を見るのをいつの間にか止めたミサスが足音なく寄って来て口を開いた。いかにも何でもなさそうな様子に俺は危うく、その意味を捕らえ逃がす所だった。
「あ、そういやもう1人いたっけ」キャロルも何の気なしに流して、ミサスをにらみまわす。
「あんたが?」キャロルはこんな時にまで不審を隠そうとはしなかった。その悪意に俺は胆を冷やす。まるで子どものように小柄な黒翼族へ、たたみかけるようにミサスが言葉を飛ばした。
「できるの? あたしたちを守るために限られた出入り口を1人で守り、いつ敵が来るか分からない中すごし、なおかつそこからあたしたちを出せると言うの?」「できる」
ミサスはびくともしなかった。
驚いた事に、キャロルは笑いかけた。俺の知る限りキャロルがミサスに友好的な態度をしたのはこれが初めてだ。その表情はいつも俺たちへ向けているそれよりずっと不敵で大人っぽかった。
「なら、それで行こう。さっさと休憩場所を探さないと」ああ冷や冷やした。
「おいアキト、今のはなんだったんだ?」いまだに何も知らないイーザーがこっそり俺に聞く。キャロルの敵意に呆気に取られているイーザーに俺は後で説明すると約束した。
廃都にはその気になれば身を隠す所などいくらでもあった。影たちが四方から迫っていなければ俺でも消えることができただろう。すぐにキャロルは小休憩にぴったりの場所を見つけ出した。瓦礫に埋もれかけた地下の部屋で、入り口は人1人通るのがやっとだが、そこから下に続く空間は10人はゆったりくつろげるほど広かった。
「つぶれた酒場ってとこかな」懐中電灯で散々照らしてみてから、イーザーが満足そうに言った。
「入り口が崩れない?」「大丈夫、これ以上は崩れない」
変な所でキャロルが自信たっぷりに胸を張る。
「じゃあ、あたしから入るね」キャロルは身軽にもぐりこみ、すぐに姿が見えなくなった。
「ほれ、アキト」「え、次俺?」
「当たり前だろ。ミサスは当然最後だし、俺はフォールストと一緒に行かなくっちゃいけないんだ。身が軽いものから入れよ」
「へぇい」
俺はスタッフをつっかえないように入れて、自分も進んだ。暗い視界がさらに暗くなり、俺は階段をほとんど手探り足探りで歩く。ようやく目が慣れた時は階段が終わっていた。
「着いたよ」「分かった」
まずフォールストがよたよた、次にイーザーが行き、再びフォールストの肩を支えて階段を下りようとした。ぎょっとフォールストが振り返る。
「イーザー!」爆音がきっかり2階響き、天井から塵が小雨のように振ってきた。音の前にミサスの声がしたのは気のせいではないだろう。えっと。フォールストは口の中で呟いた。
「全言撤回。ミサスの気分しだいでこれ以上崩れるかもしれない」よせキャロル、それは洒落にならない。
「なんていうか、ミサスってすごいな」「当たり前でしょう。でなきゃ伝説的な魔道士になっていないわよ」
「俺たち、この前はいつでも死ねる状況だったのか? ひょっとして」
「なにをいまさら」
「ひぇぇ」
最後はミサスだった。ミサスは俺たちの所まで来ず、数段下った所で座り込んだ。いつでも入り口を見れるようにだろう。何を考えているのかいまだによく分からないが、自分のやるべき事はきちんと果たすつもりのようだった。
「清潔なのはいいけど、何もないのも寂しいわね。何か食べ物でもないかな」キャロルがその辺をあさり始めた。おい。
「フォールスト、足を見せてみろ」フォールストはその辺に座り、「うん」とゆっくりサンダルを脱ぐ。俺はそれをイーザーの後ろから見て顔をしかめた。思った以上にはれている。
「イーザー、魔法ですぐに治しちゃうのか?」「なるべくそうしない方がいいんだけどな。今はしょうがない」
「あ、そうだ」
俺はかばんの中から湿布薬を取り出して、箱ごとイーザーに渡した。
「何だこれ」「湿布。張って使うと打ち身、捻挫、筋肉痛によく効く。使うか?」
イーザーは紙の放送を何回かひっくり返して観察して、いきなりそれを引き裂いた。紙が破ける軽い音と共に6枚組みの白い湿布が床に落ちる。
「おいっ、イーザー開け方知らないのか?」「え、これ紙だったのか? もったいない」
「俺は湿布の方がもったいないよ」
強烈な湿布集の中、俺は湿布をかき集めて回収し、ついでに1枚ビニールをはがしてフォールストの足に張った。フォールストは物珍しそうにそれをしばらく触っていたが、にっこり笑って「ありがとう」と言った。
「すぐにはよくならないけど、2時間もすればきっと楽になるよ」「アキトのかばんて、本当に変な物が入っているわね」
変な物とはなんだよ、キャロル。俺は反論の代わりに壁に寄りかかった。どっと疲れが出てくる気がする。
「少し寝たらどうだ。今何時だか分からないけど、そろそろ夜だろうしな」俺は自分の腕時計を見た。12時を回っている。もちろん夜の12時だ。いつの間にこんなにたったのか、眠くなるはずだよと思いながら俺は目を閉じて睡魔に身をゆだねた。
気がつくと俺はやけに明るい所で倒れていた。
「何でこんなに眩しいんだ? えっと」起き上がってみてその理由が分かった。今が明るすぎるのではない、今までいた場所が暗すぎたのだった。
「ええっ?」俺は玄関をぬけて外へ出た。何の変哲もない、俺の住んでいるマンションの3階だった。俺は日本に帰っていた。
「なんでだ? そんな、久々に。今までずっと音沙汰なしだったのに」俺ははっとして呼びかけた。
「おい、声、いるか?」(ああ)
懐かしくとも言えなくもない声がすぐ隣から聞こえた。
「どういう事だよ。今まで散々ほったらかしにしておいて」(カーリキリトの生活が長くてぼけたか? こんな所で大きな独り言を言ってどうする)
「独り言じゃないって」
言い返してから俺はふと気がついた。自分の家の前で大声で何もない場所に向かって喋っている俺。これが危ない人でなくてなんなんだろう。俺はそそくさ自分の家の中に戻った。
「誰にも見られてないよな」(安心しろ。平日の午後4時に家にいるものは多くはない)
「見られてないって言っているんだよな」
(恐らく平気だろう)
「恐らくって。ま、いいか」
俺は気分を切り替えた。最近切り替えが上手になっている。
「で、何のつもりだよ」俺はこっちへ戻った時が土足だったので玄関で靴を脱いで、改めて部屋へ入った。土足ですでに歩き回ったので家が泥棒が入ったかのように汚れている。やれやれ、雑巾どこだっけ。
(悪いが、ここに長く居させるつもりはない。明日までに支度をしておけ)「自分勝手な奴」
雑巾は洗面所にあったが、ばけつがどこにあるかが分からない。仕方なく風呂桶に水をくんで雑巾をしぼる。
「でも、あっちに居るイーザーたちには悪いけど、やっぱり娑婆の空気はいいなぁ。あっちと来たら、渋滞中のトラックの群れにも劣らない空気のどよみだったんだから」(堪能しておけ。そのために呼んだんだ)
「ひょっとして、俺のために戻ってきたのか?」
(その通りだ。ただでさえ魔法に不慣れなお前にとって、あの影の世界はよくない。休息を取る必要がある)
「感謝していいのか悪いのか。そうだ、あれは本当に違う世界なのか?」
(無数に存在する世界のうちの1つだ。カーリキリトよりたちが悪いぞ。お前の考えるような生き物はいないし、世界全体が崩壊しかけていて原住民はすでに存在しない)
「なんて所だよ、全く。あれって本当に魔法で呼ばれたのか?」
(そうだ。魔法を甘く見ないほうがいい。たった1つの魔術が全てを破壊する事もある)
「もともと甘く見ていないよ」
そこから離れてみると、本当に危ない所にいたもんだ。今更ながらに震えが来る。
(怖気ついたか?)声が意地悪くからかった。
「そんな事は」ない、とは言い切れなかった。言ったらそれは嘘になる。改めてじっくり考えてみると、五体満足で元気な俺に拍手をしたいような危機だった。両腕だってよく見ると軽いやけどを負っているかのように赤くなっていて痛い。
「普通の人間なら、怖くなって当然だろ」俺は方向を変えた。(そうだな。元来お前は何でもない、ただの高校生なのだから)
「今だってそうだ」
(その通りだ。どうしたい。逃げ出すなら今のうちだぞ)
「えっ」
思いがけない提案だった。今までカーリキリト旅行が俺の意思で左右できた事はない。強制的に行かされるのに俺はいつの間にか慣れていた。
「やめる? いいのか?」それはとても魅力的な考えだった。もしやめられるのだったら影にびくつく事もなく、いやそれどころか魔法とかに頭を悩まされる事も、あてもなくあちこちさまよう事もない。いつもと同じ、普通に高校生をして平和に過ごせる。もし逃げられるのだったら。
「いや、やめておく」俺は首を横に振った。それは確かに俺にはおいしい話だ。でもイーザーやキャロルはどうなるんだろう。誰がフォールストを守って、ぎりぎりの平衡であの闇の街を進むんだろう。誰がランタンよりはるかに使いやすい懐中電灯を使うんだ?
「他の時ならともかく、今はやめられない」(そうか、好きにしろ)
「そうするよ。そうだ、まだ聞きたい事があった」
(なんだ)
「魔法を使ったあいつは誰なんだ。キャロルは法衣を着た奴に見えたけど、俺には白い服の男に見えたんだ」
(気をつけろ!)
声は怒鳴った。いきなりなので頭がくらくらする。記憶にある限り、声は大声はおろか、慌てたり焦ったりした事は今まで一回もなかった。
(反逆者ラスティアを警戒しろ!)それを最後に、声の気配はとだえた。
翌日俺は学校へ行った。いつも通り、と言いたい所だったが、いつもとちょっと違う所があった。普段は俺は金を昼食代ぐらいしか持たないが、今回はお昼を5回は食べられるほどの金を財布に放り込んでいた。俺はバイトをしない代わりに金を使わないので資金はたっぷりある。
自転車を込んでいる駐輪場の隙間に押し込んで、4階の教室へ小走りで行く。少し前まで息を切らせて行った道を平然と登って、HR開始直前の教室に飛び込んだ。もう6月の末で期末試験が近いからか、来ている同級生はほとんどノートや教科書を開いていたり、黒板に張ってある試験日程を写している。
「みんな真面目だな」それでもクラスの4割は来ていない事に俺は安心して、廊下にあるロッカーへ行く。「東南注意」の張り紙を横目にロッカーの鍵を開けて、今日使う教科書を取り出そうとして、ふと気づいた。
そういや、俺、試験勉強していないよな。
いや、そもそも俺が最後に勉強したのっていつだ? 俺は背筋を凍らせながら自分の机へ戻り、恐る恐るバインダーを開く。
「……」頭の中で稲妻が走った。分からない。ぜんっぜん分からない。夏休み明けよりなお悪い。ざっと一ヶ月、宿題はおろか日本語を読まない生活をしていたからノートを読むのもおぼつかない。俺の顔から音を立てて血の気が引いた。
「やっば」期末まで後1週間と5日。いつもの俺なら1週間前から試験勉強を始めるのだが、今回は今すぐ初めてもどうだか。いや、そもそも今日の授業はどうする。古典も数Tも生物もオーラルも地理もみんな忘れたぞ。できるのは体育だけだ。体育もルールを忘れているかもしれないから、ひょっとして全滅か?
やばいまずいどうしよう、と机で軽く恐慌に陥っている間に、いつの間にかHRが始まった。いつもなら担任の井上先生がちょこちょこ話してすぐ終わるのだけど、今日はそうではなかった。
「それから文化祭実行委員会は3時20分に生物室で会議があるから行く事」例のごとく俺はそれを完全に聞き流した。そんな事より古典の復習をして少しでも勘を取り戻さなくては。
「大谷、ちゃんと聞いているのか?」「え?」
最近ずっと下の名前で呼ばれ続けていたので忘れかけていたが、大谷とは俺の姓だ。でもなんで強調するんだ?
「肝心の実行委員が聞いていないでどうする」「俺?」
ちょっと待て。俺は素早く記憶を探った。あれは4月の入学当初、クラス内での係り決めに俺は何を選んだっけ?そうだ、文化祭の前にちょっと集まって話すだけでよさそうな文化祭実行委員会に決めたんだった。すっかり忘れていた。
「ちゃんと聞いています」俺は嘘をついた。でもまだ6月だっていうのにもう集まらないといけないのか。早いな。
HRはそこで終わり、俺は再び、古典をどこまでやったのかを思い返そうとした。
ありがたい事にどの授業でも俺は指されなかった。俺は今日は黒板のノートを取るだけで、もっぱら教科書をめくって復習に励んでいた。いつもなら寝ているオーラルの時間までそうしていたので、放課後になる頃にはぐったり疲れていた。
できるならこのまま帰っちゃいたいが、そういう訳には行かない。まずは集会だ。俺は委員会の集まりなんて適当にさぼる気でいたが、初回くらいはきちんと出ないとまずいだろう。俺は生物室へ行った。
生物室は鳥小屋のように汚かった。日坂高校はふるいから高校全体的に汚いし、滅多に使わない専門教室はそりゃもうひどいそうだ。その中でもこれは極悪の部類に入るだろう、どれだけ掃除をしていないのやら。始まる5分前に俺は入り、それから15分後、かっきり10分遅れて話し合いは始まった。
「じゃあまずは役員を決めないとな」生物の甲村先生が黒板に委員長、副委員長、会計、書記と書いて教室の左端の椅子に座る。
「誰かやりたい人はいないか」誰も手を挙げない。当たり前だ。そのまま先生はじっと待つ。3分ほどして誰かがおずおず手を上げる。長い髪の、目立たない女の子だった。
「会計をやってみたいです」「名前は」
「桜木です。1年6組の」
先生は黒板に桜木と汚い文字で書いた。
「他には」誰も手を挙げない。そのまま数分が過ぎた。その重い雰囲気は気の弱い人なら自分がと言ってしまいそうなほどだった。
「そうか。荷沢、どうだ?」「あたしですか?」
後ろの席の、肩までの短髪の女の子が目を丸くした。小柄だけど顔つきははっきりしていてかわいい。大きな髪留めをつけているその人はどことなくキャロルに似ていた。
「去年もやったんだろう? 委員長なんてどうだ」「……はい」
機嫌がよくなさそうに荷沢さんは答えた。ひょっとしていやだったんだろうか。
「じゃあ荷沢、司会を代わってくれ」「はーい」
荷沢さんは前に出て、委員長の空欄に自分の名前を書いた。
「後は副委員長と書記ですか。やりたい人いませんかー」返事はない。すると荷沢さんは先生とは違う事を言い出した。
「この中で部活に入っていない人、手を挙げてください」反射的に手を挙げてから、すごく嫌な予感がした。入っていないのだから仕方がないが、高校で帰宅部なんてせいぜい俺くらいだろう。
「ちょうど2人か。響、2年だから副委員長やって」「ああ」
お、部活に入っていない奴が俺以外にもいたらしい。いやそうな声の主を俺は振りかえった。背が高く眼が切れ目の、俺より年上の男だった。
「で、手前の人、名前は?」「あ、大谷秋人です」
「じゃあ大谷さんは書記で」
何でじゃあなんだ。本当かと俺は頭を抱えたくなった。ただでさえ色々あって頭痛がするのに、何が楽しゅうてそんな事まで抱え込まないといけないのか。しかし高校で部活に入っていないと言う事は自分が暇だと宣言したような物だ。俺は内心うんざりして「はい」と返事をした。
「じゃあ決まりだな」最後に甲村先生が締めた。
「今日はこれで終わりだ。それから1年生は知らないかもしれないが、毎年実行委員だけで何か催し物をするから、次までに内容を考えておく事」泣きっ面に蜂、弱り目に祟り目と来た。この上さらに芸をしなくてはいけないらしい。出来心で実行委員会になった事を俺は深く後悔した。皆が帰り支度をするのをぼんやり見ながら、俺も帰ろうと重い腰をあげた。まったくうんざりだ。
放課後の衝撃で忘れかけていたが、俺は家に帰る前にスーパーに寄った。小さい頃は母さんとよく一緒に行ったけど、今は牛乳1本も買わない。広い売り場の中に制服を着ているのが俺1人だと分かると恥ずかしくなってきた。気を取り直して買い物籠をつかむ。
とりあえず買う物は食糧だ。俺は八つ切り食パンを取ろうとしてふと止まり、乾パンコーナーに行って6つかごに入れた。周りを見てツナ缶、フルーツミックス缶なども入れる。へぇ、最近はびわまでかんずめになっているんだ。
次は水系だ。2リットルの緑茶とミネラルウオーターをかごに入れる。そういえば前チョコレートを食べて喜んでいたよな。M印の大きな板チョコも買う。
食品コーナーで清算してから次に雑貨コーナーに行った。大きな懐中電灯を購入。本当は果物ナイフも買いたかったのだが予算が足りず断念した。意外と刃物の値段は高い。
重くなったかばんをかついで、俺は自転車で家に飛んで帰った。迎える人がいない家に入り、制服をその辺に脱ぎ捨てて昨日の服に着替える。
(色々買ってきたな)「いきなり出るな、声」
(お土産か? 買うのは初めてだな)
「なんだよ、悪いかよ」
(悪いとは言っていない。照れるな)
特に何の感慨も抱いていなさそうな素っ気ない声が終わると、途端にひどいめまいが襲って来た。予告されていて分かっていたとはいえ、たまらず俺はひざをついて、そのまま崩れ落ちた。
俺は自分のせき込む音で目が覚めた。日本と違ってこっちは空気がどよんでいる事を忘れていた。
「アキト?」フォールストの足を診ていたキャロルが振り返る。丸一日日の当たる所にいたせいか、辺りが暗くてほとんど見えない。大丈夫だと俺は手を振った。
俺は周囲を見た。明かりなき空間でキャロルとフォールストが、別の所ではイーザーが壁に寄りかかっている。高所にある唯一の入り口にはミサスが座っていて、ぼんやり外を眺めているように見えるが、絶対に見かけどおりではないだろう。
「俺はどれくらい眠っていたんだ?」「3時間くらいかしら」
俺の腕時計は5時近く、俺が向こうで家に帰った時間そのままだった。こっちの時間に時計を修正する。
「フォールスト、足は?」「もう痛くないよ。すごいね、あの薬」
にこにこフォールストは足に触れる。あれ。
「靴はどうしたんだ?」かかとの高いサンダルの代わりにフェルト靴のような物を、いつの間にかフォールストは履いていた。
「靴は荷物の中に入れたよ。キャロルが靴代わりに布を巻いてくれたの」「痛んだ足であんなのをはいていたら走ろうにも走れないからね。ただでさえ遅いのに」
キャロルは肩をすくめた。
「本人の前でそこまで言うなよ。誰もがキャロルみたいに速くないんだから。所でキャロル、腹減らないか?」「いきなり何よ。そりゃ、丸1日何も食べていないんだから減っているけど」
「だろ?」
俺は予想通りだったので少し嬉しくなって、自分のかばんを手元に寄せた。
「でも人間は3日は飲まず食わずでも生きていけるからね」「キャロルは人間じゃないだろう」
「地下道の一族はそれより少し弱いかな。でもないものねだりしてもしょうがないでしょう。アキトも起きたし、そろそろ行く支度しなきゃ」
「それが食べ物があるんだよ」
俺はさっきスーパーで買ったお茶と缶詰を次々に取り出した。もちろん缶切りがなくてもいいように、蓋を引いて開ける缶詰だ。
「取っておいた奴だけど、食べようよ」「何? それ」
「どこにそんな物隠し持っていたの」
フォールストが珍しそうに、キャロルが呆れて缶に寄って来た。イーザーまでも食べ物の気配を感知して起き上がる。
「どうやって開けるんだ、これ」「ナイフは?」
「そんなのじゃ開かないよ」俺は軽々と缶詰を開ける。フォールストが感心したような目で俺を見るも、全く自慢できる事ではない。中にぎっしり入っている乾パンと氷菓子を皆に見せた。
「ビスケットだ。食べてもいいの?」
「当たり前だろ」
俺は広げたポケットテッシュの上にこれをこぼした。3本の手がさっと伸びて手一杯に乾パンをつかみ、がっつくように食べ始めた。
「飢えてるな」向こうで夕飯と朝と昼をしっかり食べてきた俺はとても手出しする気にはなれない。ふと気づいて「ミサスもどうだ?」と声をかけたが無視された。
乾パン4缶、ツナ缶とフルーツ缶、お茶2リットルでやっと3人分の食欲が満たされたらしい。簡易朝食は終わった。
「アキト、これは何? これも食べ物?」「わっ、よせ!」
俺はキャロルの手から乾燥剤をひったくった。あぶねぇ。
「これは乾燥剤で、食べられないんだ」「毒なの?」
「うん、まぁ、そうかも」
「何で食べ物と一緒に入っているのよ」
「これを入れると、食べ物が長持ちするんだ。それに日本語で食べられませんって書いてあるんだよ」
「腹もくちくなったし、もう行こう」
「うん」
いきなり軽くなったかばんを持って俺は立ち上がった。やっと目がここに慣れてきた。
ミサスを先頭に、俺たちは恐る恐る外に出た。
「気のせいかな。闇が濃くなってきている」「あたしもそう感じた」
俺は喋る所ではなかった。闇の向こうからたくさんの視線がじっと俺たちを見ている気がする。いくら呼吸をしても酸素を吸っている気にはなれなくて気分が悪い。隅の角に転がっている物からする臭いを俺は努めて無視した。あれが何か知ったら、きっと俺は平然と歩けなくなる。暗い街のどこかで暗い赤が時々舞った。
「まだ、どっかが燃えているのか」「簡単には鎮火しないわよ。むしろおとなしい方さ。警戒を怠らないでね」
「分かっている」
「……来る」
俺が改めて気合を自分に入れていると、ミサスが見ているんだか見ていないんだか分からない瞳を空へ向けた。来る?
「! 構えろ!」イーザーの方が言うのが遅かったが、ずっと分かりやすかった。おかげでなんとか間に合った。周囲の闇がうねり、波のように盛り上がり、俺たちに向かって崩れ落ちてくる。俺はスタッフで防ぎ、逆に押し返そうとする。
「アキト、よくやった」すかさずキャロルとイーザーが俺の横に並んだ。キャロルは軽やかに、イーザーは真正面から切りかかる。
「きゃあ!」後ろでフォールストが悲鳴を上げた。驚いて振り向くと、ミサスが後方の建物の上にうずくまり、雪崩落ちてくる影に1人で立ちふさがっていた。何か魔法を唱えようとしているが、影のほうが早く迫る。その事はあらかじめ本人にも分かっていたらしく、大きく後ろに飛んで槍を半月に振り時間を稼ぐ。と、槍を持っていないほうの手から黒い球状の物が出現した。俺はそこでキャロルに「前を向け!」と怒られたので何が起きるのかは分からなかったが、耳をつんざく爆音がとどろいたので安心だろう。それにしてもあの槍は飾りじゃなかったのか。
「こいつら、こんなに数が多かったか?」「さぁ」
俺が殴りそこねた影をすかさずキャロルが叩き切った。イーザーが舌打ちをする。
「きりがないな。キャロル、アキト、ちょっと任せた」言うが早いがイーザーは剣を降ろし、無防備になった。
「でっ、何のつもりだよ、イーザー!」慌てて俺が補助に入って、隙ありと寄ってきた影を撃退する。イーザーは一体何を考えているんだ? 今3人でぎりぎりなのにいきなり怠け始めて。2人じゃ持ちこたえられないかもしれないのに。
「しっ、アキト」キャロルが言いたい事がある俺を視線で押しとどめた。「魔法の邪魔しちゃ、駄目」「魔法?」
イーザーはさぼった訳ではなかったらしい。眼はしっかり影たちを見据え、身体の代わりに口を動かす。1回降ろした剣を、まるでかかげるかのように上げ、俺には理解できない言葉を叫んだ。
「?」空気が震えた。背筋が寒くなる。イーザーの周りの影たちは悲鳴と共に数匹消滅し、さらに多くが逃げ出した。
それをきっかけとして、俺たちを襲っていた影は一斉に逃げてしまった。
「なんとか、切り抜けたか」イーザーが疲れたように方の力を抜いた。とはいえ視線は感じるし、ちらちら建物の隅に何かが潜んでいる。また今回も乗りきっただけみたいだ。
「イーザー、今の魔法すごいね、なんだったの?」現金な事に、あっという間に元気になったフォールストがイーザーに尋ねる。
「いや、そう大した物じゃないはずだけど。死の恐れ、不安、そういうのを心に植えつける恐怖の魔法。でもフォールスト、俺の魔法についてあまり聞かないでくれ」「あ、そうなの。ごめん。でもそれでどうしてやっつけちゃえたの?」
「さぁ、それは俺にも分からない」
「概念として、影は精神生命体に近いからだろう」
ミサスが難しい事を言った。そう、と2人は納得したみたいだが、俺には今1つ分からない。それより俺は聞きたい事があった。
「なんだか、影が増えていなかったか?」「え、そう?」
フォールストが首をかしげる。逆にキャロルとイーザーはうなずいた。
「あたしもそう思った」「俺もだ。だから魔法を使う気になったんだ。今までは剣で十分だったのに」
「それは多分、影の世界が濃くなったからじゃないかな」
今1つ納得していないように、それでもフォールストが推測した。
「わたしたちがカーリキリトで元気でここでは苦しいのと同じように、影の世界の影響が濃くなると影たちも元気になるんじゃないかな」「それかな」
俺は低くうめいた。こんな時に声がいたらすぐに答えてもらえるのに。
「ま、それはあたしたちにはどうでもいい。どうしようもないからね」キャロルが適当に足元から3つ石を拾った。
「早く行かないと。フォールストが言った事が本当ならなおさら。あたしたちに出来る事は限られているんだから」その通りだった。
俺たちは息を潜めて進んだ。なんだかもうずっとこの悪い夢のような影の世界をさまよっているように感じてきた。日本もカーリキリトもはるか遠くにあるような気がする。その中で影におびえ、物陰1つ、倒れている人1人にもおっかなびっくり俺たちは進む。生きている物、動く物は俺たちだけで他は全て死に絶えてしまったようだった。そんなはずはない、どこかに隠れているんだとは分かってはいても、そのおかしな幻想はなかなか消えなかった。
「あれだ」イーザーが足を止める。俺も足元を見るのをやめて見上げた。
俺たちの目の前に、巨大な壁が立ちふさがっていた。どんなに登っても終わりを見せず、やがて空と一緒にかすみ消え行く。ここの空気を凝縮して固めたような闇色をしていて、向こう側は完全に見えない。
「これが結界?」せっかくたどり着いても想像していたような達成感はなかった。むしろこんなのをどうやって壊すんだと、絶望がじわじわこみ上げてくる。イーザーが剣を構え壁に切りかかったが、剣は壁に吸い込まれるだけで傷1つつかない。
「これを、本当に壊せるの?」不安そうなフォールストの声は全員の気持ちを代弁していた。ミサスはあまり関心がなさそうに結界を見上げている。
「手間取る。時間がかかる」「いくらかかってもいいわよ。できるのね?」
「ああ」
ミサスはいつもと変わらない歩調で結界を歩み寄った。その律動に合わせて羽根もゆるやかに上下する。後1歩で壁にぶつかるの所で立ち止まり、魔法のための言葉を口にし始めた。
「アキト、イーザー、ミサスを守るように輪を作って。フォールストはその中に。今影が来たら、ミサスの魔法が失敗したら取り返しがつかない」「ああ」
俺たちはミサスを中心に半円状になった。ついでに俺は荷物を地面に落とす。上手く行けばこれが最後だ。荷物に構っている暇はない。
「来るかな?」俺は前をじっと見ながら、誰ともなしに聞いた。
「来るんじゃない?」キャロルが気軽に応える。声は笑っていたが顔は笑っていなかった。
「ここで何事もなく進めば万々歳なんだけどね」「そうだな」
重苦しい沈黙が降りた。
「来ないな」俺は何もないのに安心して気持ちを緩めた。そう気を張らなくても平気みたいだ。
俺たちに囲まれて不安そうに動かずにいたフォールストが突然叫んだ。
「下!」「え?」
ぼけっと聞き返した俺とは違って2人は自分の下を、それぞれ剣で貫いた。甲高い悲鳴がし、足元から闇が膨れ上がった。
「足元に潜んでいた!」「ちっくしょう、知恵つけやがって」
「うわっ!」
俺は殴るよりもとっさにスタッフを両手で地面と平行に持ち、押し返した。影がスタッフの上下からにじみ出る。そこで俺は我に帰り、下部を蹴り飛ばし1歩下がってスタッフを持ち直すと、やたらめったら振り回し始めた。影はそんな俺にはひるまず、上下左右から襲いかかってくる。
「おい、こいつら」気を張り詰めないといけない戦いの中だって言うのに、全員に聞こえるように俺は声をあげた。確信した事があった。
「なんだか、強くなっていないか?」1回殴っただけじゃ消えない、前は引いたところで引かない。それぞれほんの小さな差だったが、それが数に物を言わせた全体ともなれば脅威だった。
「なってる! どう言う事?」キャロルがめまぐるしく動き、剣を影に叩きつける。キャロルはまだ押されてはいなかった。でも長引けば、どうなるんだろう?
「きっと分かっているんだと思う。わたしたちが壁を壊してここを出ようとしている事を。だから必死になって止めようとしているんだよ」静かにフォールストが言った。
「こんなんでも知恵があるんだな」俺は変な風に感心した。とすれば、俺とこいつらって案外同類だったりして。いや違う、俺は無差別に人を襲ったりなんかしない。
「そんな事より、まだか、ミサス!」イーザーが焦りを見せた。剣を振るうのに忙しすぎて、さっきの魔法を使えないらしい。時には腕にくくりつけたバックラーで殴るような、剣士らしくない事をしながら奮闘していた。
驚いた事に、後ろでこんな事になっているにもかかわらず、ミサスは髪の毛1本ほども動揺せずに言葉を紡いでいた。奇妙で美しい響きの音を何度も繰り返し、まるで静かに歌っているかのように小さいながらもよく聞こえる声が影の世界に木霊する。普段めったに喋らないミサスが発信源だとはなかなか思えなかった。
「がっ」俺は持ちこたえられずに2歩下がった。イーザーではないが、まだかミサス。他の2人はともかく、俺はそう長い事もたないぞ。
こんな余計な事を考えていたのが悪かったのだろうか、それとも俺の限界がすぐそこだったのか、俺の横から小さな影が走り抜け、一直線にミサスへ向かった。
俺もキャロルもイーザーも、目の前の事だけで精一杯で何もできない。ミサスは呪文に集中していて振り向きもしない。誰も何もできない。
「やっ」フォールストが、ただ1人自由に動ける楽師は影に体当たりをした。そのまま細っこい腕で押さえ込む。もちろん影も暴れるが、フォールストは動かない。上下に回り、服も影も乱れて、息が荒くなる。誰もが戦力外と見ていたフォールストにこんな事ができるなんて、俺は信じられなかった。
そして。
突然ミサスが口を閉ざした。同時にミサスの目の前の壁が大きくよじれ、ねじれる。そしてそこから光が来た。俺はすぐその認識が間違いだと認めた。壁が薄くなったから外の明かりが入ってきたのだった。
音1つなく壁に亀裂が入る。そこからまばゆい太陽の光がのぞき込む。ひびは見る見る大きくなり、天まで届き、そして壁は崩れ落ちた。
「あ……」懐かしい香りがした。どよんだ空気を清浄な風が払っていく。少し前まで俺たちが歩いていたカーリキリトの大地がすぐそこにあった。
光に触れた影たちは見る見る間に悲鳴1つ残さずに消滅していった。俺たちがここの空気が身体に合わないように、影たちにとってはただの光が身を滅ぼしてしまうらしい。
たった1つの亀裂が結界中に広がり、影を消し去っていく。街に光が戻る。名も知らないどこかからカーリキリトに戻る。結界が消えていく。
「……あ、は」地面にはいつくばった状態で、フォールストが笑った。
「やった、脱出したぞ!」「うまく行った」
イーザーがへたり込んで笑い出す。キャロルが剣を持ったまま俺を抱きしめた。俺は今の感情をどう表現すればいいのか分からず、結果としてだらしない笑い顔になった。
「ミサス、すごいよ。ありがとう」フォールストの感謝にもミサスは反応しなかった。無言で翼を広げる。羽根は流れる風にふかれ、ゆったり動いた。
「ねぇ、みんな」フォールストは起き上がり指さした。そっちを見ると20人くらいの集団が大騒ぎしている。その中で数人が駆け寄ってくるのが見えた。
「なんだ、あれ」「あの天幕についた紋章は……
フォロー王国の物だ」
「何でそれがこんな所に?」俺はぼんやり質問する。
「遅いわよ」
キャロルが腕を組んだ。俺も全くの同意見だった。
「今までの事情を話さないとね」フォールストが言うも、誰も動こうとはしなかった。当たり前だ、全員精も根も尽き果てているんだから。動きにくそうな法衣を着た人物が走ってこっちへ来る。彼らが着いてからでも説明するのは遅くないだろう。俺は勝手にそう判断して地面に座り込み、そのまま寝転がった。