三つ首白鳥亭

−カーリキリト−

切り札

「おい」

聞こえる。五感がなくなったはずの場所で呼び声がする。

「おい、大谷」

だれだっけ、この声。聞き覚えがある。麻痺した頭の中で考えた。そもそも俺を大谷と呼ぶのは。

「もうホームルームも終わったぞ、起きろ」

ホームルーム? 俺は顔を上げた。

騒がしいクラスの中、俺は自分の机に座っていた。

「え、ええっ」

思わず立ち上がる。周りは特に気にしなかったが関口は「なんだよ」引いた。

「寝ぼけたのか?」
「いや、違う。そうかもしれないけど」
「どっちだよ」

色つきの眼鏡に綺麗に染めた茶髪の関口良次は、呆れたように俺を見る。少し斜に構えた、でもどこか抜けた顔は記憶のと全く同じだ。

なんで俺はここにいる。見回しても変わらない。小汚くかしましい日坂高校の一クラスだ。とてもさっきまでの沈んだような場所ではない。

今のは夢だったのか、いや、今までのは全部夢だったのか!?

まさか、そんなはずはない。あれは現実だ、みんな本当にあったことだ。

だとすると、これは一体なんなんだ……?

関口が呆れたように俺を見て、教室前の方、ドアへ手を向けた。

「呼んでいるぞ、委員会今日だろう」

ドアで先輩が手を振っていた。ひとりはかなり制服を改変した荷沢先輩で笑顔をふりまいている。もうひとりは。日坂高校のブレザーを着た、背の高い男の方は。

「響さん」

すっと響さんはドアの影へと身を引いた。

「待って!」

叫び、机をなぎ倒す勢いでドアへと一直線に走る。なんだとクラスメイトが俺を見るが構っている余裕がない。荷沢先輩のわきをすり抜ける。

本当は隅にほこりが積もりロッカーが占める廊下は真っ暗でなにも見えなかった。明かりがなくてなにも見えないはずなのに、それでも俺は響さんの姿が分かった。カーリキリト風の旅装束で腰に日本刀を差している。かつての鋭い視線はない。優しいといえるほど穏やかな表情だった。

「響さん、俺」
「すまない、大谷くん」

響さんは言った。言ってからなにかを探すように周りを見る。

「ギリスを知らないか。探しているのに見つからないんだ」

ギリスは確か、響さんのカーリキリトでの唯一の味方だ。俺は一回だけ姿を見た。魔荒野の朝ぼらけ、やっとようやく最期に追いついた女の子の幻覚を。

「行かないと、見つけないと。ひとりで泣いているかもしれない。涙は流さないけどきっと泣いている。待っている、探さなきゃ」

身を翻し、響さんは走り始める。俺もついていきたかったが、速くてとても追いつけない。遠ざかる背中を空しく見送るだけだった。俺は崩れて膝をつく。全身の力が入らない。

「まだ会えないのかよ」

やるせなさに埋もれて俺は立てなかった。なんでだよ、なんで。謝らなくてはいけないのは俺なのに。俺のために響さんは犠牲になったのに。どうして謝るんだ、どうしてまださまよっているんだ。

「自分のしたことを思い出したか」

光ない場所で責める声がした。姿をとらずに俺を追いつめる。

「彼らはお前が巻きこんだ、お前が殺したんだ」
「違う」

力なく否定する。

「まだ行く気か? さらに多くの死体を作り、呪われた血まみれの道を行くのか」
「違う、そんなことはしない」
「己の罪を認めろ、秋人」

冷酷に俺を裁く。

「お前は人殺しで、友を手にかけた悪人だ。この先さらに戦いがあるのが分かっていながら先を目指す」
「行かないといけない」
「これ以上罪をおかしたくなければじっとしていることだな」

じっとだって。こんななにもない、自分の顔さえ分からなくなりそうなところでか。

「お前にこそふさわしい場所だ。人殺しの秋人には」
「うるさい、黙れ黙れ黙れ!」

振り切るように首を振る。叫んで耳をふさぐ。

「そういうお前はだれだ。邪魔をするな!」
「私。私は」

悪意のこもった笑い声が、壁のないはずのここに反響した。

「私は、お前の悪夢だ」

立った。走って逃げようと、聞こえないところまで行こうとする。

「無駄だ、秋人」

声はまだ聞こえたが、だんだん遠くなった。

「どこに行こうとお前は逃げきれない」
「……くん、大谷くん」

断罪者の言葉に、覆いかぶさるようなささやきが聞こえた。か弱くて細い、でも何回も何回も、だんだんはっきり聞こえてくる。その人の声が俺に届く。

「大谷くん、大た……」

逃げながら考える。聞き覚えがある。

「大谷くん!」

前触れなく怒鳴り声へと跳ね上がり、俺は驚いて転びそうになった。

「さ、桜木!」

ようやく追いついた桜木に目を奪われる。汗だくで髪は乱れたい放題、ブレザーのスカートはどこか引っかけスリットが入っていた。清潔でこぎれいな日坂高校女子学生はまるで廃墟を一晩中さまよったかのようなひどい姿だった。

桜木は肩で呼吸をし、両手を膝についてかろうじて立っていた。夢の中でしか見たことがない、怒りをかみしめるような表情で前を向き俺をにらむ。俺は腰が砕けてなにもいえない。

「大谷くんはずるい!」

思いがけないことを言われた。

「大谷くんばかり先に行ってずるい! ひとりで成長して、私の知らないところで前に進むなんてひどい」
「桜木?」

なんだそれ。

「初めて会った時、大谷くんのことなにもしていない人だと思った。好きなこともやりたいこともなくて、ぼんやり生きている人だって」

まくしたてるように、今まで潜めていた秘密を明るみにするように興奮して桜木は早口になる。

「私と考えは違うけど同類だと思った。私もなにもしていない。やりたいことは一杯ある、したいこと見たいこと行きたいところ試したいことはたくさんある。でも私はやらない。人の目が怖いから、周りからなんて言われるか不安だから。自分に自信がなくて、どう思われるかが怖くて怖くてたまらないからなにもできない。

仲間だと思っていたのに、同じだと思っていたのに、なにもしないもの同士だと思っていたのに、大谷くんは先へ行ってしまった」

怒りの正体をようやく俺は見た。

桜木の顔をここまでゆがめている感情の名前は嫉妬、羨望、ねたみ。

「私は行けないのに、行きたくてたまらないのに、なにも考えてない大谷くんはいつの間にかはるか先にいた。私だって、私だって行きたいのに」

そして心の底から焼きこがしてしまいそうな憤り。自分へのふがいなさと情けなさへの激しい憤り。

「大谷くんがうらやましい。なにも気にしていないし考えてもいないから。私も男の子になりたかったよ。走り出してもだれも気にしないんだから。スカート翻さなくても遠くまで行けるんだから。

大谷くんだけ先に成長して、先の方へ何食わぬ顔でいてずるい。私だって行きたい!」

「……えー、桜木?」

こんな大事に巻きこんでどうしてくれるって怒っているなら話はよく分かる。でもその思考回路はなんだ? そんな訳の分からないことで怒られても俺が悪いんじゃないから謝れないぞ。

桜木の思いがけない、そして理解できない考えに俺はひたすら困った。どうしろって言うんだ、そんなこと言われても。

「落ち着け桜木。うぷっ」

とりあえずなにか言おう。そう顔を上げた時強風に叩きつけられる。砂ぼこりが目に入って痛い。青臭い草と雨と土の香りがした。

涙を流しながら目を開けると地の果てまで続く草原だった。風は吹き乱れ見上げた空にはすごい速さで雲が流れていく。日差しはまぶしく、多少の差はあれど大体同じ高さに生えそろっている草は金色の穂がちらほら見えた。

取り残されたような巨岩が根を張っていた。太陽の反対側に濃い影を投げかけている。

巨岩から音楽が聞こえる。弦楽器の単純な音色。他の伴奏はないし歌も聞こえない。短い小節を繰り返し、何回も何回も爪弾く。まるで魂をこめて叫ぶかのように、全身の力をこめて引く。軽やかで明るい、終わりない絶望の歌を。

もちろんだれだか分かっていた。初めから姿が見えていたというのもあるけど、きっと見えなくても見当がついただろう。

フォールストは最後に別れた時と同じ格好だった。青い髪を後頭部高くで束ね、世界中の青色を集めて染め上げた布を肩にかけ全身にくくりつけたような衣装だった。螺鈿のリュートを抱え墨色の瞳を伏せ、憂いを含んだ、でも透明な表情。岩に腰かけただ弾く。

「フォールスト」

俺の言葉は強風にあおられかき消されそうだった。

「フォールストは、だれだ」

青の楽師は顔を上げた。

「わたしは世界だ」

ひときわ強い風が舞い上がる。あおられ草原が岩が雲が空がフォールストが、ばらばらになりただ青色の破片となってきらめき消える。

気づいたら、俺はまた暗闇の中でひとりだった。


なにも見えないが、聞こえない訳ではなかった。

なにかの気配がする。静かに、ひそめるような息づかいだ。本当は気づかれないほどひそやかなものだが、あまりにも近くなので分かってしまった、そういう印象だ。

人間ではない。喉の奥に潜む唸り声に気づいて警戒を深める。なんだ? 記憶という頼りない本をめくって正体を探す。

そうだ、あれに似ている。グラディアーナ、それもいつもの半獣半人ではない。天幕市近くの森で凶暴化した時に見た最強の肉食獣。巨大な猫科動物になりゆきで変身した、あれと同じだ。

ということはすぐそば、下手をすれば目と鼻の先に同じような獣が潜んでいるのか? 慌ててスタッフを構える。

恐慌におちいってもいいくらいだったが、俺は冷静だった。

まずどこにいるのかを見極める。大きさと種類もだ。

襲ってくるか? きっとそうだろうな。でなければ牙をむいてうなり声を上げない。動物相手に逃げようとは考えていない。あいつら素早いもんな。

逃げられない、でも勝ち目も薄い。どうしよう。

先手を取ってひるませる。俺は手早く戦略をねった。早いうちに痛い目を見せてこっちが手ごわい相手だと思わせればいい。運がよければ逃げ出す。例えばいきなり顔面を殴りつけるとか。きっとびっくりするだろうな。

闇の中、俺は呼吸も忘れてその動物がどこにいるのかに全神経を注いだ。相手をつかめ、先手を取れ。どこだ、どこにいる。空気の通る音、筋肉の動く様子。五感を使って位置を探る。

そこだ!

狙い定めて、渾身の力でスタッフを振るった。

「ぎゃふ!」

情けない悲鳴がした。あれ? 人の声だ。

「な、なにするんですかアキト!」

ひいひい言いながら鼻先をさするグラディアーナの姿が浮き上がる。手には扉つきの角灯を持ち、涙を浮かべてしりもちをついていた。

「あれ。なんでグラディアーナがここにいるんだ」

もううなり声は聞こえない。どこかに行っちゃったみたいだ。

「なんでって、ひどいですね。助けにきたのですよ」

どうせこんなことだと思いました。グラディアーナは立ち上がった。

消えない。そういえば会話も通じる。今までの人と明らかに違う。

「どうしてここに。本物か? 俺の言っていることが通じるのか?」
「ちゃんと聞こえていますし本物ですよ。半分ですが」
「半分?」
「お忘れですか? 月瞳の一族の力。今までさんざんお目にかけたはずですよ」

なんだっけ。グラディアーナの獣人としての力といえばまず変身だろ、次には。

「あ、夢歩き! 人の夢に出たり入ったりするあれっ」

そうか、半分というのはここにいるグラディアーナは心だけで、本当の身体は別のところにあるというのか。

「はい正解」
「でもやっぱりどうして? そもそもここがどこだか知っているのか、今まで知っているたくさんの人に会ったけど、みんなおかしかった。なんでだか分かるか」
「分かりますよ。ちゃんと教えますからまず行きましょう」
「行くってどこへ」
「ちゃんと影と生身のある表の世界へ。ついてきてください」

角灯をかかげてグラディアーナは歩き出す。その迷いのない足取りについていく。

「ここは言ってみれば精神の世界。夢とも世界の裏側とも心の奥とでも、ま、適当に呼んでください」
「心の奥? 俺の?」
「みなさんの、です。個人の世界ではありませんよ。ミサスお得意の影の世界よりは浅くてなじみやすいですが、なれていないと危ない場所であることは確かです」
「なんでそんなところに俺いるんだ」
「罠にかかったからに決まっているじゃないですか」

まだ気づかなかったのですかと言いたそうだった。

「ラスティアの?」
「他にだれがするのです? 心は身体とはまた違った意味で弱い箇所ですし、心を痛めつけられ死ねば本当の命にも影響が出ますからね。そうでなくてもここまで心と身体が離れてさまよえば隙まみれです。子どもだって殺せますよ」
「うっ」

急に不安になった。一度たりとも幽体離脱した覚えはないけれども、グラディアーナの言っていることが正しければ本当の俺は寝こけていることになる。大丈夫なのか、ここは敵地なのに。

「今までキャロルやイーザーにも会った。あれも夢なのか。ラスティアが見せた幻なのか」
「いいえ、本人たちですよ。本人の深層意識、下手したら自覚さえしていない部分です。言ったでしょう。ここはみんなの夢なのです。あいまいな集団意識の場所」
「他のみんなは。イーザーたちも迷っているのか」
「教えられますよ」

歩いても歩いても闇の中だ。少し不安になったがグラディアーナは揺るがない。

「イーザーとキャロルはアキトほど深くはありませんが溺れていたので先に助けておきました。帰っています。ミサスは逆に自分からもっと深く潜りました」
「なんで。そんなことできるのか」
「影を歩けるのでしたら夢の世界も行けます。逆は無理ですが。たどってラスティアの精神に触れるつもりなのでしょう。直接殴るのか思考を読んで次にそなえるのかは分かりませんが」
「ザリはどうだ」
「ああ、あの人は」

グラディアーナのひげが震えた。

「平気でした。そもそも罠を意識せずに避けましたよ。でもミサスがラスティアを追ったのに感づいてついていきましたよ、自分から」
「はっ?」

そんなことできるのか?

「普通できません。精霊使いでも特力使いの獣人でもないんですし。でもあの人の精神やけに頑丈で柔軟ですし、やったからにはできるんじゃないですか? なぜか影の世界慣れしていますし」

ザリに関しては理解を投げたようだ。グラディアーナにも分からないことはあるらしい。

「グラディアーナはこのことを分かっていたのか? 無理に心の奥底をのぞきこまされるだろうって予測していたのか?」
「確信していました。物理的な攻撃は今までさんざん行ってことごとく駄目でしたし、からめ手もうまく行っていませんからね。次は精神攻撃だろうと思いましたよ。だからこそ私はアキトと離れて誘導したのです」

夢と幻の専門家グラディアーナがいなければ精神への攻撃を行いやすい。でも心だけで移動できるグラディアーナにとって距離なんて意味がなかった。

「ちょっと待て、それじゃあの時のは嘘だったのか?」
「さて、なんでしょう」

とぼけた。

「帝都でだよ。もう危なくなりそうで一緒にいる意味ないし、ならアットについていきましょうって言うの、あれ口実だったんだ」
「もちろん。それっぽい理由であればなんででもよかったのですよ」
「それ無責任じゃないか?」

アットについて任せたはずなのに口実だったなんで。それじゃあアットたちはどうなるんだ、投げ出しかよ。

「優先順位として、アティウスの安全よりもアキトたちの補助がはるかに高いですね」

断言されてしまった。

「お忘れですか、アティウスはより早くアキトをアザーオロム山脈に送りこむために無類の危険をおかしたのですよ。自分が無傷のままアキトを助ける方法もあったのにそうはしなかった。そんな彼らを前にして私もなにを一番にするか見誤る訳にはいきませんね」

返事ができなかった。期待が重い。

ここまで多くの人が俺のために動いてくれる。俺は応えることができるのだろうか。俺はこんなに大したことがない人間なのに、みんなの願うように動けるのだろうか。

なんで俺なんだろう。どうして俺なんだ。

「アキトが飛びだってから即座にアティウスにも伝えましたよ。納得しました。むしろ離れる方がよく分からなかったそうです」

お前のせいだ、お前は大したことができないくせに。責める声が聞こえる。無責任、気楽に投げつけた言葉が鋭い刃となって突き刺さる。

「まだまだ元気なシェシェイもいますし。彼らだってなんとかなりますよ」
「責任放棄はお前だよ、アキト。みなお前のせいだ。お前のために彼らは戦い死んでいくんだ」

グラディアーナの手を振りきり叫ぶ。「違う!」

「なにが違う」
「違う、違う。お前がやったことだろう、ラスティア!」

言葉が正体を明らかにするように、ラスティアの白い姿が浮き上がる。揺るぎなく自信に満ち、見ているだけでまぶしい。

「俺に責任を押しつける気か」
「違う、実際にやっているのはラスティアだろ、俺のせいなものかっ」
「お前さえいなければだれひとり犠牲にならなかった。お前が殺したも同然だ。お前にそれほどの価値もないのに」

もっとも嫌なことを突きつける。俺の声が震えた。立っていられなくなるのを必死で耐える。

くじけるな、これだって戦いだ。闇の中で肉食獣に会った時と同じ。弱みを見せずに立ち向かえ。獣よりずっと強い相手を前に、すくみそうになるのをこらえる。

「お前がやった、お前が殺した。お前は周りに不幸を振りまき、自分だけがよければいい勝手な人間だ」
「違う」

後ずさる。念仏のように、しがみつくように否定する。くじけそうだ俺。

「違う、違う、違う……」
「違う」

飄々とした、ずっと力強い声がかぶさった。

グラディアーナが、ちょっと水を取るかのような気楽な足どりで俺とラスティアの間に割りこむ。金の瞳がきらめいた。

「違う」

ラスティアの態度は変わらなかった。

「だれだ、きさまは」
「グラディアーナ。ご存知でしょう。月瞳の一族。踊り子にして盗賊、密偵にして旅人。異界研究者でもあります」

ここが王宮であるかのような飛びきり優雅な一礼に、ラスティアは馬鹿にしたような顔を隠さなかった。

「なんだ、半端者。漂う傍観者よ。猫には関係のない話だ。お前ごときになにが分かる」
「分かります」

グラディアーナは一歩も引かなかった。

「分かりますとも。

私はアキトとそう深い付き合いではありません。ウィロウともヒビキとも、かつてのアキトに関わった人を知りませんし話したこともありません」

「よくもそれで大きな口を」
「でも分かります」

鮮やかな攻撃。外衣翻し剣で貫くような一撃だった。

「今までアキトを見てきました。

短い期間アキトと話しアキトと共に行動しました。アキトを振り回しアキトに振り回されました。

アキトの話し方、行動、判断、考え方、キャロルやイーザーの態度。アキトはなにが好きでなにが嫌いか、なにを望ましく思いなにを避けるか。どのような人を愛しなにを後悔してどれに泣くのか。なにを考えどのように振舞う人なのか。アキトについては分かります。

アキトはそんな人ではない」

嘘つきでふらふらしてばかりのグラディアーナは判断した。

「アキトは無責任ではない。無闇に人を嫌ったり死に追いやる人ではない。それくらい分かります。

例え殺したという事実があったのだとしても、きっとやむをえない、どうしようもない事情があったのでしょう。そしてずっと悔やみ自分を責め続けるのでしょう。どうしてその程度のこと、私が分からないと思うのですか」

グラディアーナは助けにきたといった。それはただ迷子を救出することだけではなかった。

「うせなさい、ラスティア」

ラスティアから俺をかばい、代わって戦うことだった。

「あなたの魂胆は分かっています。アキトの後悔と罪悪感につけこみ、さまよわせるつもりですね。永遠の夢めぐり、この魂の牢獄で」

そうはさせません。爪の先まで自分で動きを制しているかのように、ゆっくり、だが明確にラスティアを指す。

「あなたの思い通りにはならない。

私はグラディアーナ、月瞳の一族。踊り子にして盗賊、夢の守り手。世界の目。

夢の世界であなたの思う通りにはならない。うせなさいラスティア」

「この程度で夢を支配し勝った気か?」

ラスティアは高慢だった。だが足元から光の欠片となって闇にきらめきなくなってしまう。

「よかろう、せいぜい勝ち誇っているがいい。

ここは呪われたアザーオロムの神殿、俺の支配下だ。この戦いがいかに愚かだったか、これまでの道がいかに無駄だったかを思い知るがいい!」

高らかに宣言し、自分の優位をこれっぽっちも疑わずに消えた。最後のひとかけらが消失すると、俺は崩れてへたりこむ。

「なにやっているのですか、今更」
「グラディアーナ。俺はここで響さんと会った」

起き上がるのを後回しにして告白する。

「ひとりだった。俺にギリスを見なかったかと言って迷っていた。まだ会えていない」

ラスティアの前では絶対に見せられない弱気だ。グラディアーナは黙っている。

「グラディアーナ、俺は無力だ。なにもできない。響さんになにもできなかった。夢でも、死後でもまだ会えないのかよ」
「うぬぼれてはいけません」

予想外のことを言われた。そりゃやさしくはげまされ勇気づけられるだなんて思っていなかったけど。

「あなたは宿命の者です。宿命の中心にいます。それでもできないこと、関われないこと、知りえないことがあるのです。そればかりだといっても間違いではない。あなたはたまたま中心に立った、運が悪いだけの人なのです。なにもかも手出しできると思わない方がいい」

彼らには彼らの道があるのです。なにもかも分かっているかのように告げる。

「アキトはただ少しだけ関係した、それだけです。もうあなたの手に届くことではありません。くよくよするのは時間の無駄です。諦めなさい」
「グラディアーナ、クララレシュウムからなにも言われなかったのは嘘だろ」

自信があった。

「なんて言われたんだ。グラディアーナの役割はなんだ」
「世界の目」

金色の瞳がきらめいた。

「嘘をつきました。でも嘘をつくように言われたのです。ぎりぎりまでごまかすように、直前まで気づかれず不意の一撃となるように。夢の守り人、見えない一刀、アキトを迷いから起こし現実へと足蹴にすることが私の仕事です」
「まだ嘘ついていないか?」

何回もだまされているので、俺は注意深くなっていた。

「ええ、まだついていますよ」

しゃあしゃあと認めやがった。

「でも面白がっているのではありません。必要があるからだましているのですよ」
「そうか。じゃあ聞かない」
「素直でよろしい、では行きましょうか、現実へ」

まだ持っていた角灯をかかげ、俺の手首をつかむ。床を蹴ると体重がないかのように宙へ浮いた。もちろん俺も一緒に飛ぶ。

「グラディアーナ、空、空飛んでいる!」
「夢の中でなにを今更。一気に帰りますよ。ちょっと衝撃がありますけど、アキトなら平気でしょう」
「あいまいな根拠だなおい!」

夜のつきあたりから太陽向かって飛ぶかのように視界が白くなる。まぶしい。あまりの光に俺は目をかばった。


「あー。これは」

グラディアーナは部屋を見回し言うことにつまった、今のグラディアーナはどこかあいまいでぼやけている。足元にあるはずの影がなかった。つまりまだ身体は置き去りにしているのだろう。精神体でも動いてしゃべっている。

「キャロルについて行った方がよかったですかね」
「いいのよ。なんとかなったから。グラディアーナ、どこから湧いたの」

平然としているキャロルは左肩と右太ももに、止血しているもののまだ流血生々しい傷跡があった。力尽きたようにへたりこんでいて、しっかりつかんでいる剣は刃こぼれがあちこちにある。革鎧は切られ、どう見ても戦った後、しかも激戦をくぐりぬけた後だった。

意識が戻った俺はなぜか防寒具2枚を結びつけてできた簡易寝袋の中にいた。服の腕にあたる場所は綱のようにしっかり結びつけられてキャロルの片手へしっかり握られている。なんでだ。

俺たちのいる部屋は広くない。四畳半ぐらいしかないところだった。どの壁にもなにかの入力装置、どこかの廊下や部屋を表示している画面、無機質な数字で埋めつくされている、管理室か司令室だろう、重要な部屋みたいだ。

他と同じようにここも自動扉だった。重そうな机で無理に閉じている。指2本ほど開いた隙間からは筒状のものが差しこまれていた。

銃口だと気づくのに少し時間が必要だった。

「キャロル! 外、外! 狙われている!」
「そうよ」

キャロルはまともに相手しなかった。

「その筒からすさまじい矢が飛び出るの。見てよ、かすっただけでこうよ」

肩を押さえる。それ銃傷だったのか。

「大丈夫。さっきからずっとこうだけど動かないから」
「なんだそれ。狙っているのは何者だ」

撃たないということを信じて、銃口の奥にある敵の姿を見る。

生き物ではなかった。30センチぐらいの円筒に車輪と腕をつけて、半円を乗せて頭と称しているような機械だった。現実を受け入れたくない俺に代わって、日本の現代文明を知っているグラディアーナが教えてくれる。

「ロボットですね、これ。カーリキリト風に言えばオートマタ。カーリキリトのものとはかなり違うようですが」
「知っているの、この固い人形。あたしが知っているオートマタは人間そっくりのはずだったけど」
「そうでない機械人形もいるということですよ」

カーリキリトにもロボットはいるのか。初めて知った。

「キャロル、なにがどうなっているんだ、教えてくれ」
「いいわよ。歩いていたらぼんやりして」
「そこはいいです、もうアキトも知っていますから。その先、帰ってからを」
「帰る? 元の雷神殿のことね。雷神殿の廊下にいて、そばにいたのは意識のないアキトだけだったわ。あたしはしっかりアキトの首根をつかんでいたの」
「さすが宿命の影」

グラディアーナは感心する。俺も感心した。

「イーザーがどこにいったのか探そうとしたらぞろぞろ筒や剣を持った人形がきてね。あたしはアキトを引きずって逃げ回り、ようやくここに飛びこんだの。ここならなぜか撃ってこないから」
「よく逃げきれたな!」

逃げて嬉しくない訳ではない。でも銃を持ったたくさんのロボットから逃げきったなんてすごいぞ。

「ほら、遠慮なく撃つと大切な装置を傷つけてしまいかねませんから。今撃ってこないのがいい証拠ですよ」

なるほど。ここはいかにも重要そうだ。そんなところで乱射はしないということか。

「でも行き止まりだぞ。ここでは撃たないって、逆に言えば外出れば撃ってくるんだろ。待ち構えている」
「分かっているわよ」

それもそうか。張本人だもんな。

他に出るところはないのか。俺は改めて部屋を見る。

一番目にとまるのはやっぱり無数のモニター画像だった。あちこちの風景が遠くからでも一目で見ることができる。獣人であるキャロルやグラディアーナと一緒にモニターを眺めるのはなんだかおかしな気分だった。

あれ、今なんか変なものを見た。

見間違いかと目をこらす。左端の画像だ。ひどく暗い部屋で、明かりはあちこちの機械信号らしい赤や緑しかない。床まで機械に覆われているがそれも手前半分まで、奥半分は切り取られたように真っ暗だった。代わりに宙になにかが浮いているらしい。複数個、大きさは明かりから察するにばらばらだ。

画像の手前、隅のほうになにかある。いや、いる。

「ザリ!」

思わず張りついた。暗すぎてよく分からないけど、眼鏡のふちが反射した。ここにいる人で眼鏡着用者はひとりだけだ。

よくよく目をこらすとおぼろげながらも色々見える。いじけるようにうずくまり、しゃがんでいるみたいだった。画像には他に人影はない。ひとりだ。

「さっきまでは動いていて、あっちこっち触っていたわ。元気みたい、少なくとも外傷はない」

俺が気づいたことなどことごとく先に分かっているとばかりのキャロルだった。

「これ、どういう仕掛けなの。本物?」
「普通は本物です。仕掛けについては私もよく知りません。ザリはなぜうずくまっているのです? 手がかりがないなら出て行けばいいのに」
「出られないみたいだわ。出口がないの」

どういうことだ。

「出口がないなら入れないだろ。なんでザリはそこにいるんだ」
「あ、違いますアキト。夢めぐりの後遺症ですよ」

グラディアーナは一足先に思いついたようだった。

「身体と精神は別物とはいえ、やはり強く結びついているものですからね。心がさんざん遊んだ後では、多少は肉体にも影響するかもしれません。移動という形で」
「そんなことあるのか?」
「あまりありませんが、ここは雷神殿で私たちが分断している方がラスティアには有利です。少しは手を加えられたかもしれません。人を召喚することに比べたら場所の軸を動かすことなんて簡単でしょうしね」
「閉じこめられたならどうすることもできないじゃないかっ」

急にあせった。大変だ。

「自分でどうにかできるならとっくにしているでしょうね」
「諦めたのかな」
「小休憩と見たわ。そう簡単にくじける性格じゃない。座ってどうするかを考えているのよ」
「なんとかしてこっちから呼びかけられないかな」

俺はすがった。ここが命令を下す部屋だったら、放送設備のひとつでもあっていい。

「どうすればいいのかな、どこを押せばいいんだ」
「押すってなにを? なんで呼びかけられると思うの?」

キャロルのきょとんとした表情に、俺はこれがキャロルの常識外のことであることを思い出した。それもそうだよな。キャロルに限らずカーリキリトの人にとってはロボットとはオートマタか人形で、機械はよく分からない鉄の塊なんだから。

「コンピューターならあっちで少し遊びましたよ。マックがウィンドウズならいけます」

グラディアーナは例外だな。俺より詳しいかも知れない。俺はパソコンを持っていなければ触ったこともろくになのに。

「分からないな。パソコンじゃないみたいだけど、分かりやすくどこかにマイクでもあればいいのに。放送部にでも入ればよかった。適当に押してみようか」
「なにが起こるか分からないのですよ。それは最後にしておいた方がいいでしょう」

グラディアーナは壁にかかっている前衛的な絵のパネルや、表面がビニールで加工されているようななめらかな光沢の板へと目を向けた。片端から手に取り見て、あるものは捨てあるものはそのまま抱える。俺はもう一度画面の中にいるザリへと向いた。

俺に気づいたようにザリが顔を上げた。慌てて立つ。

「ザリ?」

モニターの向こうでほとんど闇と同化していた壁に鋭い切り傷が走った。ザリと俺たちが見守る中、外側から数回叩くように壁が動く。やがて綺麗な四方形に切り取られた壁は外から蹴り外された。

壁を踏みつけながらミサスが入ってきた。煙かほこりかが立ち、咳きこんでいるかのようにかがむ。ついでに泣いてもいた。

「ミサスが泣いている!」
「ほこりが目に入れば涙も出るでしょうよ。生物的に」
「涙腺があったことに驚いたんだ」
「なるほど」
「ザリを助けにきたのか」
「さて」

向こうの音が聞こえないからなんとも分からない。ともかくザリは駆けより語りかけた。身振り手振りも含めてかなりの早口でまくしたてているみたいだ。ミサスを心配しているのか自分の状況を説明しているのかは分からないけど、きっと両方だろう。

ザリがひっしなりに指を指す宙を浮くものに、ミサスの興味は惹かれたようだった。話途中でそっちへ向かう。

正面に立つ。手を伸ばしなにかを語りかけたみたいだった。すると部屋全体が明るくなり、ようやく俺たちにも全貌が見えた。

「クラシュムの地下遺跡と同じだ」

そっくりだった。部屋半分の向こう側は床が抜けていて、宙にいくつもの球が浮いている。ミサスが腕を動かすと球は小さく震えだす。

「ミサス」
「また操ろうというのですね。見たことがろくにないものを手さぐりで理解し動かそうと」
「前うまくいったんだし、今回もいけるだろう」
「甘い。向こうは分家でこれは本家ですよ。しかも敵の手に落ちている」

地震が起きたように震えた。俺たちも建物の揺れを感じたし、ミサスの後で見守っているザリは危うく転びかけた。

大小さまざまな球体も動き始める。あるものは沈みあるものは左へ移動する。

ひたすら見守る俺の網膜に、そのときどこかの荒れ果てた廃ビルの一室が浮かんだ。

「え?」

見えている風景がにじんでぼやける。黒い機械に囲まれているかと思いきや、なにもなく泥とほこり積もる灰色の四方形に浮く感覚がある。

「アキト?」

ミサスは動じず一定の動作を繰りかえす。俺の足が震えた。よろめきとっさに駆けよったキャロルにもたれかかる。

「見て!」

画像の中、ザリは叫んで切り抜かれた壁へと走る。重そうに持ち上げ、荒っぽくミサスが作った入り口をふさいだ。

間一髪、壁に見たことのある腕が挟まれ激しく動く。

「機械兵。ザリのところにも」

ザリは歯を食いしばり、足を踏んばって通すまいとする。機械兵が外から入ろうと壁を押してくるのが分かった。

「いくらザリは力があるといっても、あれに立ちむかうなんて無理よ」

ザリがミサスへ顔を向け大声を出す。ミサスは動揺しなかった。無風地帯にいるように動きをやめない。

俺の額から脂汗がしたたった。首を振っても目を閉じても他の部屋の景色は消えない。「なんだこれ」うめいた。

「アキト、アキトどうしたのよ! グラディアーナ!」

キャロルの助けを求める声にもグラディアーナは動かない。持った板が自然に手からすべり落ち床に散らかる。観察するような冷静さで杖を片手に見ている。金の瞳が俺の姿を映した。

ミサスの呪文が聞こえた。初めは低く小さく、聞き間違いかと思うようなささやかさで。同じ節を何回も何回も繰り返し、つぶやくように歌うようにつむぐ。言葉の韻によって2つの部屋が交互に重なる。

「アキト!」俺を支えるキャロル、なにもかも断ち切り唱えるミサス。揺れ動く球体の向こうでザリが力負けしそうになる。足が下がり後退する。そしてグラディアーナの金の眼差し。

猫の瞳になにかが重なった。無人だった灰色の部屋に他の要素が見えてくる。曇ったガラス、事務所だったらしい並んだ椅子と机。空のポットが転がり、赤い消火器が隅で所在無く立つ。

窓の向こうで車のガソリン音とパトカーのサイレンが聞こえる。くすんだビルがいくつも建つ。見知らぬ日本のどこかの部屋に立つ男がいる。

ラスティア。

外が人工灯で明るい。それなのにラスティアの足元に影はない。ミサスの呪文に合わせるようにラスティアもまた唱える。揺るぎない自信と確信をこめた言葉に、俺はどこかへ落ちそうになった。こんなに意識ははっきりしているのに夢の中にいるような浮遊感がある。

分かった。理性ではなく直感で理解した。

ラスティアは切り離された2つの世界を意図的に近づけようとしていた。もちろんくっつけようともひとつにしようとも考えていない。ぎりぎり限界まで俺と日本を近づけようとしている。

なぜそんなことをするのか。

なぜなら俺は本来日本に住む人間で、2つの世界どちらが親和性があるかといえば日本だからだ。もし日本とカーリキリトの狭間に立てば俺は本能的に日本へひきよせられる。

ラスティアはそれをやろうとしていた。俺本来の性質を利用して、無理にでも日本へと返すつもりだ。

もちろんきちんと帰れるかは分からない。どこか別の世界に行ったり、最悪世界の狭間へ迷いこんでしまうかもしれない。

ラスティアにとってはどうなってもいいことだった、とにかく俺をカーリキリトから消してしまうために。今までのぼんやりもそのためだった。幻覚はただの副産物だった。みんな俺をカーリキリトから追放するためのものだった。

分かってもどうしようもない。なにをと歯を食いしばってもどうにもできない。まるで眠りにつくのを必死で抵抗しているかのように対抗の手ごたえがない。ミサスの声が耳一杯に響き、俺は倒れそうに揺れる。キャロルの手の感触が消えそうになり、耳元の叫びもろくに聞こえない。

扉が動いた。日本の部屋での、灰色のドアが動いた。

風で動いたのじゃないかと思うようなささやかな動きだった。でも人の手で開いたものだった。証拠として動かした本人が入ってきた。

正しく言えば入っていない。ドアにもたれ倒れたというだろう。

髪から汗が滴り目は虚ろだった。のどから乾いた風のような、疲れ果てもう一歩も動けないであろう息切れがもれる。制服はちぎれすりきれもう2度と着られないありさまで、靴は片方どこかでなくしたようだった。

ぼろぼろでひどい、今すぐ横たわって休んだ方がいい。乱入者というには弱々しすぎる人は、俺がよく知っている人物だった。

「桜木!」

なんで桜木がここにいるんだ。逃げろって言ったのに、無関係なのに。頭の中が白く染まる。理論的に考えられない。

なんで、なんでだ。

「危ない、逃げろ!」
「ほお」

俺が気づいたようにラスティアもまた気づいた。言葉を切る。馬鹿にしたような、優しいといってもよいほど哀れみ見下した目を向ける。

「ようこそ、勇ましい女子高校生よ!」

桜木の目が焦点を結び、やっとラスティアに気づいたように首だけ動かす。

――この死体を目の前に投げ出せば、宿命の者も多少は動揺するだろう――

ラスティアの考えが、まるで読めるように分かった。

駄目だ。血が煮えたち力が入る。

駄目だ。そんなことさせるか。ラスティアの思い通りにさせるか!

スタッフを強く握りしめる。自分から落ちようと足を踏み出す。

今にも日本へ飛び、ラスティアと戦おうとした俺の肩にだれかが手をかけた。

「駄目です」

低くささやく。「お待ちなさい」

「……返せ」

かすれてしわがれた、おおよそ桜木らしくない、それどころか女の子とは思えないつぶやきがもれた。

桜木の口元が引き締まる。意思が全身にあふれ、燃えさかるような憤怒が瞳に映った。

ラスティアがなにか言うより先に桜木は目だけ動かす。倒れて転びかけながら走る。ほんの数呼吸で桜木は目指したものにつかみかかった。

消火器。

「大谷くんと、先輩を返せ!」

消火器のホースを向け最後の力でペダルを握る。一瞬で桃色の消化液がラスティアめがけて襲いかかる。

「なっ!」

ラスティアは反応が遅れた。腕で顔をかばうも、荒れ狂う液に押される。桜木は力尽きて倒れ手を離すが、一回引き金を引いた消火器は空になるまでとまらない。

ミサスの声が耳一杯に、厳かに重大に響いた。

もうひとつの景色が重なる。三重の向こうで浮いていた球体はゆっくり光を放った。

落ちる。ひとつまたひとつ底見えない奈落へと落下する。ザリは壁から手を離した。走って荷物へ飛びつき、あふれるように入ってくる機械兵へアーバレストを、持ち運べる兵器を向ける。

「さよなら」

声は聞こえないけど唇がそう動いた。元々組みこまれていた矢は機械兵を人形のように貫き叩き壊した。

グラディアーナが動いた。踊ってでもいるような動作で仕込み杖片手に飛ぶ。時間の流れが遅くなり、一動作でラスティアの前まで着地する。なめらかな動作で剣がひらめき、影なきラスティアを切りさいた。

「やった!」

グラディアーナが高らかに宣言する。

ミサスの魔法が完成した。言葉がとどめを刺す。乱れに乱れていた3つの場所がなだめられ落ち着き静かになる。切られたラスティアは切り口から風になってひとかけらも残さず消えていく。空になった消火器の横で桜木がぼんやりと見つめていた。

「ざまぁみなさい、ラスティア!」

グラディアーナがのけぞり笑い出す。狂喜が波となって俺にまで伝わった。

「あなどるからですよ! 弱いものを、人間ではないものを、異界のものを。自分以外全てを見下すから足をすくわれるのですよ!」

獣じみた笑顔で勝ち誇る。俺はグラディアーナに共感するよりもっとやることがあった。

「桜木」

駆けよって、手を差し伸べて、なんでここにいるのか聞いて、いやその前に助けないと。

「大谷くん?」

それなのに後ろへ引きずりこまれるような感覚に捕まった。

重なりが訂正される。離れていた場所が元に戻る。ここにいたラスティアが消えてミサスの魔法が動いたからだ。

それはいい、それはいいことだ。でも、今だけは。

「待て、桜木」

桜木へ行かないと。

距離が離れる。俺は帰ってしまう。

「大谷くんっ」

桜木が壁を支えに立ち上がる、まっすぐに俺と向き合う。

「そこにいるの?」

両手を伸ばして走る。俺もまた手を差し出す。

桜木が前かがみに転び、力の限り突きだした俺の手と触れた。

瞬間視界が巻き戻る。爆発するようにあふれる。日坂高校、バイザリム城、高校前の海岸、エントが住む森、アザーオロム山、そしてめまいと共に響くグラディアーナの笑い声。桜木の姿はない。

「グラディアーナ!」

山中の小屋と俺の部屋とを同時に見ながら叫んだ。

「どういうことだ!」
「切り札ですよ、アキト」

朗らかにグラディアーナは教えてくれた。

「まだ分からないのですか。彼女は切り札です。最後のとっておき、大切に隠された懐刀。サクラギマドカ、欠けていた最後の宿命のかけら」
「桜木も宿命のひとりなのか?」

そんなこと考えたこともなかった。だって桜木は日本人でちっとも強くなくて、しかも女の子なのに。

「アキトと大して条件違いませんね。性別なんて宿命の前にはささやかなことですし」
「でも、だって、全然分からなかった!」
「当たり前です。切り札なのですから。アキトで、私で、イーザーで、キャロルで、ザリでヒビキで念入りに念入りに隠された存在。あなたと同じくらい大切な要素」
「嘘だろ?」

信じられない。だって、そんな。たまたま俺の近くにいる女の子が。

「たまたまではありませんよ。必然でした。アキト、ヒビキ、サクラギ。3人が揃った。顔見知りで友人同士、だからこそあなたたちが選ばれた。中央に置かれる要素となりえたのです」
「俺が宿命の者なのは、響さんと桜木が一緒だったから」

宿の食堂と校庭を眼下にグラディアーナが言ったことを繰りかえす。

「アキトやヒビキが大変だったように、サクラギも楽ではありませんでしたよ。ラスティアからは完全に守られていましたが、その分彼女はひとりだった。守ってくれる人もいず、ろくに事情も分からず、アキトが一年かけて歩いてきた道をサクラギは一晩で駆け上がらないといけなかった。与えられたのはかすかな情報の切れ端のみ。それっぽっちでサクラギは徒手でラスティアと戦わないといけなかった」
「桜木は、なにも知らなかった」

俺もなにも話していない。言ったのはラスティアに気をつけろ、それだけ。

それだけを頼りに桜木は走ったのか。俺と響さんが消えて駅前に化け物があふれた。たったそれだけで、グラディアーナはうなずく。

「事実それだけで真実に向かい合うのは無理です。出した結論は間違いだらけで目も当てられないでしょうね。でも大筋は正しかった。行動も花丸ものでした。ラスティアと戦う、隙を作る。それだけでラスティアの魔術への致命的な妨害となり、魔法は壊れアキトはカーリキリトにいる。彼女は仕事を果しましたよ」
「桜木が」

まだ信じられない。

「グラディアーナに助けてもらう前、夢の中で桜木に会った。俺が先に行って悔しいって言っていた。桜木がそんなこと、考えていたなんてちっとも知らなかった」
「そうでしょうよ」
「ひょっとして俺は桜木に好きになられているのかなって思っていた」
「なにうぬぼれているのです」

鼻で笑われた。その反応傷つくぞ。

「桜木はあなたに注目していました。それはなにもあなたが好きでめろめろだからではありません。本来持つ観察力、嫉妬心と抑えつけられている挑戦心からずっとアキトを見ていたのです。恋心ではありませんよ。

どちらかといえば敵愾心です」

その証拠に、アキトは気づかなかったではありませんか。手でつまむように指摘する。

「普通恋心で見つめられたら気づきます。それなのにアキトはいつまでたっても分からなかった。アキトには理解しがたい複雑な心理状況だったからです」
「そうか」

俺はグラディアーナをにらむ。

「グラディアーナは知っていたんだな」
「ええ。隠していたのは悪かったですけどね、命じられていたのですよ。私はぎりぎりまで手を出さない。アキトが近づく日本で夢に迷っても、サクラギの姿を見てもなにもしませんでした。待っていたのです。ラスティアに一刀あびせるその瞬間を。じれったくてひげがかゆかったですが、手をこまねいたかいがありましたよ」
「まだ秘密にしていることはあるか?」

険悪な顔つきになってしまう。グラディアーナが悪い訳ではないが。

「もうありません」

平然としていた。

「材料は全部出揃いました。もう空っぽ、おわりです。後はアキトががんばる番ですよ。サクラギはすべきことをしました。やるべきことをやってアキトへつないだのです」
「ああ」

指先を見る。さっき桜木に触れた、一瞬だけ俺は日本にいた。

急に振動がとまり、俺は後ろへと倒れる。吐き気とめまいで起き上がれない。床でもだえる。

「アキト」

不安そうなキャロルの声。俺は元いた司令室にいるのを確認した。キャロルに手を振って応えた。