三つ首白鳥亭

−カーリキリト−

夢めぐり

当たり前ではあるけれども、自動ドアの前に立っても開かなかった。自然に視線が俺へと集中する。

「これ、どうやって開けるんだ」
「えっと、前に立つか手をかざすかすれば開くはずだけど」
「開かないよ」

じゃあ分からない。自動ドアの開け方は知っていても原理はなにも知らない。こういう時どうすればいいんだ。こじ開けるしかないのか。キャロルがじっくり観察する。

「鍵穴もないし、そもそも侵入を隠す必要もないわね。こじ開けましょう」

やや大きめの刃物と木槌を荷物袋から取り出す。そんなの持っていたのか。

「あまり手荒なことはしないでね。神聖な場所なのよ」
「へえへえ。分かりましたよザリ」

どこか嬉しそうに扉に向かおうとするが、2歩ミサスの方が早かった。手ぶらで扉の前へと立ち手をかかげる。数語なにかをつぶやくと黒い刃が手の先へ出現し、はじけた。とっさに下がり腕で顔をかばう。恐る恐る目を開けると、鋭利かつとてつもなく巨大な刃で切断されたような、ずたずたになった自動ドアがあった。無残に散らばるプラスチック板の先には、もちろん神殿の奥へ続く道が口を開けている。

「ミサス、人の活躍する場所盗らないでよ」
「罰当たり!」

非難されても一向に気にした様子はなかった。

「……手早く終わらせて、とっとと出ようか」

諦めたようにキャロルは角灯を取り出した。


中は真っ暗ではなかった。足元に緑の非常灯らしい明かりが規則的に続いている。壁にも時々電子的な明かりが思い出したように張りついている。

「ミサスの槍はもうないのよね。バイザリムを出てからも買っていないの?」
「暇がなかったのよ、忙しすぎて」

ミサスが愛用していた軽い槍は、なかなかその辺に売っているものではない。

「しょうがない、アキト、あたしが先頭歩くから横にきて。それでスタッフで床をつつきながら歩いて」
「いいけど、なんでそんなことするんだ」
「落とし穴を初めとする罠対策。引っかかりたくないでしょう」

引っかかりたくはない。でもそんな罠しかけてあるのか? 納得はしなかったが言われた通りにする。

空調が効いているのだろうか、冬のアザーオロム山中だとは思えないほど暖かかった。動きにくい防寒具を脱いでから歩き始める。明るくないとはいえ光はあるから角灯はいらなかったが、それでも明かりまで片付けてしまうのはいざという時危ないのでつけたままにする。横に自分たちの影が揺らいでいるのはなんだか安心した。

意外と足音が広い廊下に響いた。どこかにエアコンか、なんらかの空気を巡回させる機械があるはずなのになにも聞こえない。

不安になってそっとキャロルの顔をうかがう。角灯に照らされた横顔は極めて真剣な表情で、気を散らしている自分が恥ずかしくなった。

終わりが見えない廊下に、足音だけが響いて消える。時間の感覚が狂う。起きているのにひとり悪夢の中に迷いこんだ気がした。

変なことを考えている暇はない。正常にならないと。角灯の明かりを確かめ気をしっかり持つ。

「えっ」

思わず足をとめる。獣脂の臭いがする角灯の明かりは冷ややかな緑にと変化していた。

「なんだこれは、キャロル!」

キャロルは顔色ひとつ変えず歩き続けている。

いつの間にか足音はキャロルだけになっていた。俺とキャロル以外はいない、薄暗い緑の通路が前と後に広がるだけ。

キャロルが警戒した通り、なにかの罠にはまったのか? 落とし穴みたいな簡単な罠じゃなくて引っかかっておきながらまるで分からない謎のしかけとかがあったのだろうか。

「あのね、アキト」

それなのにキャロルは平然と口を開く。俺と同じくらい騒いでもいいはずなのに、なんでもないようだった。異常さに俺は身を引く。

「あたしがここにいる理由、覚えている?」
「なに言っているんだよキャロル。今そんな話をしている場合じゃないだろう。みんながいなくなったんだぞ。驚けよ。心配だ、今すぐ探しに行かないと」
「あたしはタリスという名前で地下道の一族として生きてきた。あたしは将来族長を助け族長と地下道の一族に忠誠を誓いそのためだけに生きていく。あたしの唯一の目的だった」

一歩ごとに背中が遠くなる。緑の炎が大きく揺れた。

「もうなくなった。あたしは一族を裏切り、もう一族に戻れない。生きる目的はなくなった」

手から角灯がすべり落ちて割れる。炎が膨れ上がり獣脂以外の理由で周りへ広がり燃えようとする。緑が大きく広がる中、振り向きざまキャロルは剣を抜き俺へ切りかかった。

「キャロル!」

スタッフで受けとめる。身軽にキャロルは一歩引き、次から次へと斬撃をくりだす。右上から、右横、次は左下、左、正面からの突き。

「キャロル、どうしたんだ! 俺だぞ、やめろ!」
「理由がない、意味がない、目的がない、必要がない。あたしはだれかのためだけに生きてきた。それ以外の生き方を知らない!」

歯を食いしばり、刃の方向を見極めようとする。キャロルの場合剣術そのものは普通だ。特に力が強い訳じゃないし、キャロルも剣の腕を磨こうという気はそんなにない。

むしろ怖いのはそれ以外。隠し武器石投げ、鋭い足爪。多様な戦い方を知っていて効果的に組み合わせる。いかにも密偵らしい戦い方だ。

「キャロル、なにをしているんだ! お前も罠にはまったのか!?」
「だからアキトを利用した」

がっ。刃とスタッフががっちり組み合った。俺は力負けしそうになってうめく。

「たまたまそこにいて、珍しい異界人だから利用した。あたしは生きる意味をアキトに求め、アキトを助け守ることだけに全てを注いだ。地下道の事情に疎くてアキトはまるで気にしなかったしね」
「っ!」

思わず力を緩め、負けそうになる。とっさにスタッフを流し左へ転がり、さらに斬りつけようと踏み出した足を苦しまぎれに蹴り飛ばした。

「どんどんアキトの周りが大事になっていったのは、あたしにはむしろ嬉しいことだった。ラスティアの陰謀、悪くない。雷竜神の導き、上等。宿命の影と言われて、その仕事を与えられてあたしは幸福だった」

2歩、4歩、7歩。大きく走りその場から逃げ、スタッフを構え振り返る。キャロルは追わない。剣を俺に向けている。背中に渦巻く緑の炎は煽られ、今にもキャロルを飲みこもうとしている。俺はキャロルにあるはずの影がないのにやっと気づいた。

「なんでだ。いつからだ」
「いつまでもこうしていられないことは分かっている」

影がないのは生身じゃないということか。なら俺の前にいるキャロルの姿をした子はだれだ。

「元々、アキトは人に仕えられ偉そうにするなんて柄ではない。気づいていないだけ、分かっていないだけ、だから平気なのよ。まともな人間なら耐えられないわ、だれかの人生理由を引き受けるだなんて」

そもそもここはどこだ。本当にアザーオロム山にある雷竜の神殿なのか?

一緒にいた人が消えるだなんておかしい。緑の炎に影をなくしたキャロル。いつの間にかおかしなところに迷いこんだのか。ここは夢の世界か、それとも幻の中なのか。

キャロルは俺に剣をつきつける。腕をまっすぐに伸ばし、鼻先へ突きつけるように真正面へと。

「大丈夫、イーザーだって教えてくれた。あたしはもう分かっている、受け入れているのよ。自分で目的を組み立てることもひとりで立つことも理解している。ただもう少し、後少しだけだれかの肩が必要なの」

俺は後ずさる。キャロルは追わない。俺の背後には無限に続く緑の人工灯がある。

「ちゃんと立てるから、必ず別れてみせるから。だからもう少しだけ頼らせて。ラスティアと戦っている間だけ」

キャロルとの距離は十分にある。俺ははじかれたように後へと走った。

「ねぇアキト、なんだかんだであたしそれなりには感謝しているし、アキトのこと結構好きなのよ。知っていた?」

緑の炎がひときわ明るく、燃え上がって消えた。


走る走る、走って逃げる。

いつの間にか壁はなく、重くのしかかるような闇が両脇から俺を押しつぶそうとしている。足元の蛍光灯だけがとまりそうになる足を支えていた。

今のはなんだったんだ。なにが起きたんだ。後ろにはもうだれもいなかった。スタッフを支えにして息をつく。

逃げたのはいいけど、これからどうすればいいんだ。ひとりぼっちで敵陣の真っ只中。

「ここはどこだ。なんで迷いこんだんだ?」

闇の中にひとり取り残されて途方にくれた。

「みんな、どこに行ったんだ」
「お前のせいだ」

ひどく低くてくぐもった、聞き取りにくい声だった。かろうじて言っていることが分からなくもないくらいのぎりぎりさ。

「はぐれたものたちはおまえが引きこみ連れてきた。世界の果て、呪われたこの山へ」
「だれだっ」

聞こえる方にはだれもいない。それなのに言葉は続く。

「次はだれを殺す気だ?」

落ち着いた声はとびきり残虐なことを突きつけた。

「ウィロウを殺し、響を殺した。お前の知らないところで、お前のせいで死んだ人間の数は計り知れない。それなのにまだ犠牲を求めるのか」
「違う」

後悔と恐れが喉元までこみ上げてくる。スタッフをつかみ直して走る。

「違う、違う」
「ならどうして逃げる。違わないからだろう。おまえが戦いへ引きずりこんだ。お前さえいなければだれも死なずにすんだ」
「違う」

そうかもしれない。そうなのだろう。

「お前のせいだ、お前が殺したんだ」
「違う! そうじゃない、そうじゃないんだ!」

ごめん。みんな、ごめん。

「!」

白い輝きが廊下の突き当たり、角の向こうからもれている。部屋か。だれかいるのか。ここから逃げられるのならなんでもいい。

曲がり道だというのにほとんど速度を落とさず、結果として転がりこむように飛びこんだ。光が視界一杯に広がり盲目になる。

うずくまりきつく目を閉じた俺の耳に遠くからの話し声が聞こえてきた。だれの声かは分からないが複数人で会話している。場違いなほど明るく朗らかだった。

まだ目を手に当てながら、それでも少しずつ周りを見る。

今までとはうって変わって明るく色鮮やかなところみたいだ。俺の周りには大勢の動くものがあって。いや、これは。

「人?」

まだ視界がぼやけているけどもう見える。人、それも人ごみほど言えるくらいたくさんの人だ。

「なんで」

立ち上がった瞬間に状況が分かった。

街の中だった。青空の下石造りの建物が並び屋台が肩を寄せ集めていて、俺は大通りに立っている。先には噴水が涼しげに水音を聞かせていた。

周りは人でごった返していた。まさしくすし詰め、歩くのはもちろん立っているのもやっと。人々はみんな話したり歩いたり思い思いに動いている。この人ごみの中よくできるな。普通こんなに混んでいるなら少しでもどこかすいているところに逃げようとするのに、だれも去ろうとしない。

そもそもどうしてここに。俺は雷神殿にいたはずなのに。後ろを見ても街だった。無機質な通路はない。街並みからするにフォロー千年王国のようだけど、断言はできない。

ひたすら分からず戸惑う俺に、無数のおしゃべりの中から切り取られたように耳へ届いた声があった。

「私じゃ駄目だったのかな」
「アル!?」

イーザーの友だち、風使いのアル。人々の中背の低い女の子が埋もれるように会話をしている。頭の上にはピクシーのシェシェイが飛び、横には元フォロー千年王国の王位後継者アットがいた。

「なんでこんなところに。じゃあここはエアーム帝都なのか!?」

かけよろうとしてもあまりにも人が多くて進めない。俺の声が聞こえていてもおかしくないのに気づかない。

「私も宿命のひとりとして、アキトと一緒に行けなかったのかな」
「駄目だよ、アル。アルは精霊使いだもん。雷の力の側で安定してなんていられない。なまじ力があるから間違いをしでかしたら致命だよ。それに誠実さが足りない」
「ちぇ」

シェシェイの結構ひどい言いように、アルは頬を膨らませた。

「いいじゃないかアルちゃん。ついて行けなかったけど、一緒に戦っているのには変わりないんだ」
「そうそう、ぼくたちも一緒だしね」

アットになだめられながら3人は行く。俺は呼び止めようとして肩から人にぶつかった。転ぶかと思った。

「昔フォロー千年王国でおかしな一行に会った」

落ち着いた、飄々とした声がする。顔を上げるとくるみ色の髪をした女性がいた。杖を持っている。

「人間に地下道の一族、エントに黒翼族。橋が落ちていたから飛行で運ぼうとしたけれども断られた。仕方がない、エントは重すぎて運べないもの」

杖を肩に持たせかける。

「彼らはどうしたのかな。無事でいるといいけど」

思い出した。ウィロウがいてまだ響さんと会っていなかった時。レイドへ行く道で橋が落ちていて、一緒に足止めされていた女の人だ。旅の魔道士、名前はなんていっていたっけ。

その腰辺りで短い刃物をむき出しに持ち二足歩行をするトカゲ、荒野人が歩いていった。

急に思いつき、俺は道にいる人々の顔を見た。

カーリキリトらしい雑多な種族の集まりだった。人間獣人妖精、街にいる種族森に住む種族海を自分の領域にする種族。年も性別もみんなばらばらだったが唯一共通しているところがあった。

みんな俺が会ったことがある人、すれ違ったことのある人だった。

前をハーフリングと異界の商人が歩く。噴水にマーメイドのメイルーンが水晶玉を楽しげにのぞいている。フェアリーのフィルが「なんだか僕だけ貧乏くじを引いていないか」不満そうに首をかしげていた。

ドワーフの鍛冶屋、マドリームのリタ、レイドで会った沼もぐりの一族の船長。話した、見かけた、助けた、助けられた多くの人々。そんな彼らがしゃべって歩き、立ち止まって持っている小道具をいじっている。

なんでだ。疑問で頭が一杯になりながらも近くにいる竜使いのフィーナに声をかける。

「フィーナ」

まるで聞こえないかのように竜の乗り方について熱く語っている。俺が見えないのか。そういえばここにいる全員、まるでお互いがお互いを見えず聞こえないみたいだった。

「そんな。だれか、だれか俺の声を聞く人はいないのか? こんなに顔見知りがいるのに」

うろたえる。あまりにも訳の分からないことが多すぎる。

「だれか聞いてくれ! 答えてくれ、なにが起きているんだ!?」

ついいら立って大声を出す。すると全員さっと噴水へと向いた。

空中地上、仲のいい人かろうじて顔を覚えている人、全員口を閉じ噴水を見る。一斉に表情が消え、まるで急に蝋人形か機械になったかのようだった。

俺は怖気づいた。逃げ出したくなるのを我慢しつつ、彼らと同じものを見る。

イーザー・ハルクがいた。

ひどく静かな街の中央広場、噴水の兵に浅く腰かけている。外衣は黒く剣を腰に帯び、なにか考えているように顔をあさってへ向けている。初めて会った時恐ろしいと思った風貌は、今ではすっかりなじんでいるだけで安心した。

「イーザー、なんだ、そこにいたのか」
「どうして俺はここにいる」

その言葉はひとりごとだった。イーザーは俺を見ず答えていない。ここの人たちと同じように自分に向かって言っている。

「俺は宿命をはたすために呼ばれた異界の住民ではない。将来を約束された獣人ではない。なんでも壊す大魔法も、樹木を操り風を踊らせる精霊使いでもない。俺は片田舎から一流の剣士をめざすひとりだ。この面子の中では一番普通だな」

首をかしげながら立つ。噴水から俺の立っているところまで人々が道を空ける。

「じゃあ、なんでここにいる」

言い方も仕草もいつものイーザーそのものだった。一見近寄りがたいが、人がよくすぐ熱くなるイーザーだった。

「そもそもの始まりは。そうだ、アキトだ。アキトと会ったことだ」

あまりに静かに朗らかに独白は続く。子どもっぽく思い出して嬉しいように手を叩く。

「初めて会った時なにかと思った。俺と同じくらいの普通の人なのに、剣だ妖精だと大騒ぎ。魔法さえも知らず、なにも分かっていなかった。

あそこまで情けないものを見たのは初めてだ。なにも知らないし頼りないことこの上ない。でもいい奴ではあった。素直で良心的な人物だった。

見捨てられない。危なっかしくって見ていられない。ついついついて行った。色々教えて戦い方を叩きこんだ。同い年だってのに俺が兄のようだったぞ」

言い返せない。

「だんだん大事になった。アキトの奴、一時は俺からも逃げようとしたぞ。あんなに怒ったことはなかったな。でも俺からは見捨てられなかった。見捨てられるかよ」

一歩、一歩。右、左、右と歩く。

「たまには助けられたな。たまには、だけど。

俺がなんか問題起こしたり間違ったことをしても、ま、そこまで責めずに気づかった。ついかっとなってひどいことを言ったこともある、でも怒らなかった。殺すかもしれないと言っても逃げなかった。いつでもくじけず、さんざんひどい目にあってもアキトはがんばった。俺がくじけた時逆になぐさめたぐらいだ。最近では稽古でたまに俺に勝つ。生意気な奴め。

宿命はいつの間にか俺を取り囲んでいた。ブロッサムにアルにアット、俺の友だち。アキトにとってのヒビキのように首を突っこんでいった。あげくに雷竜神はアキトではなく俺がラスティアを殺すときた。なんだよそれ、俺は普通の剣士だ。それなのにどうしてこうなったんだ。なぜ俺が」

顔を上げる。前を向いているが俺を見ていない。

「なんで俺はここにいる。

馬鹿か俺は。そんなの、決まっているだろ」

吐き捨てた。

「アキトは友だちだからだ。

アキトと友だちで、キャロルとも言い争いしながらも友だちだからだよ!

だから一緒に行く。離れない、見捨てない。面倒を見て関わった、助けられて支えられた。

友だちだから、好きだから、行きたいから俺は行く。

雷竜神の考えもラスティアの考えも関係がない。宿命を担っているのがアキトでも俺でも構わない。アキトと一緒に、みんなと一緒に行くぞ。行って最後を見届ける」

イーザー。イーザー・ハルク。

俺がカーリキリトで最初に会った人間で、一番長く付き合ってきた人間。同じくらいの年で、それなのに一人旅の剣士で、熱血漢ですぐ問題を起こして、なにも考えていないかと思いきやびっくりするぐらい思慮深いこともする。

いい奴だ。イーザーほど義理堅く親切で友人思いの人間を他に知らない。イーザーは本当にいい奴だ。俺はイーザーと友だちでいることが誇らしい。

「共に行こう。最後まで」

暗くなった。日が数秒のうちに沈み街の明かりはなくなって、数呼吸する間にイーザーも街も知り合いたちも見えなくなる。にぎわいは過去へ消え、俺は訳が分からないうちにひとりきり、爪さえ見えないところで立ちつくした。

「うわっ」

驚いて、手探りで今イーザーが立っていたところまで歩く。どんなに進んでもイーザーはおろか人も噴水にも屋台にも触れない。

「イーザー? だれかいないのか?」

答えるかのように水の音がした。水滴が続けて落ちていく音。

後ろだ。見ると少し高いところで規則的に青い光が同心円を描いてひろがり消える。ゆっくりした輝きはまるで薄く水を張った硝子製の高台を下からのぞきこんでいるみたいだった。

「暗い鼓動は夜をかけ」
「いにしえの声響きわたる」

朗々とした、けして音量はないのにはっきり聞こえる声がする。聞き覚えがあった。

「ミサス!?」
「夢見の花が水面をおおい」
「空には光も希望も失せ」

ミサスだった。大またで一歩一歩飛ぶように走っている。なぜか上下逆で、それなのに自分の方が正しいように髪も仕草も正常だった。地を蹴るたびにつま先から青い光が一瞬輝きはかなく広がって消える。

「魂凍える影の世界で」
「我はひとりで我と向き合う」

よく見るとミサスはさかさまである以外にいつもと違うところがあった。

まず髪が短い。いつもより少し声が高いし表情も違った。いつもよほど親しくないと顔色さえ分からない透明な顔をしているのに、この時ばかりは透けて見えるように感情が分かりやすい。緊張していて、なにげなく飛んだ仕草ひとつひとつや歌うような唱えるような一節一節もひどく丁寧になぞっているようだった。

「夜の言葉は力となり」
「因果をあざない世界を作る」

魔法の言葉だ、と思った。魔法を発動させるための単語。言い回しや節、歌うような響きがそっくりだ。普段は俺には理解できない言語を使っているはずなのに、今唱えているのは俺にも分かる。

『我は魔道士』

何十にも広がり、上下左右四方から届いた。

「言葉によって力を使い」
「夜の呼びかけに耳すます」
「世界を守り」
「法則を守り」
「因果律を守る」
「それこそ魔道士の使命」
「魔道の術を操るよりも」
「深き知識を蓄えるよりも」
「なによりの魔道士たることの証」
「そして俺は黒翼族でもある」

すぐ横でささやかれたように、低いミサスの言葉を捕らえた。

離れたところにミサスは立っていた。なにも感情を映さない目は俺を通り越してもうひとりのミサスへ向いている。

「黒翼族はひとりひとりは強力な魔道士だが種族としては弱い。数が少なく変化に弱い。たやすく滅んでしまう一族だ。そしてラスティアの思い描く世界に黒翼族の住む場所はない」

こっちのミサスはいつものミサスだった。黒ばかりの服で闇に溶けてしまいそうだった。額の青い石も色を失い漆黒に染まっている。

「俺には責任がある。世界に対する責任、魔道士としての責任、種族に対する責任。命は羽根のように軽く義務は岩のように重い」

走っている方のミサスは口を動かしてはいたがもう聞こえない。目の前までよぎり、そして行ってしまう。

「戦おう。クララレシュウムは翼の戦士と呼ぶ。その通り戦おう。

敵を滅ぼしなぎ払い焼きつくす。アキトたち宿命をひとり残らず生きてアザーオロムまで届ける。

全力をつくす。命をかけて戦う。どのようなことがあろうとも、傷つき疲れて倒れ身体が微塵になろうとも、魔力の全てをつくして戦う。世界が継続しないのならば生きている必要がない」

淡々と、なんの感情も含んでいなかった。きっとミサスにとって当たり前のことすぎるのだろう。

思い上がるなと聞こえた。自分の行動や生命の使い方が自分で左右できるなんて傲慢だと、ミサスは口に出さずに語っている。

そうかもしれないけど。俺たちに許されていることなんてほんの少しの選択肢だけで、なんにも思い通りにならないけど。自分を捨てるなとも、もっと大切にしてくれなんて言えないけど。

いつも動かず寝てばかりで、これまで手の内も自分のこともほとんど聞かせないミサスの内面に胸がつまったけど。

でも。

「だが」

だったらあの時、どうして助けたんだ!

「なぜあの時手を貸した。面倒な、不要なことだったのに」

フロイタの街から取ってきた精霊石を持って逃げていた時、追っ手をなんとか蹴散らした時。

俺はミサスに、俺たちに代わって日の精霊石を届けてほしいと頼んだ。どうしても早く、一刻一秒も早く精霊石を集落へ届ける必要があったからだ。

でもミサスには関係のないことだった。それどころかミサスは精霊石を持ってそのままどこかに行ってしまってもよかったぐらいだ。

それなのに助けた。利益もないしなんの得にもならなかったのに。義務でも責任でも説明できない。

「ああ、そうか」

ミサスは首を動かし、行ってしまうミサスを見送る。ようやく瞳になにかの感情がやどる。

「きっとアキトに昔の俺を見たからだ。まだ若くて愚かな、18歳の俺に。もう俺しか知らない、俺でさえ忘れかけていた俺に」

歩き出す。行ってしまう。

「ミサス待て、ミサスがそこまで背負わなくてもいいんだ!」

魔道士としての責任、黒翼族としての義務、そんな言葉でくくりきれないほどミサスは助けてくれた。時には無理やり叩き起こした。普段はなにもしないくせに、ぎりぎりにきつい時はいつでも助けた。

それなのに、俺はまだなにも返していないのに。またミサスは黙っていく。

そこまでするな、全部背負うな、ミサスが俺を助けたように、俺だってミサスを助けたい。

「ミサス!」

黒い服のミサスはあっけなく闇の中へ包まれていく。若い頃のミサスと同じようにいつの間にかいなくなってしまう。

「待て」

追いかけてどうするのか、そもそも俺の声が聞こえるのか。それさえも分からないまま追おうとして、なにかにぶつかり転ぶ。

「ぶ、なんだ?」

額と鼻をさすりながら触って確かめる。

壁みたいだ。でも入ってきた雷神殿のものじゃない。木でできている。

なんでこんなところに。元々あったものか今できたのか。訳の分からないところにいるのだから理屈にあわないことが起きても仕方がないのかもしれないけど。

手で感触を探っていると出っ張りにつきあたった。考えるよりも早くひねって引く。中から暖かい光がもれた。

のぞいてみる。カーリキリトの一般的な家庭の光景だった。暖炉には火がともり、室内に適温と柔らかい明かりを差し出している。食卓には花が活け皿が用意されていて、食事時のようだった。壁には工具や薬草の束がかけられていて、本棚にはぎっしり分厚い書物が詰めこまれている。机の上は散らかっていた。

山中の一軒家といったところか。家の隅々まで暖かさに満ちていて居心地がいい。今まで張りつめていた気がゆるみつい椅子を引いて座りこんだ。

台所も同じように道具や食器が使いやすいように並び、量は多いのにそうと感じさせない。かまどには火が入っていて大鍋がかかっていた。シチューのいい匂いがする。

鍋の前にザリは立ち、鼻歌交じりでかき回していた。地味な服の上に前かけをつけている。後姿ではあるけど、こんなに特徴的な姿を間違える訳がない。ここまで鮮やかな赤毛の人はカーリキリトでも珍しい。

「本当かどうか、確認するためにきた」

振り返らずにザリはつぶやく。

「フォロゼス城の魔物。あれを解き放つよう仕向けたのがラスティアかどうか。もしラスティアだとしたらどんな事情があったのか。見届けるためにわたしはきた」

ザリはイーザーやミサスのように戦うことができない。普通の人だ。そんなザリがそもそも俺たちと一緒にいることの方がおかしい。本当ならこんな風に平穏に暮らしている人のはずなのに。

「わたしはきて、ラスティアと会った。

ラスティアのやったことは許せない。身勝手な動機で多くの人を傷つけ死に追いやった。ラスティアに報いを。だれかが罰し、とめないといけない。わたしが行くわ。わたしの手でやったことを思い知らせる」

鍋に蓋をして、後へ手を回し前かけを外す。

「ええ。初めの理由はそうだったわ。ラスティアをとめる目的だった。でもね、だんだん別の目的もできたの。

あの子たち」

そっと眼鏡を直す。

「心配なのよ。あの子たち。異界人だか腕のいい密偵だかだけど。イーザーもキャロルもちゃんと自分で戦えるけど、でも心配なのよ。

まだ若くて幼いくらいなのに。祖国を離れて友だち同士で傷つけあって。あんなにいい子なのに、どうしてひどい目にあわないといけないの。

分かっている。やらなければいけないことなのよね。やりたいやりたくないではないんだわ。やらなくちゃいけないのよ。

だったらせめて守ってあげたい。一緒に行ってついていって。できる限り苦しみを和らげ休ませてあげたい。だからわたしもついていく。宿命なんて知らないわ。わたしが行きたいから行くのよ」

早くしないと。ザリはつぶやき壁にかけていた上着を羽織る。一緒にある帽子には黒い羽根が縫いつけられていた。

「急がなくちゃ、急がなくちゃ。早くしないと置いていかれるわ。あの子たちったら足が早くて目が放せない」

いつの間にか家の中が暗くなっていた。火が消えて皿は卓の上から消え去り、食器棚に行儀よく収まっている。みんな綺麗に片付いていて生活感がなくなった。

「保護者気取りをしたらきっと怒られるわ。わたしは弱くて頼りない。それでも助けたい、手を差し伸べたい。だから急がなくちゃ。走らないと、追いつかないと。暖炉の火を落として窓を閉めて、行く支度をしないと。だれだっていつかは旅立たなければいけない」

ザリ。

「そうだ。それに…… あの人! ミサスを助けなきゃ。

約束したの、ひとりきりで行かせない、行かせてあげない。駄目なのよ、うまく言えないけど、駄目なのよ。ひとりきりになっちゃ、ひとりだと思っちゃ駄目なのよ。

そのためならどこにでも行くわ、戦場でも死地でも、ミサスが行かなければいけないところについていく。ミサスが大切だということを思い知らせるのよ」

旅装束になって、家をすっかり綺麗にして、かばんをつかんでザリは飛び出す。

「急がなくちゃ、早くしなくちゃ。わたしは平凡な女でなにもできないからその分走るのよ。さ、行かないと置いていかれる」

ザリ。

そんなに急がなくても、ザリには黒海がいるから十分に速いのに。持っているアーバレストはまさに兵器で、そこいらの盾や壁では太刀打ちできないくらいの恐ろしい武器なのに。ザリは自分のできることを知らない、思っている以上にすごいことを知らないで。そんなに急ぐと追いつくところか追い越しちゃうぞ。

はらり。紙がめくれた。ザリが飛び出して開け放たれた扉から目を離す。

すぐ横で俺と同じ顔が新聞をめくっている。足を組んで、ゆのみの冷めた茶をすすりながら日本語を読んでいる。飴色のワニバサミでやや長めの髪を後でひとまとめにしていた。

なんでこんなところにいるんだ。俺と同じくらい場違いだぞ。

「姉さん?」
「秋、一体どこでなにやっているのよ」

今度は俺の声が聞こえたのかと思った。でもそうじゃないみたいだ。なぜか不機嫌そうににらむ姉さんの視線は俺を見ていない。

「そもそも秋、私が単に夏休みを使って里帰りしていると思っているでしょ」

え、違ったのか?

「短大一年生よ、私は。来年はもう卒業間近、遊べるのは一年の夏だけなの。それなのにどうしてずっと実家にいると思っているの」

そういえば変だ。家が恋しいのかと思ったけど、姉さんはそもそも家にいつく人間じゃない。なんでだろ。

「秋が心配だからよ」

また新聞をめくる。でももう内容を読んでいないのだろう。

「秋ってばいつもぼんやりしていて。特に好きなこともないし仲のいい友だちもいないし。現代人らしいといえばらしいけど、我が弟ながら無気力無関心の塊だわ。どうしたら中学生でああまでやる気なくなるのかしら。高校なじめるのかしらね」

俺からすれば姉さんが活動的すぎるだけだ。俺はここまで言われるほどひどくない。

「心配になって様子を見に行ったらなんか変。大きくなって。それはいいとしてあちこち怪我の跡はあるし行動も少しおかしいわ。私の知っている秋じゃないみたい。秋は変わっていた」

カーリキリトで長く過したからだ。人より長い時間を生きているし運動だってすごくしている。変わって当然だ。気づいていたのか姉さん。

「うちの両親ときたら仕事と自分たちのことしか興味がないからあてにならないし。しょうがない、私が出るわよ、姉だもの。なにをしているのか分からないけどしっかり見極めて危ないことだったらとめないと。夏休みつぶれたわ」
「姉さん、なにもそんなことしなくても夏休み楽しんだらどうだ?」

つい言ってしまった。別に親でもないんだしもう家を出ているんだし、やらなくてもいいだろ。

「秋! 覚えておきなさい、人のつながりってもろいのよ!」

新聞を卓に叩きつけ、姉さんは声を張り上げた。椅子が床に転がる。

「上京して大学行って実感したわ。友達とか家族ってのはね、すっごく簡単に赤の他人になるのよ。もう何年も実家に電話ひとつしていない先輩見ているとね、会いたいと思ったらいつでも会えるなんてそんなの嘘よ。そんなこと言っていると縁が切れるわ。絆は努力しないと維持できないのよ、だから帰ったの、やる気のない弟をなくしたくないから!」

今まで俺は、自分と同じ顔をした姉がそんなことを考えていたなんてちっとも知らなかった。知ろうともしなかった。だってそんなこと。

目を閉じ、口をきつく閉じる姉の向こう、切りとられた窓の向こうに緑の髪が風に揺れるのを見た。

「!」

大柄な背丈、簡素な白い服、森と同じ色の深い深い瞳。

ウィロウ!

俺は外へ続く扉へ走る。悪いが姉さんは後だ、ウィロウが外にいる。

「秋」

姉さんにはもう注意を向けていないにもかかわらず、その小声はなぜかきちんと聞き取れた。

「なにをしているのか知られたくないならそれでもいいわ。腹が立つけど仕方がないことだし諦めたから。

ただひとつ、ひとつだけでいい。

帰りなさい。私は待っているから。どこに行こうともちゃんと帰ってきて、お願いだから」

俺は見ていなかった。そんなことよりウィロウだ。


「ウィロウ、どこだ!」

闇、闇、闇。飛び出したのはいいけれどウィロウがどこにいるのか分からない。あてずっぽうで走る。

「ウィロウ!」

エントのウィロウ。人間離れした怪力に穏やかで優しい性根の持ち主だった。根っこの一族の森で切り裂かれ、本物の樹へと変化した。

また会えるなんて思ってもみなかった。あれきりのお別れだと思っていた。この場所がなんなのか分かりそうにないけれど、ウィロウとまた会えるのだったらどうでもいい。

「ウィロウ!」

つんのめりそうになって足をとめる。

いた。今まで気づかなかったのが不思議なくらい近くに。

ほんの10歩先ぐらいにウィロウはいた。深緑の澄んだ瞳がまっすぐ俺を見つめる。ひどく落ち着いている。ウィロウだ、あの時と同じ姿だ。

「ウィロウ」

声が震えた。うまく立てずに倒れそうだ。ウィロウは目を伏せ、衣擦れの音さえ立てずに腕を上げ指す。俺でもさっきの山小屋でもない方向。前へと指す。

なにを言いたいんだ。他のみんなみたいになにか言ってくれ。前へ行けって伝えているのか。後ででいいだろ。そんなことより。

ウィロウへと走った。行くなよ、消えるなよ。俺は伝えたいことがあるんだ。

「ほい」

後2歩のところで足を引っかけられた。つまずきウィロウの目前で転び、そのまま床がないかのように落ちる。

「え、ええ!」

そんな、ここまできて。目の前だったのに、後少しだったのに。というかそもそも足を引っかけたその声は。

はるかへ落ちながら顔を上げる。ウィロウと、そして猫顔のグラディアーナが一仕事終えたかのように笑いあって片手を打ち合わせた。

景気のいい打ち鳴らす音を最後に、なにも見えなく聞こえなくなった。