三つ首白鳥亭

−カーリキリト−

赤い山脈 2

「ちょっと待て」

キャロルはイーザーの両腕をつかみかかった。短いウェーブの髪を振り乱して、仰天した俺たちの前で険しい顔になる。

「イーザー……」
「え?」

助けを求めるようにイーザーは俺を見た。俺は助けられない。なぜキャロルがこのような奇行に走ったかさっぱり理解していないからだ。

「イーザー、今何をした?」
「何をって」
「何をしたか聞いているの」
「何だどうしたキャロル。俺は何もしていないが」

当たり前だが詰め寄られたイーザーは目を白黒させる。俺も同感だった。特にいけない事も不愉快になる事もしていないと思うのだが。何かキャロルにとってすごくいやな事があったのだろうか。

「あのなキャロル、よく分からないけど」

とりあえず冷静になるように諭そうとしたら、

「アキト、寄るな」

俺と同じ歳の女の事はとても思えない声だった。その迫力に押されて俺は後ずさる。何なんだ。

「手が冷たい」

それがどうしたというのだろうか。この天気だ、身体の端末である手は多少は冷えていてもおかしくはない。イーザーは自分の手を見た。

「俺は別にそんな」
「震えているじゃない」

確かに。言われるまで気づかなかったが、無意識にかイーザーは両手をこすり合わせていた。キャロルに指摘されて慌てて離すも、その両手は小刻みに震えている。

「寒いの?」
「……まさか」

会話としてそれは成り立っていなかった。イーザーの目が大きく見開かれる。キャロルは静かに詰め寄った。

「疫病に感染したか」

決定打だった。俺はキャロルが何を言っているのか、ずいぶん長く分からなかった。

「キャロル? 何を言っているんだ?」
「アキト、今は夏、雨が降ろうと寒くはないよ」

淡々と、キャロルは手袋を取り、俺の額に長い爪が生えている手を触れ、逆手でイーザーに触れた。

「まさかそんな」

俺はイーザーの手を握ってみた。そんな事がある訳ない。

「アキト!」

キャロルの怒声より早く、俺の手は反射的にイーザーから離れた。

冷たかった。真冬の野外で数時間静止したらこの体温になるだろう。でも今は冬ではない。

「えっと。冷える疫病……?」
「まさか」

イーザーはそっとキャロルの手を除けた。

「少し疲れているだけだ。大した事はない。休めばいつも通りの体温だよ」
「イーザー」
「うるさいな、大した事ないって!」

怒ったようにイーザーはキャロルを振り切り、率先して山を降りようとした。

「イーザー、下の街に疫病をばら撒く気?」

イーザーは立ち止まり、暗い表情で振り返る。

「イーザーの言う通り、疲れていただけとしよう。それでもやっぱりその状況では進めないわよ。いったん集落へ戻って半日でいい、休もう。アキトも連日の稽古でへなへなだし」

もちろん俺は夜はたっぷり休養しているので元気であふれ返っている。それでも俺は何も言わず、キャロルの見え透いた嘘に付き合う事にした。

長い沈黙の後、やっとイーザーは「ああ」と答えた。顔は青白く血の気が引いていて、今まで俺が見た事がないようなくらい表情だった。俺は言うべき言葉が見つからず立ち尽くした。


意気揚々としていた行きに比べて、帰りのなんと静かな事。誰も何も言わず、集落へ戻る道は長く重かった。俺は何回か大声で喚き叫んでやりたいという衝撃にかられつつ、そそくさと集落へ向かった。

集落の門は2回目だからか、それもトイーザーの顔を覚えていたのか、極めてすんなり通してもらった。そのまま3人で土神殿へ、と思っていたが、キャロルがそうはさせなかった。

「アキトは風神殿へ行っていて。後で報告するよ」
「何で俺だけ別行動なんだよ」

当然、俺もイーザーが心配なんだと抗議した。

「ねぇ、アキトまで感染したら、あたしはどうすればいいの?」

キャロルの真顔の反論に俺は絶句した。その隙に決定事項となり、俺はすごすごもうおなじみの風神殿へ1人で行き、俺は床に倒れた。何か考えようとするもまとまらない。俺は混乱していた。

「ええっと? どうすればいいんだ、一体」

焦りながら俺は自問した。

まず、落ち着け。俺はなぜか気分が悪くなって吐き気がこみ上げてきたが、表面的にでも平気な振りをしようと我慢した。それから? よく考えるんだ。

何から? 今分かっているのはここに疫病が流行している事、治療に当たっていたイーザーもそれに感染したらしい事、対応策は下の街から医者なり魔法使いなりを連れてくるか、逆にこっちから行くか。でも医者を連れてきても、きちんとした治療をしてくれるのだろうか。中世ヨーロッパでも医者はペストには無力で、かかったらお終いのようだった。魔法は? 一見万能そうだが、でも下山の時にイーザーが言っていたじゃないか。結論としては、そっちの方面は希望がない。

「何か、他の方法は」

そうだ、日本! 俺が帰ればいいんだ。向こうの病院にイーザーを連れて話をして…… でも、俺の意思では動けないのだしイーザーを連れて行けるかどうか。

「おい、声!」

無駄だと理性が止める。でも感情は止まらなかった。

「どっかいるんだろ! 俺とイーザーを日本に戻せ! 今まで散々やってくれたのだからそれくらいいいだろう! なぁ! ……頼むよ、返してくれよ……」

俺は倒れこむように床に座り込んだ。

「お願いだから…… ここに来たのは俺のせいだから、助けたいんだよ…… 恩があるんだよぉ」

何の気配も出現しない。不意に俺は目頭が熱くなった。何も出来ない自分が嫌いで憎い。こんな事なら、日本でもっとよく調べておけばよかった。向こうで声を呼んで、脅迫してでもどういう事が聞き出せばよかった。こんな事なら。

「あ」

図書館で思いついた。この疫病は風土性伝染病って誰かが言っていたよな。突発の奇病じゃないんだ。と言う事は昔もこの病気があったと言う事になる。そのときの資料か何かが残っていれば何か分かるかもしれないし、運がよければ治療法の検討もつくかもしれない。

さっきまでの落ち込みはどこへやら、俺は雲まで登らんばかりに浮き上がった。我ながら、どうして気づかなかったのだろう。うきうきしている間にキャロルが帰ってきた。その表情は陰鬱で、俺を認めると軽く手を上げた。

「アキト。イーザーをここにおいて、ひとまずクレイタまで一緒に戻るよ」
「キャロル、そんな事よりもいい事考えたんだ、聞いてくれ!」

じっとして入られない。俺はキャロルがここまで来るのを待ちきれずに神殿から飛び出し、早口で自分の案をまくしあげた。キャロルは目を丸くする。

「と、言う訳だ、どうだろう」
「……っふ」

熱意溢れる俺に、キャロルは薄く笑った。どう思ったのか、何を意図したのか分からない謎めいた微笑だった。俺は少なからずむっと来た。自分で名案だと思った提案を一笑されてはたまらない。

「何だよ、何か文句があるのか」
「いえ別に。いいんじゃない、やってみよう」

キャロルは今度はまじりっけなしのかわいらしい笑顔で同意してくれた。その態度の変化に俺は面食らう。

「何て顔しているのよ。自分で言った事でしょう。それを見てみよう。書物なんて土神殿か集落の長あたりにしかないでしょうから、そこへ行こう」
「そりゃいいけど、キャロル、お前反対じゃないのか?」

少なくとも賛成だったら笑わないだろう。

「そんな事ないわよ。さ、行こう。土神殿より長の方かな。時間制限があるのだし、急ごう」

キャロルは強引に俺の腕を組んで引っぱった。俺はその豹変に戸惑いながらもついていった。

集落の長とキャロルの交渉の末、俺たちは物置のような小さい土造りの離れの部屋の一角、立った本棚1つ分しかないぼろぼろの本の前にいた。そして俺は衝撃の事実を思い出していた。

「キャロル、そういえば俺は字が読めない」

ここでの会話はどういう仕掛けか平気なのだが、読み書きとなると俺は完全な文盲となるのだった。当然ながら、キャロルはあきれ返った。

「アーキートー。自分が読めないくせに本を読もうなんて考えたの?」
「いや、日本では読めるからつい」
「忘れる? そんな大切な事。普通は忘れないわよ、何考えているんだか」

俺は反論できなかった。

「だったら風神殿に戻って待っていてよ」

いじめるのに飽きたのか、さっさとキャロルは俺を解放した。

「集落の規模の割りになかなかの書物だけど、1日2日もすれば読みきっちゃうから、しばらく引っ込んでいて」

これで? どんな非読書の家庭でももっと本は置いてあると思うぞ。

「へーい」

否もおうもなく、俺は家を出た。天気はまた小雨となっていて、俺は傘もなくすぐにぬれた。髪も服も湿り気を帯びるが、それがかえって心地良い。

「あ、そうだ」

俺はふと土神殿の事を思い出した。イーザーに会いに行ってみようか。イーザーのように感染が怖いが、さっきまですぐ横にいたのだし、そばにいるだけでうつるというものでもあるまい。他にやる事もなかったから、俺はその足で土神殿に向かった。

少し以外だったが、土神殿だと思われる建物は混んでいた。といっても街角のようなにぎやかさではなく、病院のような、静かにしていなければ行けないけれどもどうしても音が出てしまうにぎやかさ。なんだか気分が滅入ってきた。忙しそうに走っている手伝いらしい人に尋ねて、イーザーの居所を聞いてみた。胡散臭そうに見られながらも廊下の奥の突き当たりという大雑把な返答を得て、俺はそれを頼りに進んだ。廊下を行くと、どうしてもドアが開きっぱなしの部屋の中が見えてしまう。どの部屋も粗末な寝台がしかれて、分厚い布団の中で凍えるように震えている老若男女関係ない人々が目につく。俺は慌てて目をそらし、先を急いだ。なぜか生理的嫌悪と恐怖を味わっていた。

最後の1つは薄暗い倉庫だった。埃が鼻につき、なんだかむずむずする。

「どこにもいないじゃないか」

一番奥はここのはずだが、イーザーどころか人がいるようには見えない。俺が指示を聞き間違えたのか、それとも嘘をつかれたのか。俺は首をひねった。

「おい」

聞きなれた声が荷物の向こうから聞こえた。

「何でここにいる?」
「そこにいたのか」

俺は荷物を大きく迂回して、イーザーが壁にもたれかかっているのを発見した。

「いや、ちょっと様子を見ようとおもって」

俺は内心驚きながら、問いかけに遅れて答えた。皮鎧もマントも外し、布に包まっている姿は普通の人となんら変わりがない。呼吸は浅く、目は熱っぽい。それでいて自覚がないように震えている。

「様子を? キャロルが怒るぞ」

それでも、なるべくいつも通りにイーザーは言った。俺も何気ないよう努力する。

「いいじゃないか、別に」
「アキト。確かにキャロルは口うるさいけど、今回ばかりは完全にあいつが正しい。今すぐ帰れ」
「まぁまぁ。何でイーザーはここにいるんだ? ここ物置だろ」

俺がぎこちなく話題をすり替えた。

「病室はもう一杯なんだよ。だから俺はここにいるんだ」

疲れたようにイーザーは毛布に顔をうずめた。

「でも、すぐに空きは出るだろうか」
「! イーザー!」

俺はすぐにその意味を悟り、大声を張り上げた。

「縁起でもない、そんな悲観的な事言わないでくれ!」
「18日から20日だ」

俺は虚を突かれた。

「何だそれ」
「しばらくここで看護していたからな。話を聞いたんだよ。症状が現れてから20日生きられた者はいない。俺はよそ者だから、もっと早いかな」

人事のように声を落として、イーザーは呟く。

「そんな事言うなよ、イーザー。どうしてそう悪い方悪い方に考えるんだっ」
「ならどうやっていい方に考えろって言うんだ! 気休めはよせ!」

俺たちは現状を忘れて互いに怒鳴りあった。俺は言った途端に後悔する。イーザーも口をつぐんで俺から目をそらす。

沈黙が俺たちにのしかかった。

「あー、怒鳴って、悪かった」

しぶしぶ俺から折れた。

「でもキャロルだって今村長さんの家で治療法探しているし、俺だって出来る範囲でがんばるから、絶望するのはあれだぜ」
「どんな技術も、どんな魔法もどうしようもないよ。お門違いだ」

俺はまた腹が立ってきた。ならどうしろって言うんだ。

ん?

「それにキャロルが何とかしてくれる訳がない。きっぱり言われたからな、アキトのために俺を見捨て」
「イーザー、そういや変な事言っていなかったか?ペインがいればって」

イーザーの言いかけた事を全然聞かずに俺はさえぎった。胸の奥がざわめく。

「ペインって、イーザーの昔の友達だよな。そいつがいれば何とかなるのか? どこにいるんだ?」
「灰エルフの森」

悲しきや、返事が帰ってきてもここの土地勘が全くないのでどこを指しているのか分からない。

「プラダ・レクサク連合国の聖レイファ国、沙漠国ナーシェッドの狭間にある灰エルフの森、そこにいる。歩いて1月半はかかる」

遠い、遠すぎる。歩いて往復3ヶ月じゃないか。

「連れてくるのは無理だよ。……ちくしょう!」

不意にイーザーは土壁を殴りつけた。自分自身の勢いでよろめく。

「冗談じゃない、こんな所で冥の門へ向かってたまるか。剣士に、強い剣士になるために村を出たのに。せっかく腕を磨いていたのに。今までいくつもの危機を、皆乗り越えてきたのに。こんな所で…… 死にたくない、死んでたまるか」

イーザーは俺をにらんだ。座った血走った目だった。

「出てけ、とっとと出てけ! 死にたいのか!?」

まるで八つ当たりだ。全くイーザーらしくない。でも俺ももう限界だった。これ以上ここにはいたくない。

気がつくと、逃げるように風神殿へ走っていった。なぜか視界がぼやけた。


混沌とした思いを抱えて、俺は風神殿から空を見上げていた。ぼんやり1人でいるうちに雨が止み夜になった。湿度を含んだ風が肌に冷たいが、俺は何もする気になれずに空を見上げる。まだ空の大半を占めている雨雲の向こうから、それでも白い月が見える。満月に近い月を見上げながら、俺はこの世界にも月がある事を感謝した。空を見上げて星しかないのは寂しい。

月の下で俺は考えた。頭の中に失望、不安、絶望、狂おしいほどかすかな希望、それらが回っている。なんだかんだで親切なイーザーに俺は思っていた以上に頼っていたようだ。1人きりで外国に来たような心細さを俺は感じていた。

「まいった。俺はショックを受けている」

口に出してみた。薄汚い床に寝転がる。考える事は山のようにあるのに意味のある事は考えられない。頭の中が空っぽになったみたいだ。

「そうだ」

誰もいない神殿にいるうちに、俺はキャロルのところまで行こうと思った。たとえからかわれても独り言よりはましだった。俺は起きて、月明かりしかない、びっくりするほど暗い集落を歩き始める。都会とは違い明かりがないのでおっかなびっくりだったが、それでも着いた。

そっと音を立てないようにドアを開けようとする。扉は閉まっており、ドアの隙間からは明かりがなかった。

「まさかキャロル、寝ていないか?」

俺は不安になってきた。こんな時に安らかに寝るような奴ではないとは思うけど、俺も寝てはいけない授業中に居眠りをするんだ、ひょっとして。中に入ろうかと思うにも鍵がかかっていて開けられないし、こんな時間に騒いだら近所迷惑になる。

「こんな時間に外で騒いでいるお馬鹿さんは誰だ」

何のためらいもなく、離れは開いて中からキャロルが俺を向かえた。

「て言おうとしたら、それがアキトなのだものね。やれやれ」

いや、キャロルは相手が俺でもそう言うだろう?

「入りなよ、アキト。何の用なの?」
「ああ、いや、特に用はないけど」

中は昼間とはうって変わって散らかり放題で、足をどこに置こうか迷った。本の量は少ないが、部屋も机も小さいので見事に散らかっている、窓が大きく開いていて月明かりが部屋に注がれていた。そして机の上にはランプも明かりもろうそくも、もちろん電灯もなかった。俺は内心首をひねった。

「キャロル、明かりは?」

謎はすぐに解消すべし。俺は正直に尋ねた。

「月明かりがある」

なんとも風流な答えだった。

「キャロルゥ、昔の苦学生じゃないんだから、月明かりで読書はよそうぜ」
「何言ってるの、油もろうそくも高いのよ。第一あたしは地下道の一族だからね、明かりはこれで十分なの」

何だそれは。俺はきょとんとした。

「アキト、あたしたちは人間とは違って、少しの明かりでも昼間のように見えるの。暗視って奴よ。だから月明かりでもいいの」
「へぇ、すごいな」
「獣人ならそれほど珍しくもないわよ。あたしからしたら、どうして人間はこんなに明るいのに見えないの?」
「と言われても」

そういえば、猫は明るい所と暗い所では瞳孔の大きさを変えて調整するし、闇を怖がるねずみなんて聞いた事がないな。納得する俺の前でキャロルは座椅子に座り「で、何の用?」と聞いた。

「いや、単に進み具合はどうかなって」
「あんまりよくない」

しおり代わりの布を除いて再びキャロルは本と向かい合った。ぐねぐねした文字で一杯のページを眺めては次にめくる。

「疫病は大体50年から80年周期でこの山脈を中心に発生している。下の街まで広がったみたいね。これは下山してもまずいな。治療法は記されていない、ただ」
「ただ?」
「70年前の最後の周期に治療師が出現したそうよ」
「すごい、大進展じゃないか!」

治療師がいたと言う事は治療法もあると言う事になる。キャロルはまぁまぁと手を振った。

「興奮しない方がいいわよ」
「これが興奮せずにいられるか!? で、具体的になんて書いてある?」
「特に何も」
「へ?」
「だから、何も書かれていない。治療師が出現し、その手をかざすだけで病は回復した、それだけ。その治療師の名前も出身も、もちろん治療法もない。おまけに次ページにはなにやら宝石の事について長と女が話し合っているし、がせ臭いね」
「手をかざしてって、魔法か?」

違うでしょ、とキャロルは上の空で言った。

「魔法なら言葉が必要よ。それに、だったらとうにイーザーが」
「いや、違う、別の奴だよ」

なんだか俺は心拍数が跳ね上がってきた。唾を飲み込む。

「キャロル、魔法と精霊術って、どう違うっけ」
「あたしはどっちも使えないから細かい事は分からないけど、言葉とシンボルが必要なのが魔法、才能が必要なのが精霊術。で、アキトはこの調子が精霊使いだと思っているの?」

やっぱりキャロルには分かっていた。俺は「ああ」とうなずく。

「違うと思うけどな、魔法で何ともならなかったのに、精霊術でどうこうできるとは思えない」
「でも、イーザーがペインなら出来るって言っていたんだよ」

思わず俺は身を乗り出した。しぃ、とキャロルが声を張り上げた俺をいさめる。

「ペイン? 昔のイーザーの友達の? 灰エルフの?」

俺は灰エルフが実際にどういうものか知らない。でも首を上下に振った。

「灰エルフ…… 火使い…… 凍える疫病」

キャロルは足爪で床を引っかきながら片手で頭をかきむしった。床に何本もの線が出来る。

「おいキャロル、聞いているか」

俺は不安になってきた。と、キャロルが俺の顔を覗きこむ。

「聞いてないのはアキトでしょ」
「俺?」

何で俺なんだ。よく分からない。

「……今度は無断で土神殿に行かないでよ。感染しても知らないよ」
「あ、その事か。悪い、でも」

むぎゅ。

俺の言葉は唐突に切れた。キャロルが強制的に切った。キャロルは俺を力強く抱きしめたのだった。

……え?

驚きのあまり、頭の中が真っ白になる。キャロルの表情は穏やかで、ひどく真面目な抱擁だった。

何だ、どうした、何が起きた。

「素晴らしい」

俺がどうする事も出来ずにただ石化していると、キャロルは静かに賞賛した。そしてあっけなく俺を解放し、本の山に向かう。

「えっと、どこだ、どこにやった?」

乱雑に本をあさるキャロルは、ほんの3秒前などなかったようだった。今のはなんだったんだろうか。ひょっとして俺の白昼夢だったのか。

「これ!」

山の中から1冊の本を取り出した。紙質は最悪に近く、乱暴に扱ったらたちまち破れてしまいそうで、しかも薄い。そしてやはりしおり代わりの布がはさんであった。キャロルは布を床に投げ捨てページをめくる。

「あの、キャロル、何やっているんだ?」
「『この石はここへ置く? 否、なぜならあまりにも紅く美しい。この地には賊への守りがない』
『ならどこに置くべきか』
『山を下りた都市へ置くべし』
『ふさわしい箇所があるか』
『ある。西、フロイタ』

この後、女はフロイタへ単身行った、と書かれている」

キャロルは書物から顔を離した。

「治療師について述べられていた箇所の次がこれよ」
「はぁ」

俺はキャロルが何を言いたいのかさっぱり分からなかった。

「あたし、初めは何で宝石取引の話になるのかが分からなかった。でもこの女こそが治療師で、彼女が灰エルフだとしたら。女性だから、巫女である可能性もある」
「あの、ちょっといいか、灰エルフって何だ?」

難しい考え事の最中を邪魔するのは心が痛むが、これ以上話に置いてきぼりにされたくはなかった。

「エルフの亜種。細かい所は省略する、今大切なのは彼女らはエルフにしては珍しく、皆優れた火使い、炎の精霊使いだって事」

エルフって何と聞く前にキャロルは早口で続けた。

「だとしたら、この宝石は炎の精霊石かも知れない。いや確実にそうだ。紅の、炎を具現化したような石、間違いない」
「あの、精霊石って何」

俺は頭痛がしてきた。

「精霊石ってのは、優れた精霊使いや巫女が作り出す精霊の力の結晶。精霊術を使うときに負担を少なくしたり、あたしみたいに精霊術がからっきしの者でもそれを使えば真似事ぐらいは出来たり、他にも様々な事が出来るらしい」
「それと、今とどういう関係が?」

確かに自力で魔法が使えるんだとしたらその石も見てみたい気がするけど、それと今とどういう関係が。

「過去の治療師が残した精霊石、しかもわざわざ用意して、管理に頭を使ったくらいだ、うまくいけば、これが特効薬代わりになるかもしれない」
「本当に!」
「うん」キャロルは本から目をそらさずにうなずいた。「あたしは前に、氷の精霊石をかざしたら熱病が治ったという話を聞いたことがある。だったら、逆の事が起きても不思議じゃないわよ」

キャロルは本を大切にかかえ立ち上がり、有無を言わせず俺に命じた。

「アキト、旅出の用意を。夜明けを待って、フロイタへ行く」

俺としては翌朝それなりに晴れた空の下で太陽が昇ると同時に出発したかったのだが、そうは行かなかった。キャロルが土神官の老人や集落の長と話をしてからだと主張し、俺はそれをのんだ。朝っぱらから訪問した俺たちを迷惑そうに長は扱ったが、キャロルは全く気にしなかったし、俺もけんかを売るには度胸と時間がなかった。

彼らとの話によれば、フロイタまではいま来た道と反対方向に山を下り、徒歩で約7日で着くそうだった。往復で14日、間に合うかどうか微妙な所である。しかし行きに限ってなら今は使われていない近道があるそうだ。言い渋る長をキャロルは半分脅迫してそれを教わった。昔荷物の運搬に使っていた道で、ここから1時間歩いた所にある河を下っていくらしい。

「河か。アキト、舟の扱いの経験ある?」
「ない」
「選択の余地がないね。あたしがやる」
「キャロル、やった事があるのか?」
「少しだけ習った」

決定だった。荷物をまとめて出発する。

長の言う通りに歩くと、確かに河はあった。連日の雨で増水しており、赤茶色の水が渦を巻いて滑り落ちる。もう十何年放置されて腐りかけたような小屋と、4,5人は乗れる小舟が見捨てられたように放置されていた。

「これで行くのか?」

俺は明らかに5割り増しで増水している河と、長い間放って置かれて苔と泥まみれの舟を交互に見た。幸いにも舟底は腐っていないらしいが、その程度では慰めにもならない。

「急流ね」

キャロルは何気ないように舟に近寄り、縁と舟底を掌で押して様子を見た。

「大丈夫か、キャロル」
「駄目駄目よ。あたしが練習したのは数回、しかも流れが緩やかな物しかやった事がないわよ。こんな激しい流れの河なんて見た事もないわ」

後で知るのだが、そもそもこんな急流はこの国では相当珍しかったらしい。確かに日本じゃあるまいし、険しい山がそうないのでキャロルが戸惑うのも無理はなかった。

「しょうがない、行こう」
「え、行くの?」

この膨大なうねりの中、今すぐ木っ端微塵になりそうなふるい舟で? しかもキャロルは舟の扱いに自身がないのに。

「しょうがないって、キャロル、もし舟の中に水が漏れたらどうするんだよ」
「くみ出せばいい、舟だもの」
「もし転覆したら?」
「岩に頭をぶつけないように、布を頭に巻きつけてね。帽子みたいに」
「キャロル、本気か?」

正気か? とも聞きたい。

「もちろんよ、あたしたちが選択した時点で引き返せないんだ。それとも、アキト、怖いの? アキトから言い出したくせに」

その一言で及び腰だった俺は覚悟を決めた。その通り、始めたのは俺だ。自分大切さでここで引いたらどうなる? イーザーがいなくなる、それは考えるだけで鳥肌が立つほど嫌だった。ええい、古来日本だっていかだで激流を下ったのだ、これくらいやってやれぬ事はない。

「言ってくれたな。そんな事はない、やってやろうじゃないか」
「そうこなくっちゃ。実際にやるのはあたしだけどね」

その気であるうちに終わらせよう、俺たちは出船の支度を始めた。

「持っていく荷物は最小限にね。なるべく身体に巻きつけて」

と指示されても、もともと荷物は最小限しか持っていない。ただ俺の持ち物はキャロルと違って電子機具がある。水につかっても大丈夫だろうか? そもそも転覆したら俺は大丈夫だろうか? やってみないと分からない、なるべくやりたくない謎を抱えて俺は腕や胴体に服や食料を布でくるんだ物を巻きつけ、早速舟に乗り込んだ。しっかり綱で結ばれているはずなのに大きく舟はかしぎ、いまこの場で沈んでもおかしくないほど不気味な音がした。

「アキト、いい?」
「俺は平気だ」

心にもない嘘をつくと、キャロルはうなずいて自分も乗り込む。気のせいか、キャロルの方が俺よりも揺れは少なかった。キャロルは舟についていた、俺のスタッフよりも長い棒で器用にロープを外した。舟は大きく揺れ、そのまま河の流れに乗って中央へ進む。今更ながらに俺は止めておけばよかったかもと後悔する。

「アキト、なるべく動かないでね。重心は下に、何があっても落ち着いて」
「最後のは無理だよ!」

ほんの10秒、20秒で速さは増していく。ついさっきまで安全だった地面から眺めていた激流は今や俺の左右並びに真下にある。その振動は直接舟に伝わり、舟は苦痛のうめき声を上げている。

俺は石のようにその辺につかまり固まって座っていたが、キャロルは雄々しく立ち棒でぶつかりそうになる岩へ押して避けた。たちまち俺もキャロルも全身水しぶきで濡れねずみになる。いまや舟は大河に翻弄される木の葉で、俺に出来る事は幸運を祈る事だけだった。

「アーキト、つかまって!」
「もうつかまっている!

何だ?」
「瀬っ」
水の動きが不規則に踊り、船底に直接衝撃が走る。キャロルが何とかなだめようとするも、無駄な努力だったらしい。俺は耐えかねて手を放し、狭い舟の中を転がる。大量のしぶきが小さい船に飛び入り、船底に水がたまる。

「水が、水が!」
「騒いでいる暇があったら柄杓でも水袋でもいいからかきだして!」
「だから柄杓が舟に備え付けであったのかっ」

などと感心してはいられない。はいつくばって柄杓をつかもうとするも、再び大きく揺れて船から放り出されそうになった。慌ててつかんでいない方の手でその辺にすがりつき、上半身を起こす。水をたっぷり含んだ髪をかき上げて前を見る。きしくもキャロルも同じ方向へ、射るような目で見ていた。


舟上では時の流れは意味を持たなかった。俺たちはただひたすら襲い掛かる困難から戦い、そして逃げ惑った。岩瀬も通ったし、キャロルが避け切れなかった岩にぶつかって舟が半回転した事もあった。船に半分も水が入って動転しながらかき出しもしたし、この舟耐久日数超過で壊れるのではと思った事は1度や2度ではない。水による寒さと慣れない作業による疲労で、くたくたで寝てしまいそうだった。夕方になり、暗くなったときは俺は怖くて舟を止めてしまいたかったがキャロルがそれを許さなかった。キャロルの、闇の中でも少しの明かりさえあれば昼と同じように物を見通せる瞳のおかげで大幅な時間短縮になった。

朦朧とし始めた意識の中で、俺は舟の速度が落ちている事に気がついた。

「キャロル、舟、止まってないか?」
「……よっ」

今までと比べると非常に軽くだが、船が何かにぶつかって止まった。俺は半分寝ているような状況でその意味を考える。

「着いたよ」

キャロルの声も、まるで棒のように素っ気なかった。

「着いたって、フロイタに?」
「その、最寄の船着き場に」

キャロルは舟から飛び降りて、太い綱で固定する。その動作にもいつもの切れはない。キャロルもやはり疲れているんだろうか。

「ここから少し歩けばフロイタに着く。何事も挑戦ね」
「着いた、フロイタに」

俺はまだ現実に帰っていず、それを繰り返した。生きて、事故も起こさず、1日で着いた。

「う、そみたいだ。じゃ、すぐ行こう!」

俺は一気に元気になったが、キャロルは冷静だった。

「今入っても着くのは夜、街には入れないかもしれないわよ」

ここの街の一部は建物を取り囲むように壁があって、そういう所はなんと夜になると全ての出入り口を閉じてしまう。防犯上の理由だそうだが、俺には信じがたかった。確かにフロイタがそういう街だったら、せっかく行っても締め出される事になる。それは嫌だ。

「でも、歩いているうちに夜が明けるかもよ」
「朝はまだ遠い、あたしを信用して」
「でも」
「それにアキトは夜だと目が見えないんでしょう? 歩けないじゃない」

確かに。野外には当然街灯もなく、たった1つの懐中電灯では夜歩きをするには暗すぎる。

「でも、急ぐんだろ」
「そうだけどさ、足が震えているわよアキト。朝までここで休んだ方がいいって」

言われて気がついたが、確かに俺はくたくただった。結局キャロルが勝利し、昔舟の荷物を運び込む役割の小屋を拝借して朝まですごす事になった。ありがたい事に小屋には部屋はなかったが、はしごと2階があったので俺たちは別々になれた。遠慮なくぬれた服を脱ぐ事が出来る。

「そういえば、舟はどうするんだ?」
「置いていくわよ、もちろん」
「そうじゃなくて、後であれをまた集落に持っていかないといけないんじゃないか?

集落の物なんだから」
「まさか。そもそもあれは荷を下まで運んだら用はお終い、後はばらして材料になる物なのだから放っておいてもいいのよ」
「なるほど」いわゆる使い捨てか。だから造りが粗末だったのか。俺は感心しながらぬれた服を極力しぼり、その辺に乾くように引っ掛けると、いつもなら雑巾にも使わないような汚い布を布団代わりにして横たわった。変な臭いがしたが、俺はそれが乾いているだけでも満足だった。

主観的時間経過としては10分も経たないうちに朝が来て、俺はキャロルに2階から声をかけられて起きた。まだ服はぬれていたがそれを着て荷物を取り、出発の支度を整えた。

小屋から1時間歩かないうちにフロイタに着いた。

「ん、ん。嫌な感じね」

入ってすぐにキャロルが言った。俺は田舎者のように周囲を見回す。

「どうしたんだろうな」

朝早く、街の広場で市が開かれているがあまりうるさくない気がする。確かに街は大きくて建物も立派な所だが、どこか緊張感が漂っている気がする。俺の勘なら当てにならないが、キャロルもそう言うのだったら確かだろう。街は荒れた雰囲気で、どこかの建物の軒下には大きな青いごみ袋まで放置されている。

……え?

「だぁぁ!」

その時までごみだと思っていた青い物が、俺に向かって這いよってきた! 驚きのあまり動けない俺にごみはしがみついてくる。

「アキト、お友達?」

眉をひそめたキャロルの冷静な一言で俺は我に帰り、改めて現状を把握した。

「久しぶりぃ」

情けないほど力なく呟いたその顔に、俺は見覚えが確かにあった。

「ひょっとして、フォールスト?」
「ひょっとしなくても、そう」

青い衣のリュート楽師はそのままへたり込んだ。

「ねぇ、ご飯おごって。もう3日、食べてないの……」