まどろみの中、キャロルの呼び声を俺は知覚して夢から浮き上がった。身体のあちこちが強張っていて、手足の先が冷える。俺は目を開けて、キャロルの顔が目前に迫っているのに気がついた。
「どうりで声が大きいと思った。……うわっ!」俺は後退しようとして、後ろの荷物に背中で突撃した。その痛みで完全に目が覚める。
俺たちはイーザーの旧友からの情報を元に異世界研究家らしいグラディアーナなる人物を追うためにスフィア山脈の集落を訪れる最中だった。道中運がよく荷馬車に乗せてもらったので、梱包されている荷物に寄りかかって俺はうたた寝をしたらしい。
「よほど眠たかったのね。ほら」キャロルの指の向こうには、後ろで俺の反応に声を殺して笑っているイーザーと、赤茶けた山々が広がっていた。規則正しく上下にぶれた。
「もう、こんな近くに」俺は手足を揉みほぐしながら見上げる。思い返してみれば1ヵ月近く歩いたのだが、過ぎてしまえば大した日数には思えなかった。
「もうすぐクレイタという街に着くそうだ。そこで集落についての情報を集める」「そっか」
だからキャロルが起こしに来たのか。
「何だか、意外と楽にグラディアーナのところへ着けそうだな」俺が伸びをすると、キャロルがやんわりと訂正した。
「アキト、まだ始まりにすら行っていないのよ。のんびり出来るほど近づいてはいないし、楽にもなれないと思うわ」
それでもまだ俺はなめていた。夜までに問題の集落とやらがあっさり見つかったからだ。
「ここと、フロイタと呼ばれる街へ行くための山道があって、中継所として集落が1つあるらしいよ。本当に小さな奴で、行商人が住んでいる人たちもすごく少ないって言っていた」お手柄だったのは俺ではなくキャロルだった。短期間で調べ上げたこれらを自慢する事なく、夜の情報屋のにぎわう食堂で話してくれた。もうすっかり慣れた蛍光灯のような魔法の明かりと、動物の油による悪臭がきついランプの中、ざわめきと笑い声、歓声が飛び交う中で俺とイーザーは顔を見合わせる。自然に笑いがこぼれた。
「そうか。そんな地理上の事情があるのなら旅人も寄るだろうし、アルとの証言とも合う。それに行くのは楽そうだしな」「そうか? 山の中だぜ?」
「アキト、違うよ」
子どもに言い聞かせるように上機嫌でイーザーはテーブルに指を立てた。
「行商人たちの中継場だって、キャロルも言っただろう? 何とか彼らに同行させてもらえば、3人の旅よりもはるかに楽だ。運が良ければ今日みたいにまた荷馬車に乗れる」最近身に沁みて実感しているのだが、3人の旅と言うのはなかなか大変な物があった。人数が少ないというのは戦力が少ないと言う事に直結し、街でもけんかやごたごたに巻き込まれやすいし、外でも強盗や獣に注意しなくてはいけなくなる。特に俺たちは年が若いのでなおさらだった。
楽そうだと俺はほくほくしたが、キャロルの面白がっている顔を見て嫌な予感がした。
「何だよ、キャロル」「悪いけどさ、今はその道はもう利用されていないのよ。今では使う商人もそうはいないって」
「え。あっそ、でも、全然ない訳じゃないだろ」
1度予想した楽な道を打ち消すのは難しかった。
「そうね。アキト、話によればそこまで徒歩で2日。で、次の荷は大体30,40日ほどだったかしら?」諦めざるを得なかった。
「でも、たったの2日だ」俺を元気付けるためか、イーザーはわざとらしいくらい明るかった。
「すぐに到着して、グラディアーナを探そう。すごいな、こんな順調に行くなんて幸先いいぞ」「そうかもな」
俺は正直、2日も山登りをしなくてはいけない事にくらくらしていたが、それでもイーザーの空元気に勇気付けられた。
翌日俺たちは必要な食料と水を補給して出発した。俺はすぐ山登りになるかと思ったけど、それは違った。山まで行くのに1日、登るのに1日といった具合らしい。
「そういえば、今から行くスフィア山脈ってどんな所だ?」重量が2倍になったように思い荷物を背負いながら、前々から気にしていた事を聞いてみた。少し前を歩いていたイーザーがちらりと俺を見る。荷は俺と同じくらい増えているはずなのに、まるで平気みたいだ。
「どんなって、俺も行った事がないから分からないよ」「フォロー千年王国とファナーゼ草原国の国境みたいな物」
代わりにキャロルが答える。
「スフィア山脈はフォローの物だけどね。これがある事が、ファナーゼ草原国がフォローから独立できた原因の1つなの」「独立? 昔は1つの国だったのか?」
「うん。言わなかった?」
言わなかった。正直に「知らない」と返すと、キャロルは口を閉じて少し考えた後、フォローの歴史を説明しようとした。
「フォローは千年王国と呼ばれている通り、世界でも最も古く、伝統のある国だ。当然長い歴史の中には栄枯盛衰もある。昔栄えていた時には周囲の国々も含む大国だったのだけど、もともと文化や生活習慣が違う国を無理に取り入れたようなものだしね、フォローがその勢いを失くすにつれ、次々に独立していった。ファナーゼ草原国や、フィル森共和国…… そして今では、フォローは形式上国王を抱いているはいるけど、実際には議会で動いている普通の規模の国になっている」「だから俺は今でもアットと付き合えるんだ。実権はそれほどないからな、なんだかんだいって」
「へぇ」
こうやって改めて聞くと、ここにも歴史があり人の長い営みがあるという単純な事が俺にはなぜか不思議に思える。
「でも、だったら俺たちは国境近くまで行くんだろう? まだその時のごたごたが続いているとか、そんな事はないのか?」一応歴史は習っているし、人並みには世界情勢も新聞を読んで知っている。昔の東ドイツと西ドイツ、韓国と北朝鮮のような緊張が残っているのだったら俺はそこに近寄りたくない。
「大丈夫。全然ない」それを聞いて俺は安心した。
「お互い大国じゃあないんだし、隣国と仲悪くても利点はないしね」キャロルの補足は、外交上仲が良いんだと言外に匂わせていた。そんな物なんだろうか。
昼はひたすら歩き、夜は山小屋や無人宿泊施設で休む、という生活が崩れたのは、問題の集落に着くはずの日だった。
といっても、大した事が起きた訳ではない。雨が降っただけだ。朝から空模様が悪いなと思っていたが、昼ごろになってとうとう雨雲が決壊した。
俺たちは適当な大きさの木を探して雨宿りした。俺は今まで山は木が生い茂るものだと思っていたけどここはそのような事はなく、寂しい林といった風で大木を探すのにも一苦労だった。やっと俺たち全員が入れそうな木を見つけてその下に逃げ込むまでには俺は全身くまなくぬれていてズボンは赤土のはねで汚れていた。
「後少しだっていうのにもたなかったか。運が悪かったな」イーザーは髪を布で乱暴に拭いて天を見上げた。
「今までもっただけでも上等よ」キャロルもいつも着ている灰色の貫頭衣を脱いで水気を払おうとする。「しばらく止みそうもないね」
「どうせだったら、今行けないか?」これは俺。あと少しだというのにここでのろのろしたくはない。どうせもう十分にぬれているのだし。
「そうだな。どうせ今日は暖かいし」イーザーが髪を拭いていた布を頭に被った。キャロルも貫頭衣を着直してフードを被る。俺はかばんから折りたたみ傘を出して広げた。そうすると予想通りキャロルが興味を示した。
「それは?」「折りたたみ傘。100円で買ったにしてはしっかりしているだろ?」
「傘を折りたたむ? どうやって?」
「後で貸すからその時に説明するよ」
「お願い。でもアキトって色々持っているのね」
「まぁな」
俺は優越感を味わった。俺が優位に立てるなんて、せいぜいこんな時だけだ。
雨の中飛び出してすぐに劣等感に変わった。2人とも、足が速いのなんの。傘持ちの俺に比べて布を雨よけにしているから視界も悪いし手もふさがっているはずなのに、足場の悪さも何のその。すぐに引き離された。晴天時の2人の俊足には慣れたつもりだったが、まだまだだった。俺は小走りになって何とか追いつこうとした。
1時間はたっただろうか。やがて前方に赤地にへばりついている小さな住居が見えてきた。頑丈そうな柵で囲まれていて、来客は何者も拒むような冷たさがある。雨のせいでそう見えるのだろうか。
「あれか」「あれ以外に人家なんてないと思うわ」
イーザーが目を細め、キャロルが肯定する。俺は黙っていた。あれが村だというのなら、あれほど小さい村は俺は見た事がない。
「でも、おかしいよ」「何が」
俺は深く考えずに聞き直した。あのね、とキャロルは呆れたように続ける。
「見張りは? あんなに厳重に柵で囲っておいて、どうして1人も外に置いていないの?」「雨だから、帰ったんじゃないか?」
それに対してキャロルが送った物は。
「雨だからって帰るような奴は見張りとは言わない」冷たい視線と冷たい言葉だった。そこまで言わなくても。
「確かにおかしいけど、そこまで人が裂けないんじゃないか? あれで十分だと思っているとか」「そうかもしれないけど、でも静か過ぎない? 何かあったのかもしれないよ」
「だったら、何が起きたんだ?」
イーザーがしきりに首をひねる。俺もさっぱり訳が分からなかった。やっぱり帰ったのじゃないだろうか。
「ひょっとして、もう滅びて人1人いないとか」「キャロル! 物騒な事言うな!」
イーザーが厳しくたしなめる。全くだ。俺は一瞬信じたじゃないか。俺たちの反応が面白かったのかキャロルは肩を震えさせて声を出さずに笑う。冗談にしてもきつい奴。
「でも、本当に人の気配がないな。どうしたんだろう」そうこうしているうちに集落の前にまで着いた。やっぱり見張りはいないが、頑健な壁の向こうで何がか動いている気がする。無人ではないらしい。
「声をあげて人を呼ぼうか?」イーザーが自問するように呟く。
「いや、その前に様子を見た方がいい。アキトにイーザー、少し待っていて。あたしが行ってみる」キャロルはぬれた髪を書き上げて、自信があるように笑う。思わず俺は問いかけた。
「見てくるってどうやってだよ。壁は高いし門は閉まっているのに」「どんな塀だって隙は必ずあるよ。それを探す」
「いくらなんでもキャロルが入れるような穴は開いていないと思うぞ」
俺は心からそう思った。普通それは門と言うと思う。俺の控え目な主張に対し、キャロルは片目をつぶる。
「伊達に人外じゃないわよ」そして颯爽とキャロルは壁の周りへ歩き始めた。俺は目を白黒させた。
「何が言いたかったんだ?」「何がって、決まっているだろ」
イーザーにさも当然のように言われ、俺は自分で考えてみた。
イーザーがこういうと言う事は分かっていて当たり前の事を言っているんだよな。何だろう。俺はうつむいて考え、ふとひらめいた。キャロルは人間ではない。ねずみ人間、地下道の一族だった。
「キャロルってねずみに変身出来るっけ?」「知らなかったのか? 人間になる事も出来るぞ。獣人の持つ特力という物で変身したり、その動物の特徴に沿った不思議な事が出来るらしい」
イーザーはあっさり認めた。なるほど、ねずみに化けられるのだったら小さな隙間から侵入する事ぐらい楽勝だろう。器用な奴。でも感心すると同時にすぐに分かった自分にも驚いた。なんだかんだ言って、俺も慣れてきた。
しみじみ自分の成長ぶりに浸っていて、俺は気づくのが遅れた。扉の向こうが騒がしいと思うと、壁の向こう側、きっと見張り用に使う高台に人影が現れ、俺たちを観察していた。
「そこの者、何者だ!」確実に俺より年上の、でも若い男の誰何が落ちてきた。敵対的ではないが友好的でもない。イーザーは水滴が目に入るのにもかかわらず見上げて声を張り上げる。
「旅の者だ。宿を借りたいのだが、門を開けてくれないか?」「駄目だ」
少しのだんまりの後、冷たい返事が返ってきた。そんな。
「この雨の中ずっと立っていろっていうのか? 頼むから入れてくれよ」我ながら泣きの入った反論だった。
「泊まる場所ぐらいあるだろう? こっちは体力のない者もいるし、雨に打たれてここまで来たんだ。迷惑はかけない。入れてくれよ」体力のない者って俺のことか? だよな、間違いなく。
俺のより10倍は正論を言っているイーザーに心を動かされたのか、しばらくしてかんぬきが外れ門が開いた。長い間雨風侵入者を防いだ門は開けようとするとひどくきしんで、俺は壊れないのかと人事ながら心配した。イーザーが先行して中へと大股に歩を進める。俺もそれに習った。キャロルが帰って来ていないのに入ってしまっていいのだろうか。どうも嫌な予感を覚えて俺は唇を噛みしめた。
門を半ばまで来た所で、俺は入り口近くにたたずむ男に気がついた。イーザーと同じような革鎧に小さな斧を持っている。旅路のためにその上にマントやら上着やらを着込んでいる俺たちとは違い、その上には何も着ていない。寒くないのだろうか。男は胡散臭そうに俺たちを、特にイーザーの腰の剣をねめ回し、「こっちだ」と素っ気なく案内された。てっきりイーザー辺りが剣を取り上げられるのではないかと思ったがそんな事はなかった。2人では何も出来ないだろうとでも思われたのだろうか。
塀沿いに集落の奥には入らずに進む。遠目から見た家々は今まで見た木造やレンガ造りの家とは違って土造だった。そして家々から離れた所にある、元は白い石造りだったものの、薄汚れて銅色をした建物へ俺たちは向かって行った。窓が多く、門が開けっ放しになっていて6畳ほどの大きさしかない。
俺はそれに既視観を感じた。どこかで見た事が、と首をかしげているとイーザーがこっそり教えてくれた。
「風神殿だ」「確か、アルのいた、簡易宿代わりの?」
「そういう役割もあるけどそれだけじゃない」
話していると神殿の前で男が止まった。
「お前たちはここに泊まれ。集落をむやみにうろつくな」「え、何で」
「いいからここにいろ。追い出されたくなかったらな」
剣もほろろ。さらに言い募ろうとした俺をイーザーはさりげなく止めて、自ら風神殿に入った。俺は男とイーザーを見比べてしぶしぶ中へ入る。
室内は物がなく、家具は数えるほどしかなかった。そのせいか、狭い部屋の割りにがらんと空虚な印象がある。入ってすぐに床に足跡が残る事を発見した。最低限の手入れしかされていない神殿には誇りとじゃりまみれだった。
「これでも神殿か? 前のアルの所とは全然違うな」「あれはアルが通っていたから掃除されていたんだろ。巫女も神官もいない神殿なんてこんなもんだろ」
「何でそういう人たちがいないんだよ。いるのが普通だろ」
そもそも、神道の巫女とキリスト教の神官が一緒に扱われているのが分からないが。少なくとも人がいない神殿は廃墟、もしくは遺跡と呼ばれないだろうか。イーザーは足で床の埃を払おうとしてすぐに諦め、マントをしいて座った。
「いい機会だし、説明するよ。カーリキリトの主要神は光竜神レイファミスト、闇竜神ヴィディラ、火竜神、水竜神、土竜神、風竜神だ。そして氷竜神、霧竜神、樹竜神、雷竜神と続く」
それは前にキャロルが説明してくれたから知っている。
「そして、それぞれの神々を祭るためにあるのが神殿」それは俺にも分かる。
「神殿に関係する人間は3種に分かれる。神官、精霊使い、巫女」それが分からない。なんでそんなにいるんだ。
「まず、神官は神に仕え、その教えを守り実行する者たちだ。望めば誰にでもなれる。必ず神殿に属し、中にはその系統の魔道を学ぶ者もいる」ふんふん。
「そして精霊使いは、それぞれの属性の精霊術を使う者を指す」「魔法は誰でも学べて、精霊術は素質がないといけないんだよな」
「ああ。魔道は学問だ。取得するのは困難だが、それでも誰でも学べるしその気になれば誰でも使える。俺の使うものは秘術だから教えないが、それでもどうにかして学べば俺と同じ事が出来る。それに対して精霊術は先天的に力を持ち振るう。アルは風の精霊使いだし、昔一緒だった灰エルフのペインは火の精霊使いだった」
エルフって何だろう。でも話の流れのため、それは棚上げして他の事を質問した。
「そして精霊使いたちもそれぞれの属性の神々を敬愛し、敬っている。神殿には属していないし布教もしていないけど、それでも神殿に関係している」「神殿に神官がいないとき、代わりに精霊使いたちがその仕事をしてくれるのか?」
「ある程度、だけどね。それに精霊使いのほうがよっぽど数が少ないから、普通はそんな事は起きないけど。で、巫女だけど」
「ああ」
だんだん頭が混乱してきたが、我慢して話を聞く俺。
「巫女は高位精霊使いの女性の呼び名だ。神官と精霊使いを足し合わせたような者と思えばいいかな。一般の精霊使いよりもはるかに強力な技を使い、そして神様の教えにかなう行動を取る。彼女らは大概、神殿の高位にいる」「神殿で出世するためには巫女でなくちゃいけないのか?」
「大神殿だとそうだ」
「逆男女差別だな」
しかも素質がなくちゃいけないなんて。なりたいと思っても偉くなれるものではなさそうだ。俺はこの世界の全神官に同情した。
「これが神殿に関係する3種の人間だ。で、この神殿だけど」やっと話が元に戻った。
「風竜神フォールストは風の神、司るのは自由、開放、忘却だ。友人がいるからそういう事は言いたくないが、神官は多くはない」確かに。祈ってもいい事はなさそうだ。
「かといって精霊使いや巫女も一箇所に留まる人種ではない。ふらふら、どこかに行きたがる」「でもアルは」
「アルだって13からあっちこっち行っていたんだぞ」
「あ、その事を忘れていた」
「だから風神殿は無人である事が多い。でもそれほど荒れもしない。やっぱり近所の住民が掃除ぐらいするし、1晩の宿を借りる俺たちのような者が手入れをするからな」
なるほど。無人神殿の意味がようやく分かった。
「でもわざわざ風神殿に連れて来るなんて、ここには宿の1つもないのか?」うって変わってイーザーは不満そうに口を尖らせる。子どもっぽいその仕草に俺は軽く脱力して笑った。
「ないんじゃなくて、会っても泊めたくないんじゃないか? なんせ俺たちは危ない高校生だし、武器持っているし」「何だそのこうこうせいとやらは。それに武器なしで武者修行に出るわけないだろう」
「だからそれが危ないんじゃないか。俺はもう慣れたけど、剣持っているなんて危ないだろ」
俺たちがわらわら馬鹿話に移りかけた時、外から第3者の声が飛んだ。
「神殿談義も終わって、それ以上話す事がないんだったらお2人さん、次はあたしの番でいい?」軽く片目をつぶり、キャロルが風神殿に入ってきた。今はねずみ姿ではなく半人半獣の外見をしている。貫頭衣を脱ぎ、水が滴る布をはたいた。
「キャロル、良くここが分かったな」「分かるわよ。それくらい」
「……?」
俺はキャロルの様子がどこかおかしい事に気がついた。普段より余裕がなく、どこか焦っているみたいだ。何より顔は俺たちに向けて微笑しているのにめは笑っていない。
「で、キャロル、何か分かったか? 入れてもらえたものの、どうも様子がおかしいんだ」「すぐに分かったわよ」
キャロルは壁に背を預けて、座っている俺たちを見下ろした。
「アキト、イーザー、すぐにここを出よう」「えっ?」
俺たちは反射的に聞き返した。イーザーがわざとらしい咳払いをしてから、もう少し具体的に質問する。
「キャロル、何でだ。確かにここはおかしいと思うが、時間も遅いしおまけに雨だ。視界も悪いし体力も奪われる。下手をしたら風邪もひきかねない。ここにいた方が良いだろう?」即席にしては実に理論的にまとまっていた。俺は感心したがキャロルは逆にしょうがないとばかりに首を振る。
「確かにあたしからしたらここにいた方がいい。でも人間2人はすぐにここを出たほうがいいわよ。風邪なんて大した問題じゃないわ」俺はだんだん苛立ってきた。キャロルは肝心の何かを話していない。
「一体何が分かったんだ? 何のせいで俺たちはここを出た方がいいんだ? 出し惜しみしないで早く言ってくれよ」「疫病」
「はぁ」
また耳慣れない言葉を聞いてしまい、間抜けな返事を返した。少なくとも日本で日常的に聞く物ではないぞ。
もちろん疫病が何であるかは知っている。社会の教科書の世界史の欄外に載っていた。疫病とは悪性の流行病の事で、代表的な物はペスト、別名黒死病。確か当時ヨーロッパの三分の一が死んだとか。
俺の顔から血の気が引いた。やっと事の重要性が飲み込める。
「なんだってぇ!?」「アキト、とろい」
キャロルの冷たい突込みにも負けず、俺の恐慌は増幅した。
「で、何の病気だ!? ペスト? 結核? 赤痢? エボラ出血熱!?」「聞いた事もないものが混じっているけど、どれも違う」
「何でキャロルはそんなに落ち着いているんだよ」
憎いほど冷静に俺を観察しているキャロルに俺はつい八当たりをした。はぁ、とキャロルは俺の目を見る。
「だって、あたしには関係ないもの」「関係あるだろ。病気は人を選ばないんだぞ」
「あれ、知らなかったっけ。あたしたち地下道の一族は極めて病気や毒の類に強いのよ。強いというよりも、過去にあたしたち一族が流行り病にかかった記録がほとんどない。無敵、という訳ではないけれども、あたしたちにも感染するような病気だったらとうにこの辺全滅よ」
「ずるいぞ」
俺はどうしようもない不公平さを感じた。そういえばペストもねずみから運ばれてきたっけ。
「仕方ないじゃない、種族が違うのだもの。それにあたしらだって病気の媒介人として迫害された事もあるのだから」ちっとも嬉しくなさそうだった。俺からしたらやっぱりうらやましいのだが。もし強烈な伝染病が流行っても1人キャロルはけろりとしているのだから。でもよく考えたら俺も現代日本人だった。現代医学の手にかかればペストもコレラも何のその、ちっとも怖くない。何だ、俺だってキャロル並みに病気に強い事になる。いやそれ以上だ。向こうから荷物を持ち込めるのだからワクチンや特効薬を持ち込める。俺以外の人間も治せる事になる。
でもよく考えたら、この往復は俺の意思とは無関係だったっけ。なら意味がないか。行きたくても行けないのだったらどうしようもない。
「それよりも疫病だ。どんな奴だ?」イーザーが深刻そうに顔を曇らせた。そうだ、俺も対処法がない以上、一番いい手はキャロルの言う通りここから逃げる事だ。
「詳しくは知らないけれども奇病よ。体の熱がどんどん低下していくみたい。まだそれほどの人数じゃないけれども、土神殿は大騒ぎしている」「こんな小さな所だ。満足のいく治療師なんていないだろうからな。外に助けを求めるにしろ、遠いし嫌がられるだろうし」
「イーザー。ここにはアキトだっているのよ? 一刻も早く荷物をまとめてここを出る、それが最善でしょう?」
なぜかキャロルはイーザーに念を押した。
「分かっている」むすっとイーザーは立ち上がり、敷物代わりにしていたマントを取った。と、キャロルが外を向く。
「誰か来る」俺にはよく見えない。外へ身を乗り出しかけてキャロルに静止された。
「アキト、あたしはねずみになるからどこかに置いといて」一方的に言うだけ言うと、キャロルは息を吸って身を強張らせた。まるで画像が何十にもぶれるようにキャロルの姿が不確かになり、数秒後そこには灰色のねずみが1匹ちょこんといた。
「何でこの姿に戻るんだ?」「キャロルはこっそり裏から入ったから、ここにいるとまずいんだろ」
「あ、そうか」
俺はかばんの外ポケットにキャロルを入れて、いつでもスタッフを使えるように近くに引き寄せた。
「で、誰が来るんだ?」「さぁ、俺には分からないよ。キャロルみたいに暗視がないんだから。でもここでじっとしていても始まらないよな」
1人納得したようにうなずき、腰にさしてある剣に軽く触れる。
「何用!」俺は驚いた。突然イーザーは大声で外へ呼びかけた。
「イーザー、何するんだよ!」「この方が手っ取り早いだろ。誰が来ているのか知らないが、話をさっさと済ましちゃおうぜ」
何て度胸だ。前にキャロルが俺の事を大胆とからかったけど、その言葉はイーザーにこそふさわしいと思うぞ。かばんの外ポケットが痙攣したように動いた。
「旅の方よ……」外からか細い声が戻ってきた。イーザーのとはあまりにも違いすぎる、老人の声だ。
「聞きたい事があります」「名を名乗れ」
落差にイーザーも拍子抜けしたらしい。さっきの大声に比べると気が抜けていた。
「私はオクレイド、ここの土竜神神官を勤めている者です。うかがいたい事があって参りました。病気の治療の心得のある方はいませんか?」俺たちは顔を合わせた。該当者はイーザーだが。
「事情を聞かせてもらおうか。その前にこちらに来た方がいい」イーザーの呼びかけに1人の老人が現れた。若い頃はさぞかし立派な体格だったのだろうが、今ではしぼんだかのような印象の小柄な人物だった。俺はふと、田舎の祖父を思い出した。今頃何をやっているんだろうか。
「どうして、治療師を必要としているのですか?」「集落の住民の間に病が発生して、癒し手が必要なのです。私1人ではとても手が足りません。外から人が来たと聞いて万が一と思いこうして参りました」
キャロルの話とほぼ同じだった。イーザーはちらりと俺と、俺のかばんを見る。
「多少なら俺も手伝えるかもしれません」イーザーはマントを羽織った。俺もそう言うだろうと予想していたので何も言わない。いかにもイーザーらしい選択だった。俺のかばんの外ポケットが大きく震えたのでキャロルは何か言いたい事がありそうだが、今人間の姿ではない物には発言権はない。諦めてもらおう。
「ありがとうございます。お礼はいずれ、必ずします」「それよりも、俺はどこに行けばいいんですか?」
「土神殿です。こちらに」
「悪いな、アキト。1日ほど待ってくれ。ついでにグラディアーナについて聞いてくるからさ」
「ああ、がんばれ」
俺は軽く、2人が雨の中に消えていくのを見送った。2人の姿が確認できなくなった途端にかばんの外ポケットからキャロルが這い出てきて即半獣の姿に戻った。暗くてよく分からないが(電灯がないので昼でも太陽がないと驚くほど暗い)とても上機嫌そうには見えない。
「馬鹿野郎か、あんたらは」開口一番こう来たもんだ。
「いきなり無礼な奴だな」「あら、十分穏やかな表現だと思うけど?」
キャロルは俺の荷物を椅子代わりに座って足を組んだ。
「この世のどこの人間が、わざわざ疫病の発生地に足を踏み入れたがるのよ」俺では能力不足だが、イーザーの弁護人に徹する事に決めた。
「しょうがないだろ。イーザーはああいう奴なんだ。人が困っているのを放っておくことが出来ない人間なんだよ。俺に言うなよ」「アキトもよ、あたしが言っているのは」
「俺?」
いきなり焦点がずれた気がするぞ。
「何で俺も関係するんだ?」「アキトの旅でしょう。急ぐといって断ればよかったのに。イーザーの性格が分かっているのだから黙って見ていないで対策を考えてよ。第一、ここに長くいる事になったら知識も耐性もないアキトが一番危ないのよ? 異国の地であっさり病死したいの?」
返す言葉もない。
「やれやれ。でも、決まった物は仕方がないわね」あっさりキャロルは牙を俺に向けるのを止めた。俺は心底安心する。
「この神殿は過去も今も人が来るような所ではなさそうだし、それが救いね。ここでじっとしていたらまぁ安心でしょう」キャロルは貫頭衣を脱ぎ、机にかけた。
「本当ならあたしが情報収集したい所だけど、イーザーでも2、3日もすればなんらかを得るでしょうね」「何で2、3日なんだ? イーザーは1日ぐらいと言っていたぞ」
「最低それぐらいはいるでしょう? 貴重な人材だし、イーザーの方だって何だかんだ言っていそうだし」
なるほど。
「雨、しばらく続きそうね」キャロルは普段は見せない憂鬱そうな顔で外を見る。俺もつられて壁に寄りかかった。キャロルの言う通り、冷たい雨は当分降りそうだった。
いつの間にか寝ていたらしく、横たわっていた。いけねと起きて、俺は周囲がやけに白く暖かいのに気がついた。
「あ」俺はやっとここが風神殿ではなく、愛し懐かし我が部屋と分かる。
「うわっ、久しぶりだな、俺の家。一ヶ月ぶりか?」ひょっとしてもう帰れないかも、と真剣に思っていただけに感動もひとしおだった。俺は自分の格好が日本の基準からすればとんでもなく汚れている事を思い出す。もしや、とかばんの中の着替えを取り出すと、向こうでは綺麗に見えていた服はやはりどろどろだった。
俺は即上から下まで全部脱ぐと洗濯機にぶち込んで適当に洗剤を放り込み、蓋をして起動させた。低い振動音に俺は思い直してかばんも同じく放り込んだ。
俺は洗濯機を前にしばらく感慨に浸った。もう今の服は日本では着られないだろう。汚すぎる。俺は服装に凝る方ではないが、それでも日本で人前で着てもいい服ではなかった。それくらい汚れていてつぎはぎだらけだし、そもそも向こうの洗い物事情も悪いのだ。カーリキリトでは石鹸や洗剤の類は貴重品でけちって使うし、品質も悪い。次にカーリキリトに持っていく物の中に洗剤が追加された。
新しい服を着て、水道水をたらふく飲んで、冷蔵庫から作り置きの握り飯を取り出してほおばり、やっと俺は人心地がついた。ため息をつくと、本来真っ先にやるべき事をする。
「声、いるか?」少し待ったが気配も返事もない。やれやれと俺は頭を振った。
「まぁいいや。現代生活を楽しもう」カーリキリトと無縁だった頃は考えもしなかった事だった。別に嬉しくはないが。
その後暇を見つけて俺は図書館へ行って、冷える疫病というのについて探した。何かこっちで分からないかと思い、慣れない医療書をめくって、出た答えは「そんな物はない」だった。症状として体温低下という物はなくもなかったが、そんな疫病はこっちの世には存在しないらしい。全くの骨折り損だった。
そして2日と半日。カーリキリト用品を買い揃えて服も乾いてかばんに入って。
「これだからな」問答無用、一撃必殺で俺はカーリキリトに飛ばされていた。狙っていたとしか思えない。いっそ支度を全然しなかったら飛ばされないかもしれないと思ったが、そんな事をしてもやっぱり飛ばされるだろうから何も言わなかった。
俺は外を見た。まだ雨が降っているがもう明け方近い。俺は起きてカーリキリト用の服と靴を出そうとし。
「(わっ)」俺のすぐ近くでキャロルが安らかに寝ているのに驚いた。思わず凝視して寝顔が可愛いなぁと赤くなる。いけね、こうしている事がキャロルにばれたら何言われるか。
「何考えているんだ、全く。驚いたぞ」出来る限り静かに離れて、不満を漏らしながら俺は着替えた。
「……おはよ、アキト」すぐにキャロルも起きた。勘のいい奴。
「おはよう。まだ雨だな」「そうね。アキト、その服昨日に比べて綺麗になっていない?」
どきぃ。
「そうか? それよりイーザーはどうしているかな」「あたしが見てくる」
寝起きとは思えない機敏な動作で、キャロルは手ぐしで髪を整え、外へ出て行こうとする。
「俺は?」「そこで素振りでもしていれば?」
笑って雨の中へ出て行った。なめられている。とはいえ日本へ帰っていたことがばれなくてよかった。
俺はふと考えた。ここと日本を行き来している事をこのまま隠し続けておくべきだろうか。下手にその事を言ってならそのままでも支障はないだろと放り出されるのは非常に困る。でももう1月近くはいるのだし、その事を告げて一緒に考える方がいいだろうか。それにいつまでも黙っているのはあまりにも卑怯な気がする。でも話したら今更といってイーザーが激怒しそうだ。どうもこの事はじっくり考えた方がよさそうだ。
キャロルはすぐに帰ってきた。ぬれた上着を俺の前で脱いで朗報を届けた。
「グラディアーナの消息がつかめた。クレイタ方面へ行ったらしい」聞き覚えのある地名だった。
「それって、この前通った所じゃないか?」「うん。それらしいマントは翌日そっち方面へ登山したんだって。覚えていた人がいた」
「だったらまた戻って探さないと」
すぐに同意してもらえると思ったが、キャロルは困った顔になって腕組みした。
「あたしもそうすべきだと思うけど、イーザーがね」「イーザーが?」
嫌な予感がした。イーザーとは付き合っている期間こそ短いものの、その濃度は半端ではなく濃い。
「『せめて雨が止むまではここにいよう。病人をこのままにしてはおけない』だって」ほら大当たり。「やっぱり?」
「義侠心が大炸裂しているよ、あの黒マントは」
キャロルはうっとおしそうに空を見上げた。
「あたしの予想だと雨は後2、3日は降り続けるね。全く、これだから男は」「俺と一緒にするなよ。でもどうしよう」
「イーザー置いていく?」
「止めろっ!」
キャロルだと本当にやりそうだから怖い。かといってイーザーの事だ、説得には応じないだろう。下手に人道的な理由だから俺だって強く言えない。
「なら仕方がない、待つか。グラディアーナは逃げないよ」それしかなかった。
それからカーリキリトの3日間、俺は風神殿で過ごした。疫病による外出禁止の上イーザーはお医者さんが忙しくって来ない。話し相手はキャロルのみと極めて寂しい環境だったが俺は暇ではなかった。キャロルが俺の戦闘訓練をみっちり行ったからだ。俺を鍛えよう、一人前にしようというキャロルの心遣いは感謝するが、たまには暇になりたい。
4日目の早朝にようやく雨が止んだ。灰色の雨雲はしぶとく空の大半を占めていたが、ともかくもう雨ではない。すばやくキャロルはイーザーと話し合い、ようやくイーザーにここを発たせる事を納得させた。
土竜神の神官の老人はわざわざ俺たちを、と言うかイーザーを見送りに門まで出てきてくれた。ちなみにキャロルは本来ここにいないはずなので、ねずみに化けて俺のポケットの中にいる。
「クレイタに着いたら土神殿にこの事を伝えます。すぐに治療師を送りますよ」4日ぶりに見るイーザーは頬がこけてくまが出来ていた。疲労の色が濃いが、それでもはつらつと答える。
「では」深々とした老神官の礼を最後に、俺たちは集落を後にした。後ろに粗末な家々が見えなくなってからすぐにキャロルを出してやる。
「やれやれ、思った以上に長い滞在だった」元通りの半人半獣にキャロルが戻る。不満そうなキャロルに「そんな事言うなよ」とイーザーが食ってかかった。
「風土性の疫病で、何人も患者がいたんだ。放ってはおけない」「なら早くクレイタへ戻って癒し手を捜せば?」
イーザーは難しい顔のままだった。
「でも、気休めにしかならないだろうな。俺だって病気の治癒の魔法を扱えないし、魔法を使う術者は少ない。それに怯えて来ないかもしれないし。早くしないと手遅れになるのに。くそっ。ここに灰エルフのペインの奴がいたらな」まだイーザーは言っている。俺にはどうしようもない事だったので、それよりもグラディアーナの事を考えた。クレイタでも足取りがつかめればいいが。キャロルは空模様をうかがい、イーザーは震えて手を互いにこすり合わせた。俺はまだ見ぬグラディアーナへ思いを飛ばす。そうして俺たちは集落を後にした。