三つ首白鳥亭

−カーリキリト−

影の娘と庭師

荒野を通過しようとして、ふとリタは足をとめた。

上下も左右もない、空間の概念そのものが現実とは異なる世界で、しかしリタは器用に着地した。作務衣の裾が震え、本来映るはずの影の形から魔荒野が見える。

影の向こうには巨人が映っていた。巨人というには小柄だが、リタにとっては見上げるほど大きい。質素な麻の服をまとい、土色の髪は長くて足は長い月日で硬くなりひび割れていた。背中にも腰にも多くの農具を下げている。幻覚が徘徊するあさぼらけに、悪名高い魔荒野を裸足で歩いている。視線ははるかかなた、地平線の向こうを無感動に見ていた。

「まあ」

特に感慨もなくリタはつぶやいた。思考はしぶきのようにはじけたちどころに霧散する。リタはそれきり興味を失い、また影の世界を飛ぶ。


「王を探さないといけないわ」

大魔道士鬱金はなにげなく言った。

なにげなくとはいっても部屋の反対側でほこりまみれの巻物整理をしていたリタにも聞こえたのだから、これはリタに話しかけたのだろう。手を休めナーガである主人へ向く。

「王、ですか」
「王よ。今のマドリームは混乱している。ラスティアと雷竜の戦いに巻きこまれ首都バイザリムは焼かれ支配者は致命的な打撃を受けた。好機と見て人々は権力を求めて争う。政治が崩れたのよ。マドリームを治める人物が必要だわ」

大魔道士とは思えない世俗的な言葉ではあったがリタは理解している。この伝説の魔道士の生活にも影響は出ているのだ。

(今まで何人きたのかしらね、人間は)

とっくに忘れていた伝説の大魔道士について、マドリーム荒野国滅亡の危機と共に人々は思い出した。日に日になんとかしてくれと懇願するものが、荒野の真中、結界に覆われている鬱金の住処を訪れる。この前はどう勘違いしたのか王族の血を引いていることを認めろと迫るものまでいた。即座に叩き出した後鬱金は動く石像を作って門の前に立たせている。おかげで静かだ。

「鬱金さまの生活が、このままですと騒がしくてたまりませんものね」
「リタがやるのよ」
「はい」

以前にも実行するものがだれなのか聞かされていたので驚かなかった。気は進まないが逆らうつもりはない。

「ひとっとびしてオキシスマームを正気に戻してきますね。ついでにしばらくそばにいて、邪魔する人間を殺してきます」
「痴れ者」

鬱金はきっぱり言った。

「だれがあの馬鹿を王に戻せなんて言った?」
「すみません。子に跡を継がせるのですか」
「なにを聞いているの。だれが王になるかもリタがやるのよ」

突きつけられて、リタは真意を理解できなかった。

「リタが王を探して王座にすえるの。貴族でも平民でも男でも女でもいいわ。人間でなくてもいい。国を静かにさせるものを選びなさい」
「わたくしが」
「そう、リタが」
「わたくしには難しすぎます。わたくしには経験も能力も資格もありません」

リタは心から叫んだ。

「そうかしら? マドリームでは立派に密偵も暗殺者もやったじゃないの。影踊りほどの種族で実力が足りないなんて聞いて呆れるわ」

鬱金がナーガ、半人半蛇の種族であるようにリタも人間ではない。厳密にいえば生物であるかさえ疑わしい。

リタは影踊りの一族、地上の裏にある影の世界で生きる精神生命体である。外見はただの若い女だが、全身にびっしり刻まれた呪いがなければ人型を保つことも難しい。影の世界を飛び精神からの攻撃を行う、大半の人間には対処はもちろん、存在さえ知られていない術をたやすく行う。

「わたくしは人間ではないのですよ。どうやって人間の王を選ぶのです。加えてわたくしが選んだからとしてもその人間が王族でない限り王にどうやってなるというのですか」
「なんとかしなさい」

鬱金はろくに耳を貸さなかった。

「なぜわたくしが」
「今のマドリームで、一連のラスティアの行いについても雷竜についても分かっている人はごく限られているわ。あたくしだって全部は知らないのよ。リタしかいないわ。起こったことを理解し、実力を持ち、そしてマドリームにいる人物はリタしかいないのよ。あいにく宿命の者たちは根こそぎマドリームから出て行ってしまっているの。言い訳はもう十分よ。書物の整理は後にして行きなさい」

命令にリタは逆らえようもなかった。


「でも無茶ですわ。本当に不可解ですわよ」

逆らいはしないが不満は持っていた。

「わたくしは確かに密偵としての知識はありますわ。能力としても強者です。でもわたくし、生物として行動し始めてからまだ一年と経っていないのですのよ」

人間のように振舞うことは可能でも、所有している知識はあくまで知識だ。

リタには生物としての本能が薄い。肉体で歩くようになってからまだ日が浅いからやむをえないが、かつては空腹の意味を分からず倒れ、疲労の意味を理解せずに倒れたことがある。今では食事、睡眠、休息が習慣ではなく必要だから行っていることは理解している。理解しているがそれでも疎かった。

元々リタの身体は虚弱である。うら若い女性、つまり見た目通りであった。同年代の女たちと比べても平均を下回るのに、屈強の戦士でも普通頼まれないことを頼まれてしまった。リタの心境やいかに。

か弱いリタは考えた。

「どう行えばいいのかしら?」

不満はあれど鬱金はリタにとって絶対的な主人だ。彼女に言われた以上最善をつくさないといけない。

鬱金の周辺を静かにする王を玉座へ。

「まずは王とやらを見つけることですわね」

リタはその日のうちにマドリームへ旅立った。以降鬱金の住処とマドリームを往復する日々を続けている。

いまだにこれといった人物は見つかっていない。

「ふっ」

ある昼下がり、人気のない街角でリタは壁によりかかる。そっと外を見る。以前のバイザリムとは違った。人通りは途絶えがちで武装している人間が増えた。外国人らしいものも珍しくない。

城も街も火事の爪跡がひどい。ミサスが火を放ったのは王城だが、混乱に乗じたもの、国王へ不満を持っていたものは少なくはなかった。火事は街にも広がり、無秩序な戦いがいくつも起きた。今はかろうじて戦渦は消えているが、王朝の傷は浅くはない。

「わたくしがなにもしなくても、王朝はそのうち三大貴族につぶされますわね。殺し合いか礼儀正しく乗っ取るのかは分かりませんが」

問題はその後安定するかどうかだ。まず安定しないだろう。残りの2貴族が黙っていない。戦乱はマドリーム全土に広がる。エアーム帝国、アドマンド公国も手を出してくるかもしれない。

「そういえばエアーム帝国の使者が城にきているようですね。ちょっと調べてみましょうか」

軽く言う。リタの能力からしてみればお使い程度の難易度である。

「一般的な考えとして、血統権力から三大貴族が下克上するのが現実的ですわね。今の王家に王朝を維持できる力はありません」

しかし彼らが王にふさわしいのかというと、リタにはよく分からない。彼らもまたラスティアに協力していたことを忘れていない。

ふとリタは三大貴族のうち唯一よく知っている人物を思い出した。

ハシド家のライラック姫。無垢という言葉がぴったりの姫君だった。かわいらしく愛らしく、この世に悪意があることを知らないような人。リタが本人とは無関係な理由で殺しかけ、おわびにバイザリムが炎上した時連れて逃がした。それからの消息は知らない。数日後逃げこんだ館が破壊されているのを見た。以来行方不明である。もう生きていないだろう。

優しい、浮世離れした人だった。大切に守られた宮殿で、なにも見ることなくなにかを考えることさえなく生きてきた。世間知らず、そんな言葉では足りない。彼女はリタとは別の意味で生きていなかった。ライラックの責任ではないが、リタは軽蔑と共に回想を打ち切る。

「城を調べないと」

リタは計画を練り始めた。


またいる。

影の世界から現実の魔荒野を観察する。

「おかしな方ですこと」

近づく。身長はリタの頭3つ上、表情はなにも浮かんでいず、神官のような静謐性があった。人間離れした風貌ではあるが、不思議なのはそれだけではない。

「なぜ荒野にいるのかしら」

昼は灼熱、夜は零度の凍てつく寒気。まだ過ごしやすい朝と夕方は古の怪物が跋扈する。魔荒野は恐ろしいところだ。どの生き物でも住むのには向いていない。

思いついてリタは影の大地へ潜り、現実の魔荒野へ出現した。

密偵として、大魔道士の召使いとしてあってはならない行動である。リタが叩きこまれたどの教育にも見知らぬものの前に出るなんて狂気の行動であると伝えている。好奇心にかられて無闇に自分を知られるなど。

これはどちらかといえばザリ・クロロロッドの影響だった。リタは影の世界でザリとぶつかり、そのときおびただしいザリの内面が流れこんだ。ザリがなにかを失った訳ではない、だがリタはザリの性格、ザリの経験、ザリの知識を一瞬で学び取った。ザリの人格を受け継いだようなものだ。気になった相手に声をかけるのは、ザリならいかにもやりそうだった。

「こんばんは、寒い夜ですわね」

なにもないところから現れ、平凡な挨拶をしたリタを女はろくに注意しなかった。透明な無関心さを持ってリタを眺めただけだった。

「わたくしはリタ。あなたはここでなにをなさっているの」

リタはまるでひるまなかった。よく見る。持っているものは鋤、鍬、鎌、棒、とぎ石にずた袋、どれも古びていてあちこち修理した跡があるありきたりの工具だった。腰に大量の麻袋を下げ、時折手を突っこみ力一杯ばらまく。

「植物の種?」

まあ。リタはつぶやいた。

「こんなことをしても無駄だわ。さえぎるものがない魔荒野に種をまいても芽は出ないわ。その前に死んでしまう」

巨人は答えなかった。聞いてさえいないようだった。

「魔荒野に緑をよみがえらせたいのかしら。難しいことですわ。とてもとても困難で、長い時間とよほどの幸運がないとできないことですわよ。それなのにやるなんて。どんな理由があるのかしら」

巨人は歩き続ける。風にあおられ麻の服が旗のように翻り張りつめた。力強い手足はとまることを知らないようだった。

徐々に後姿になっていく巨人にリタは問いかける。

「ねえ、わたくしのやっていることに意味はあるのかしら」

大魔道士のねぐら片隅でリタは横たわった。両目を手で覆う。

なにも見えない。でも静寂が支配する影の世界ではない。地底で岩と岩とがこすれあう音、圧迫された古書のうめきが聞こえる。なにより自分の生命が騒がしい。空気を取りこみ心臓は脈打つ。

リタはだれだ。影の世界を自在に飛ぶ精神生命体。その一方で人間でもある。歴史上ここまで長期にわたり人型をとった影踊りはいない。リタはぶつければ痛い肉体になじんだ。

リタの内面はなんだ。一般的な影踊り、集団知性はもうリタとは離れている。そもそも属する種族はもういない。ラスティアに滅ぼされ影踊りはリタひとりだ。加えてザリ・クロロロッドの影響を受けすぎた。

半分は影踊りとしての集団だった意識、もう半分はザリの劣化写。頼りない主体でやっていることは大魔道士の命令に盲目的に従うのみ。リタはなぜ王が必要なのかが理解できない。鬱金には鬱金なりの考えがあるのだろう。リタにはない。

リタは空っぽだ。自我も目的もない。以前なら気にもならなかった空虚さにひるみ怯える。

(リタ、いる?)
「はい、ここに」

大声ではないが思念なので必ず聞こえる声。リタは跳ね起きた。

部屋へ入り「まぁ」つぶやく。積んでいた本が崩れていた。それこそ塔のごとく高く何十冊もあったのに、局地的な地震があったかのように崩れている。鬱金は本の中心にいたが一冊たりとも当たっていないようだった。片手に巨大な本を持ち、子どもほどもある巨大な水晶球に寄りかかっている。

「なにか飲み物を持ってきなさい」

きびすを返し氷室に入れていたワインとチーズを持ち出した。杯に注いでうやうやしく差し出す。「本を片付けて」気だるい命令にそそくさ従う。鬱金本人と知り合って日は浅いが、大魔道士が欲していることは分かってきた。表面上にすぎないが。

「リタ、荒野になにかいなかった」

王探しには全く触れず、リタを見もせずに切り出す。

「朝夕に幻を見ます。鬱金さまにすがる人間たちも見ます」

リタは少しためらった。

「加えて巨人をひとり」
「巨人」

鬱金は顔色ひとつ変えなかった。

「長い髪で、沙漠とは思えない薄着で、無駄口をきかない?」
「はい。知っているのですね」
「懐かしいわね。あれは庭師よ」
「庭師?」
「自分で名乗っている訳ではないしあたくしが命名したのでもないわ。ハディが名付けたのよ」
「はい」

ハディに聞き覚えはなかった。鬱金は気にせず続ける。

「あれは土の精霊の集合体よ。化身とでも言うべきかしらね。単体では定まった形を持たない精霊が、ハディの力で人の形を取った」

鬱金にしては珍しい、懐かしむような顔になった。

「あの子は土の巫女としてずば抜けていたわ。あの子が死んでもう千年は経つというのにまだ庭師は存在している。意思のようなものさえ持っている。もっともなにを考えているのかはだれにも分からないけどね」
「……ハディさまは、庭師を解放しなかったのですね」

やや非難がましい口調になった。

「精霊たちを元の力ある粒子にしてから亡くなるべきでしたのに。庭師はまださまよい続けているのですよ。おそらくこれからも」

ワインの杯を傾けながら、鬱金は陽気に水晶にもたれかかった。

「ハディの考えていることも、分かる人はほとんどいなかったわ」

ハディとはだれなのだろう。バイザリム城の奥、廊下を歩きながら心の片隅に引っかかっていた疑問をつつく。

結局リタはだれですかと聞けなかった。鬱金を恐れているというのもあるが、知っていて当然といった態度だからだ。しかしリタには心当たりはない。

(千年以上昔の人物ですから、歴史上の偉人でしょうね。そんな人と顔見知りというのもなかなかすさまじいものですわ)

しかしだれなのだろう。千年前といえばまだマドリームという国はなかった。辺境の呪術使いと人間ではない種族が細々と暮らしていた頃だ。リタが習った歴史はそこまで言及していない。

常人なら歩くことはできない闇の中、リタは立ち止まった。

「そろそろですわね」

手元の蝋燭に火を灯す。曇天の月のようなか細い光が照らした。リタは暗いところでも自由に歩ける―― 影踊りの一族として、できない方がどうかしている―― が、文字は読めない。

闇の中では十分な明かりを携え、リタは賓客の表をめくった。

(エアーム帝国のお騒がせ兄弟の使者がやっぱりきていますわね。なにを考えているのでしょう。自国の帝位争いに夢中になっていればいいのに)

いやと思い直した。いっそ彼らがマドリームを思いきって属国にしてくれれば色々楽そうだ。マドリーム人としてはどうでもよくはないことだろうが、リタは構わない。

首筋にひんやりとしたものが突きつけられた。

「影踊り、動くな」
「あら」

リタが密偵として動けるのは種族の特異性によるものが大きい。つまり人間としての知覚能力は下手をすれば凡人以下だ。

不意を突かれてもリタは驚きもしなかった。

「ラケル・グリスターさま。いつお戻りになりましたの?」

胡桃色の髪をした、女性らしさがない魔道士の顔つきは変わらなかった。慎重に驚愕を押し殺している。

「ここで会うとは思わなかった。ちょうどいい。マドリームになにがあったのか、ラスティアがどこに行ったのか教えてもらいましょうか」

リタが覚えている限り、元宮廷魔道士にして現在放浪中の魔道士ラケルが武術に通じていたという話は聞かない。聞かないが首筋の刃を引くことぐらいはできるだろうし、リタもはねのけられるほどの肉体能力は持っていない。

「言っておく、自分が情報源として期待されているとは思わない方がいい。話を聞くなら他の相手もいるのだし、影踊りの一族の危険性は十分知っている」
「仰せのままに、ラケルさま」

ゆっくりリタは本を閉じた。

「ただ、場所を移しませんか? わたくしも人に見られたらまずいのですよ。だれもこない場所でお話したいですわ」

ラケルの注意を引いたようだ。表情を変えないまま「古い資料室がある。貴重だけと価値のない書物を収めていて、簡単な魔法で封印した部屋」答えた。

「素敵ですわ。行きましょう」

息をひそめたような暗い廊下をいくつも渡り、ついた資料室はなるほど十年は人が訪れていなさそうだった。冷ややかでほこりっぽく空気は乾いている。

「よくこんな場所覚えていましたわね」
「宮廷魔道士だった頃、ここの鍵を預かっていた」

ラケルはリタから目を離さずに、それでも柔らかい口調になっていた。

「影踊りの一族、なんだか変わったわね。初めて私が見た時は人間の外見をした異形のなにかだったのに。今のあなたはよくいる人型の異種族に見える」
「どう違うのですか」
「親しみが持てるってことよ。悪く言っていないわ」

喜ぶべきなのかリタには判断がつかなかった。

「ラケルさまはお変わりありませんわね」

ラケル・グリスター。今はすすけた旅装束に身を包んでいるが、かつてはマドリーム宮廷魔道士の一人だった。最年少ながら腕は確か、しかしラスティアの計画にひとり反発し、最終的に当時の同僚を全員カエルに変えてしまい出ていった。宮廷魔道士の面目は丸つぶれである。莫大な懸賞金を出して手配されているがいまだに捕まっていない。

(気の毒にといいますか運良くといいますが、そのせいでいざ雷竜の一行がバイザリムにきても魔道士たちはろくに手出しができなかったのですわ)

加えてラケルはれっきとした王族の血を引いている。現王オキシスマームが実父だ。母親の身分が低すぎたこと、オキシスマームの子が多かったこともあって誕生即臣下に下り神殿に預けられた。その後才能と血筋を見こまれて魔道士になったと聞く。

(複雑な生い立ちなのに軽く飄々とした性格で若い人たちの人気は絶大でしたわね)

今までのマドリームを説明しながらリタは内心評価した。

説明には時間がかかった。多くのできごとがあった上、ラケルはラスティアのことも影踊りが王に仕える理由も知っていた。ごまかすことはできない。さすがに鬱金や宿命の戦いまでいくと目を丸くはした。鬱金から頼まれた王探しについては黙っていることにした。

「信じられない」

めまいを起こしたように、ラケルは目を覆った。

「現実離れしすぎている。でも本当なのね」
「信じたくないのでしたら構いませんわ。でも気にいる回答でないからといってわたくしののどをかっ切るのはやめてもらいたいですわね。申し訳ありませんがそれはわたくしのせいではありません」
「信じておくよ」

本心は分からないが、ラケルは反論をしなかった。

「まいったわね。今後マドリームはどうなるの。よけいなことをしていらない痛手を負って」
「失礼ですが、いらない痛手を負いそうになっているのはラケルさまもではありませんか?」

リタは指摘した。

「ラケルさまは公にこそ手配されていませんけれど、マドリームに追われている身なのですよ。宮廷魔道士は自身の誇りと進退が窮まっていますから必死に探していますわ。今でこそ国内は大混乱で人を狩って楽しむ余裕はありませんが、のんびりしてはいられませんわよ」

危険さはリタの比ではない。リタはごく一部にしか知られていず、城内で見つかっても女中とでも侍女とでもなんとでも言える。ラケルは違う。派手に暴れたのだし有名人だ。バイザリム城で見つかったら言い訳ができない。

「てっきり国外にいるのだと思っていましたわ。早くお逃げください」
「国外にいたのよ、つい最近まで。マドリームの話を聞いて慌てて戻ってきたの」

ラケルはため息をついた。

「間違っていたのかもね」
「戻ったことが、ですか」
「逃げたことがよ。ラスティアなんて胡散臭い人物の協力をするのが嫌で私は反対したわ。利益に目がくらんだ同僚と長々けんかをして、しまいには蹴り飛ばすように国を飛び出た。

結果的に私は短気を起こすべきではなかった。じっくり座りこんでひとりでも説得できたら。ラスティアのいいようにはされず、マドリームは荒廃しなかった」

「きっとラスティアに殺されていましたわよ。わたくしの一族はわたくしが外部に助けを求めたせいで滅ぼされました」
「なんですって。それは……」
「ご心配なく。影踊りは集団意識が強い一族です。ゆえにわたくしだけになってもそれほどの悲しみはありませんわ」

複雑な感情と喪失感を覚えたのは確かだが。

「ラケルさまが手に負える相手ではなかったのです。ラケルさまだけではありません、世界中探してもどこにもいませんでしたわ」

ラスティアに対抗できたのはひとつだけ。異界からの迷い子大谷秋人だけだ。宿命の者、雷竜クララレシュウムに選ばれたものが連れてくる状況だけだった。それまで待たなくてはならなかった。

そこまですごい人には見えませんでしたけどね。リタは心の中で付け加える。

「かつては無理だったけど、これからならなにかできるかしらね」

軽い調子だった。「今はもうラスティアはいないのだし」

「指名手配を忘れています」
「うん。まずは手配を解かないとね。同僚たちに話を通さないと。まだ怒っているかもしれないけど怪我させたのではないから笑って許すでしょう」

どこまでか本気か分からない発言である。リタはやれやれと肩をすくめた。

「ところでリタ」
「はい」
「ライラックもリタの仕業? 初めて見た時驚いたわよ」

リタは凍りついた。

「は…… い?」
「確かに安全かもしれないけどね。でも私みたいな野性味ある女とは違って、ライラックは正真正銘本物の姫君なのよ。風にも耐えられない深層の令嬢。やりすぎよ」
「待ってくださいませラケルさま」

冷静な影踊りの娘は滅多になく動揺した。驚きすぎて全身に刻みこんでいる文様が淡く光ったぐらいである。

「ライラック姫が、生きていらした!? 本当ですの!」
「知らなかったの?」
「わたくし諦めていましたのよ! 避難先の館は焼け落ちたと聞きましたわ。それなのに生きておいででしたのね。どこにいらっしゃるのですか」
「あー」

まずいことを言ったと、ラケルの困った顔は雄弁だった。

「生きているけど、少し刺激的な内容になるわよ。あのね、落ち着いてね。ライラックは」

「リタ?」

信じられないようにライラックはまばたきを繰り返した。

「まあ。リタ、あなたなの」
「ライラック姫」
「無事だったのね。心配していたわ」
「ライラック姫、わたくしも心配でした」

絶叫したいところをぐっとこらえ、リタは冷静になるように自分に言い聞かせる。

「なぜ、このようなところにおられるのですか」

ライラックは周りを見回した。リタの言いたいことが分からないらしい。

「わたくしがせいぜいお針子か料理人ぐらいしかなれないからよ」
「言いかえます。どうして旅芸人の一座に加わって家政婦をしているのですか」

水も寒気も防ぐ分厚い布の天幕内、明かりはなく人間にとっては暗くて狭い空間、2人も入れば一杯になる狭い間仕切りの部屋は布と裁縫道具が整頓されている。ライラックが片手で抱えこんでいる裁縫箱も、長く大切に使いこまれた実用的で古いものだった。

かつてライラックが持っていた宝石と螺鈿が埋めこまれた裁縫箱とは雲泥の差である。第一あの裁縫箱でライラックがつくろいものをすることは絶対になかった。

「ライラックさま、ハシド家にお戻りください。姫は今生死不明なのですよ。早くお帰りになって皆さまを安心させてください。ラケルさまから話を聞いてどれだけ驚いたことか」
「ラケルさまから。リタ、家のものに話はしたの?」
「いいえ。信じられないのでまずわたくしが確認をしにきました」
「そう。外に出て話さない?」
「ええ」

リタは不安になった。以前のライラックは明朗で、影の力で頭を直接のぞきこまなくても考えることが見通せた。今は違う。明朗だが底が見えない。リタに大きな転換があったように、ライラックにもなにかあったらしい。リタの心がざわめいた。

布で仕切られた部屋を出ると、ちょうど刀と小刀を山のように危なっかしく抱えた少女とすれ違った。ライラックを見、リタへと視線を動かす。旅芸人のひとりのようだが、どう見ても眼差しは友好的ではなかった。

「だれ」

友好どころか思い切り敵対的であった。王城に忍びこんだ曲者を見つけた衛兵のようである。

「わたくしの友だちよ。ブロッサム、心配はいらないわ」
「なにかあったら大声を出すのよ」

つっけんどんに言って離れる。

「初対面の人間にここまで嫌われたのは初めてですわ」
「事情があるのよ、リタ。ちゃんと言うわ」

天幕から出るとマドリームらしい強烈な日差しに目が痛い。大気は乾ききっていて、砂色の建物を飾り立てるように色鮮やかな布が翻っていた。露店の商人は表面にしわがよった山盛りの果物を売り、老人が日陰で茶を飲む。

平和な光景だった。しかしリタは通りを歩く戦士を、うつむいて駆け足で急ぐ小間使いもちゃんと見ていた。バイザリムから5日はかかるような田舎都市にも不安と戦乱の臭いは漂っている。

「あの日のことは忘れそうにないわね」

表面上の平和を好ましそうに眺めながら、ライラックは目を細めた。

「城でなにが起こっているのか分かっていなかったわたくしを、リタは脱出させてくれたわね。農民のような見たことがない服装で、それはもう怖い顔で」
「そうでしたわね」
「有無を言わさずわたくしを連れもなしに別荘まで連れて行ったわ。そしてなにも言わずまた出て行ってしまった」
「はい」

リタはひやひやした。あの時はミサスの強襲―― 影の世界で、多くの同族が立ちむかったにもかかわらず暴力的な魔道で蹴散らされた―― を間一髪かいくぐり、たくらみが破綻していく隙を突いてマドリーム王家からの支配を断つために大魔道士に頼ろうと、秋人たちへの接触をうかがっていたのだった。リタ一世一代の大博打だった。

ライラックのことはおまけに過ぎない。合間に思い出しただけだ。一歩転げ落ちたら即消滅の危機だったのでその時のリタににこやかさはなかったし、考えも甘かった。

戦乱がライラックの別館、郊外の館にまで及ぶとは思わなかったのだ。次にリタが見たのはかなり後、暴徒に襲われ焼け崩れた館だった。

「どのようにして生きていたのですか」
「リタこそ。あの後リタはひとりでどこかに行ってしまったわ。なぜあんな危険なことができたの?」
「助けの当てがありましたので。しかしライラック姫に助けはあったのですか。お父上の力添えですか?」
「お父さまはなにも知らないわ。逃げこんだ館が襲われ、火がつけられた。その時わたくしはひとりでどうしていいか分からず誘拐されかけた。その時嫌がるわたくしの声を聞いて助けてくれたのよ」
「だれがですの」
「ブロッサム、そしてイーザー・ハルクさまがた。リタ、あなたも覚えているかしら?」

ブロッサムは知らないが、イーザーとその一味についてはよく知っている。そのうちひとりのザリについては記憶と人格をごっそり受けとってさえいる。思い返してみようとしたが、いまやリタのものであるザリの記憶にはバイザリム脱出はほとんどない。混沌としすぎていて整理する前にもらったからだろうか。

「イーザー・ハルクさまですか」
「まるで英雄物語の主人公のようだったわ。信じられる?」
「信じます」

イーザーならやる。彼はいい人だ。弱きを守り悪に黙っていられない、まっすぐな人物だ。いい人すぎてバイザリム脱出の罠にかけられたくらいだ。さらわれそうになった女の子を助けずにはいられないだろう。

リタは頭痛がしてきた。助けられたリタが言うのはなんだが、なぜ宿命の者秋人は赤の他人を衝動的に助ける人物を仲間にして旅を進められたのだろうか? 人助けはいいことではあるが、自分たちも果さなくてはいけない宿命があるのに寄り道をしていてよかったのだろうか?

「わたくしを助けてから、イーザーさまはとても大切な用があってすぐ行かなくてはいけなかったの。それでブロッサムがわたくしをひとまず安全な場所へ連れて行くことになったのよ」
「それで連れて行かれたのがここですか?」
「いいえ、初めブロッサムはわたくしの家族に預けるつもりだったのですけどね。わたくしの一族もまた逃げていてどこにいるのか分からなかったのよ。丸一日さまよって逃げた末、バイザリムから出ようとして衛兵に力づくで止められている芸人の一団とすれ違ってね」

とても嫌な予感がした。

「思わずブロッサムが手を出して大喧嘩になったあげく、一緒に強行突破」

やっぱり。ブロッサムはイーザーに輪をかけて喧嘩っ早い性格のようだった。

「その縁で今も一団に加えてもらっているのよ」
「よくたたき出されませんでしたね」
「逃亡費用にわたくしが持っていた装飾品を渡しましたから」

城にいた頃のライラックはちょっとした飾りでも質のよい、高価なものをつけていた。小さな指輪ひとつでもマドリームの平均的家庭が一年食べるのに困らない値段だろう。

「ライラック姫が旅芸人の一団に加わっている理由はよく分かりましたわ。でも、どうしてまだいるのです。帰らないのですか」
「初めのうちは帰るつもりだったわ。ブロッサムの怪我が治って、わたくしは親族の家を訪れたの。ブロッサムに送ってもらって」

朗らかな表情に初めて陰が差した。

「殺されかけたわ」
「まさか」
「本当よ。ブロッサムが遠慮なく暴れなかったらわたくしはここにいなかった」
「ハシド家のひとり娘を殺そうとするなんて恐れ知らずですわ」

リタは自分のことを棚に上げた。

「お父様の政敵と通じていたかもしれないし、別の理由なのかもしれない。どうであれブロッサムが歯を何本も折ったので聞き出せなかったわ」

きっと違う理由だろうとリタは推理した。恐れ知らずな行動だが、ライラックがいなくなればハシド家直系の席は空く。国に内乱を抱え支配者となるべくだれもが翻弄している中、賭ける価値はある行動だ。

ライラックもハシド家を狙った親族のことは気づいているのだろうか。なにも言わなかった。

「だからライラック姫は、今でも隠れているのですね」

帰るべきところをなくしたから。頼るべきところはもうないから。

「その理由もあるわ」
「他の理由なんてあるのですか?」
「あるわ」

少し恥ずかしそうに、とても嬉しそうにライラックは笑う。頬に赤みがさした。

「わたくし、一団がとても好きなの。ミスティス団は軽業や手品、演劇までする団でみんな前向きで元気だわ。団長のミスティスさんはブロッサムと同じくらい手が早いけど、わたくしの事情を知ってなお置いてくれる。わたくしはここではただのお針子で、家政婦のライラックだわ。お仕事を任されて働いているのよ」

ブロッサム並みに喧嘩っ早い人がいるとは。世の中もマドリームも広い。

「バイザリムでは名家ハシド家の唯一の後継者、高貴な姫君でしたのに。ここでは軽業師やブロッサムの小間使いですか。お父上が見られたら失神しますよ」
「リタも同じようなものでしょう」

しれっと言い返された。その通りすぎてなにも言えない。

「ここにはわたくしが見るべきものがあるわ。ハシドの宝石としてちやほやされていた時は、わたくしは見ることも考えることも許されなかった。ミスティス団は違う。わたくしが考えこんで、夜中毛布の中で身じろぎしなくてもなにも言わない、放っておいてくれる。わたくしがハシド家らしくないことを言っても気にしないわ。ハシド家ではわたくしはまるで人形のようだった。みんながわたくしを大切にしてくれたけど、だれもわたくし個人を見なかった。リタもそうでしょう」
「ライラック姫」
「戻らなくてはいけないことは分かっているわ。わたくしはハシド家のライラックですもの。でもその前に時間がほしいの。ミスティス団やブロッサムと離れても、ひとりで考えることができるわたくしになるために」
「ライラック姫、マドリームはどうなりますか」

衝動的に聞いた。

「今のマドリームは統治されていない、混乱している。人々は不安がって、小さな争いがたくさん起きているそうよ。とめないとね、リタ」

リタの肩が震えた。

「……失礼しますわ、ライラック姫、お父上には言いません」
「ええ、ありがとうリタ。……リタ? どうしたの?」
「いいえ、いいえなんでも」

平然としているふりはできそうにない。恐ろしい感情が胸の奥からわきあがってくる。それは不安で、今大きくなっているのだとリタの中にいるザリが教えてくれた。逃げ出すように走った。

「うあっ」

人にぶつかってぶざまに転んだ。

相手は一見リタと大差なかったが転ばなかった。よろめきもしなかった。日頃より身体を鍛えているのだろう。成長期最中らしいやや長めの手足はしなやかな筋肉で構成されている。

「あんた、ライラックの」

剣呑な目つきになった。敵意がにじむ。

「ブロッサム」
「あんた、ハシドの追っ手なの? 悪いけどこっちにもライラックとは縁があってね。手を出させやしないわよ」

両耳の大きな耳飾りはひし形だった。闇色の鉱物は涼やかな音を立てる。

リタはブロッサムの両肩をつかんだ。

「なによ、脅しているつもりなの?」
「うるさいですわ、狂戦士」

両手がブロッサムにめりこんだ。肌を突き破るも出血を伴ったものではない、精神的な干渉だ。リタの全身に刻まれた文様が輝く。ブロッサムの耳飾りと同じ闇色だった。

「あなたには分かるまい、定命の人間。わたくしの苦痛など」

ブロッサムの心を読むつもりも対話する気も、操る考えもなかった。投げ飛ばすように突き放し走る。一刻も早く帰りたかった。

ここは変化が多すぎて、大半の時を動かぬ闇の中で過したリタにはまぶしすぎる。

「なにするの、この人外!」

ブロッサムの怒り狂った叫びが聞こえる。通りを曲がり一角にだれもいないことだけを確かめるとリタは影の世界へ飛びこんだ。

生命あるものには耐え難い絶対の静寂。リタはとどまらずに進み続けた。

無性に変わらないものが見たかった。例えば古代より在り続けている精霊の化身。


興味がなかった時は見かけたのに、いざ会いたいと思うと姿が見えないのが不思議だった。リタは影の世界から地上を見下ろし巨人の女を求める。

今の魔荒野は深夜だった。一番影の世界に似た時間帯である。かすかに風にあおられ砂が動く以外の音はない。影の世界に温度はないが、おそらく今の荒涼とした地は極寒なのだろうと見当をつける。生身で歩けそうな環境ではない。

諦めかけた時リタは声をもらした。概念上の発音は空中に霧散する液体の砂糖になる。

近くにある遺跡から人ならざる生き物の気配を感じた。

古の都市ミリザム。今まで遺跡の存在は知っていたものの無視をしていた。はるか昔、魔荒野がまだマドリーム国でなかった時栄えた都だった。今は半分砂に埋もれ、一部は無残にも破壊され急激に風化しつつある。

大地に広がるミリザムとは別に、付近に蟻塚のような細い山がある。ちょっとした地震で折れてしまいそうな細い土くれだった。見た目では。

「驚いた、これも遺跡だったのね」

素直に感心して中をのぞきこむ。今まで全く気がつかなかった。厳しい環境の魔荒野にある割に山の内部は異常に保存状態がよかった。明かり取りの窓は小さく砂が入りにくいよう入り組んでいる。そのため床に砂は降り積もっていず、彫られた壁も棚や机などの家具も今でも使えそうだった。館というより砦、城といった風情がある。

温度もかろうじて快適の範疇に収まっているのを確かめると、リタは出てきた。

自分で足を地につけてみるとむしろ神殿に近いように見える。部屋は大きくないが天井が高い。きらびやかでも絢爛さもないが、くりぬかれた壁のなめらかさ、建物としての居心地のよさに感心する。丁寧に建てられた。

歩いていくと広間らしい場所に出た。2箇所の天窓からかすかにこぼれる明かりで、リタの目に入ったのは演台でも壁に刻まれた伝承でもなかった。

広間の奥、一段高いところに彫像が安置されていた。はるか古代、聖なる場所に今でもたたずむ人物。石を掘った荒々しいもので、おそらく深い敬意をこめて後から設置したのだろう。細い体格といいなで肩といい、女性という印象を受けた。

だれだろうとの疑問に、リタはようやく思い出した。

「巫王カーラハディ! 荒野の女王、伝説の大地を統べる巫女。一言で大地を隆起させ腕の一振りで地割れを起こすことができた。そしてわたくしたち影踊りの一族を鬱金と共に屈服させた人物」

鬱金の言っていた、土の精霊を具現化するほどの能力者ハディの正体が、真昼の荒野に氷を投げこんだかのように理解した。彼女なら土の精霊に関することならどんなことでもできるだろうし、かつての友として鬱金も親しみ深く思い返すだろう。鬱金が前置きを一切せずに言及したのも今としては分かる。記憶を一族で共有していた影踊りの一員として、確かにリタも知っていたからだ。もっとも影踊りの基準としてもはるか昔すぎて、リタはうっすらとしか知らなかったが。

「こんな顔をしていたのね」

像からでは顔の作りは分からない。だが見る限り外見は至って普通の女性に見えた。常人離れしたナーガの相棒とは大違いである。どう見ても荒野をまとめ影踊りを支配し、いまだに伝説で語られる偉人には見えない。

「あなたみたいな方が、今でもどこかにいらしたなら」

自分で知らないうちにリタは言う。

「わたくしの仕事も、とても楽になりますのにね」

ふとなにかの音を聞いた気がした。振り返る。

自分以外のなにかがいる。リタは影の世界より精神を伸ばして探った。すぐに見つけた。懐かしい、探していた気配だ。

自分の気配を消そうともせず無防備に走った。密偵としては失格ものだが、リタにも言い訳があった。その人物はリタがどんなに騒いでもけして気にしない。

岩をくりぬかれた廊下をいくつも曲がり広場に出た。外に出たのかと間違うほど天井は高く、小さな窓は夜の冷気と闇、かすかな星々を部屋の中へ運ぶ。

ひとつの椅子以外、一切の家具はないところで庭師は座りこんでいた。上半身を玉座にもたせかかるようにすがり、安らかに目を閉じている。険しい顔はかすかに笑みが浮いていた。

庭師。大地の化身。カーラハディによって呼び出され、彼女が消えても今なお存在しているもの。

まだカーラハディを覚えているというのか。まだ愛しく慕っているのか。その時生きていた人々がすべていなくなっても、彼女の国が滅んだ後でも。

うらやましいと、リタは思った。そこまでなにかを愛せた庭師がうらやましい。

「あ」

リタは気づいた。

「ああ。……そうですの」

鬱金の命令。王を探しなさい。

庭師の姿を見て気づいた。本当は、伝説の大魔道士はこう言いたかったのだ。

「希望を探しなさい」

街が住民によって焼かれ、王族は当てにならない。だからこそ希望を見つけてきなさい。

人でも、ものでもなんででもいい。逃げようとする人間を引き止め、無視されてきた人間ではない種族を見つめる。彼らに自棄を起こさせず、あきらめさせず、それがなくなってもいつまでも伝えられるほどの望みを探しなさい。

あたくしはカーラハディを見つけた。彼女は巫王になりあたくしの友となった。今度はリタの番よ。なんででもいい、だれでもいい。人々の、荒野の、リタ自身のために。

「はい、分かりました」

ようやく理解し、うなずいた。

「分かりました、ガラディアスさま。……わたくしの目的を見つけます」

そしてその人が見つかった時こそ、リタは人として影の子として庭師のように笑えるのだろう。