三つ首白鳥亭

−カーリキリト−

帰るべきところへ 12

木々の間からのぞき見える空は明るい。だがじきにかげり雨になるだろう。

森というにはあまりにも貧しいしげみは静かだった。本来いるべき小動物も昆虫もなにも見えない。

驚いて隠れているからだ。

たった今、彼らにとってあまりにも巨大なものが落下したためだ。ものは動かず黙って横たわっている。すぐそばに落ちて地に突き刺さった細めの刃が鈍く光った。

しげみが揺れた。端々が赤らんだ貧しい草をかきわけ、この地に不似合いな青色が出てきた。

空、群青、藍、水色。この世に存在するありとあらゆる多種多様な青色を染めてまとったような衣。背に螺鈿のリュートを背負い、足は過酷な地には不似合いなサンダル。服と似た青色の髪は高い位置で束ねられ、墨色の眼差しは悲しみと同情に満ちている。

「哀れだ」

青の楽師、秋人にはフォールストと名乗っていた人物は動かない響の横にそっと座りリュートを抱えた。

音がひとつ爪弾かれ、フォールストは響へ問いかける。言葉の代わりに音で、空気を震わせる音の代わりに魂のささやきで。

「異界の人、剣士、わたしのことが聞こえる」

リュートが震える、豊かな演奏があふれる。いくつもの弦がはじかれ、曲は意思を持って響を包む。

「傷は軽いものならすぐ治る。人には自己治癒能力があるから。自分で治してしまえる力が生まれつき備わっているから」

低木が揺れた。リュートが重なり合い混ざり、たったひとつの楽器は無限に増えて広がっていく。

「聞きなさい異界人。わたしにはなにもできない。

あなたの力を引き出そう。自分を治す能力を拡大するように導こう。

わたしに手出しはできない、あなたがやるんだ。傷を治し意識を取り戻し、目的のために起き上がれ」

音は意思を持って人へ呼びかけ力となる。本来起こらないことが起こり、ありえないことを現実にする。

魔法。カーリキリトでは魔法と呼ばれる力。だが定まった言葉も本来の形式もない。

魔法のはじまり、原始的な言葉の力。音は呼びかけ光があふれ、ただひとつの目的のために動く。

「あなたを大切だと思う人のために」

願い祈って、音は続く。


ぽ。

青い髪にしずくがこぼれる。空は暗い。フォールストはリュートを布袋に戻し、横たわる人影に目を向けた。

呼吸は安らかで眠っているかのようだった。今まであったはずの手のあざも古い切り傷も、致命となった背への打撲もない。

フォールストは視線を戻し、黙って待った。水滴はやがて大粒の雨になり、青い髪から水が滴り、衣も暗く重くなる。雨粒はまるで泣いているかのように顔をつたった。

今まで気配などなかったしげみに、白い人影が映った。

「なにをした?」

深く沈んでいるフォールストはなにも答えない。ラスティアは動かない響を見下ろす。

「宿命の者を多少は動揺させるだろうと回収しにきた。だが思わぬ収穫だったな。生きているならまだ利用できる」
「それはできない」

フォールストはぎこちなく動いた。

「彼はもう脱落した。この宿命から振り落とされ、戦いによってもう死んだ」

3日は身動きしなかったような鈍重さでフォールストは立ち上がる。ラスティアと響の間に立ち両手を広げる。全身雨に打たれ、髪が顔に張りついた。

「彼を盤上に戻すことはできない。そのために生かしているのではない。下がって」
「命令する気か」
「いいや、違う」

強い意思はなく、暴君を止める力を持たず。無力でなにもできない楽師は悲しげに首を振る。

「事実を言っているだけだ。ラスティア、反逆者。あなたに手出しはさせない。そしてできない。あなたにわたしを傷つけることはできない。あなたが今まで宿命の者を、アキトを止めることができなかったように」
「なにものだ」

ようやくラスティアは、立ちふさがる楽師に注意を向けた。

細い身体、青の衣。髪は青く憂いを含んだ顔つきは、国籍も年齢も性別も読みとれない。

「わたしはフォールスト」

楽師は伝える。

「旅の楽師。世界をさまようリュート弾き。

青の楽師。どこにでもいるただの人。

わたしは名もなき存在。どこにでもいるありふれた人物。

わたしは海底に転がるひとつぶの沙、踏めば死ぬ弱い葦の葉。

わたしはフォールスト。わたしはだれか。

わたしは岩。わたしは山。わたしは森。わたしは水。わたしは風。

わたしは全て。全ての存在を重ねた存在。

ありとあらゆるものを見て、全ての音を聞く存在。

わたしはカーリキリト。わたしは世界。

消えなさいラスティア。あなたにわたしは傷つけられない。なぜならわたしは唯一の不参加者だから。盤外に立つもの。絶対の傍観者。予定外の存在」

ラスティア。秋人に語りかけるのと同じ、優しい言葉で楽師は告げる。

「わたしは、この世界で唯一の、あなたの味方だ」

雨はやがて弱くなり、空からこぼれ落ちる涙も枯れる。

楽師は動かない。座りこみ、ぬかるみの中に腰を落としている。横にいるのは響のみ、ラスティアの姿はない。

夕闇が迫る。楽師はぬれながら待ち続ける。何時間でも何日でも、もうずっと。

木々の間、影が盛り上がりたちまち人の姿を取った。紺色のドレスに黒い髪で、沈んだような色の少女。

「鬱金さまってば人使いが荒いですわ。こんなところになんの用が。っ!」

たった今気づいたかのようにリタは跳ね上がる。実際気がつかなかった。目の前にいたのに気配がつかめなかった。呼吸や体温といった生きている以上どうしようもない生理面からだけでもない。もうひとつの方法、影の目からも分からなかった。

「待っていたよ、リタ」

今にも逃げ出しそうな影踊りの一族へ、楽師は語りかける。

「鬱金に頼んだのは、いいや押しつけたのはわたしだ。彼を鬱金まで持っていって、しばらく留めていて。後で迎える」

そして楽師は去る。最後に会うため。宿命の者と対面するため帝都へと。