三つ首白鳥亭

−カーリキリト−

アザーオロム山脈

また夢を見た。

夢だと分かっているのにどうしても起きられない。考える俺と夢の中で行動する俺はまるで別物で、歩いている俺は今まで何回も繰り返したことだと気づかずに歩く。

アザーオロム山脈を歩いていた。滅多に人が通らないであろう道を、岩を避け枯れかけた草を横目にひたすら上へと登る。吐く息は白く、大気と直接触れる肌は凍りつきそうだった。ひび割れた岩肌にいつの間にか残雪があるのを見る。

歩きながら後にだれかの息づかいを感じた。ずっと走った後のように呼吸音は荒々しく大きい。

その人物は怒っていた。俺をにらみつけ肩をいからせ、息も絶え絶えになりながらも心の中から吹き上がる怒りを隠そうとはしなかった。

振り返りたかった。相手の顔を見て、駆けよって手を貸すなりひるむなりをするべきだった。でも俺はどっちもしなかった。後が気になって気になって仕方がないのに、気づいていないかのように前へ前へと進む。

「……」

後ろの人物がなにか言っている。俺に向かって呼びかけている。

振り返りたい、なにを言っているのか耳をすませたい。それなのに俺は前しか見ていない。

「……」

だれだ。もうずっと夢で会い続けているあなたはだれだ。なんでそんなに怒っている、どうしてくたくたになりながらも行こうとする。

「……っ」

聞こえない。もっと大きな声で呼びかけてくれ。

だれだ、なにが言いたいんだ。どうしてそこにいるんだ。

「……くん」

聞こえる。霧が晴れるように。死に物狂いで。その人を見つけたい俺の耳に声がようやく届く。

「……大谷くん」
「えっ」

歩く俺と考える俺が重なり合った。驚きのあまり足がとまる。振り返る。

「大谷くん!」

壮大な風景が一転する。大地が砕けて空が溶ける、形を見失い消え行く中、一瞬だけど確かに俺はその人を見る。

破けてほこりまみれの服、すすけて乱れた髪、疲れて立っているのもやっとの、予想通りのぼろぼろの姿。それでも口をしっかり結び、貫くように俺をにらんでいる。今まで一回たりともその子で見たことのない、熱情で内面を焼き外まで火がもれそうな怒った顔。

「桜木!」

起き上がり手を伸ばす。途端に姿は霧散した。

――隙間だらけの部屋にありったけの布をしき並べた寝床だった。枕元には荷物、少し離れたところではぐっすり寝ているイーザー、その向こうにはミサス。ミサスは起きたようで、薄く目を開け俺を見る。

「悪い、なんでもない」

謝りながら俺は心臓を抑える。激しい高鳴りに俺はめまいを覚えた。

あれは桜木だ! でも、なんで桜木が。


とても寝直すことはできず、俺はまだ薄暗く朝靄が濃い外へ当てなく出た。じっとしていると震えがとまらない。特に目的地もなく歩く。ようやく朝になったばかりで分厚い雲の切れ間から弱々しい太陽の欠片がもれた。

スタッフで固い地面を突きながら考える。

桜木まどか。俺と同じ日坂高校一年生の文化祭実行委員。一見とても控えめでおとなしいけど、実は結構行動的な女の子。

一緒に文化祭のうんざりするような事務をやった。それだけではなく演劇までやった。

最後に別れたのは名前も分からないビルの中でだった。カーリキリトの化け物が日本へと侵入してきて、俺と桜木とグラディアーナは逃げ惑い追いつめられた。桜木は驚き、俺を問いつめ、亡霊に触れて気を失った。それきり俺はカーリキリトへ行った。

頭が重い、ぼんやりする。固い大地を歩きながら俺は目を閉じる。日坂高校前で夕日をあびて橙がかった桜木。中庭の片隅で一緒に無駄口を叩きながら大道具を作った時の控えめな笑顔。夜ひどく驚き表情が抜け落ちたような虚ろな顔。それらの上に覆いかぶさる、夢で見た怒り顔。別人のように眉を吊り上げ頬を赤く染めた桜木。

なぜ。つつましい家々の通りを歩きながら考える。

なんで夢に桜木が出てきたのだろう。ただの夢じゃなかった。今までに何回も見た夢だ。俺が気づかなかっただけで、桜木はずっと俺を追っていた。でも、なんで。

帝都大学のヴィー先生の言ったことがよみがえる。一回離れて切りとられた世界に揺らぎが起きているって。

もしかして、また日本に化け物が現れたんじゃないだろうな。クララレシュウムはこれでもう大丈夫って言ったけど、分からない。

だったら、桜木が危ない。

刺し貫かれたような不安と狂いそうな心配に俺は立ちつくす。急にいても立ってもいられなくなり、キャロルのように地面を爪の先で蹴り飛ばした。つま先が痛い。

桜木になにかあったらどうしよう。もしまた化け物に襲われていたら、桜木には抵抗する手段はない。

「やめろ!」

耳をふさいで目を閉じ、俺は激しくかぶりを振る。考えたくない、想像したくない。もしも桜木が響さんのように犠牲になったら。

いや、例え怪物が現れても現れていなくても危ないのには変わらない。化け物で混乱しきっている街中、空っぽの廃ビルに桜木を置き去りにして俺は行った。仕方がなかった。四方を敵に囲まれて安全なところへ連れて行くどころではなかった。それでも自分の無責任さに自分を殴りたい。

目がさめて、まず桜木はどう思うだろうか。俺を怒るだろうか、それともあの大騒ぎに加わっているのではと疑うだろうか。どこに行くのだろう。警察か家か。

そもそも無事に帰れるのか? 街は大騒ぎだった、大混乱の中変な人が出歩いていたらどうしよう。火事は大丈夫なのだろうか、道が切断されていないだろうか。

桜木、今どうしている。無事なのか、なんで怒っているんだ。問いかけても返事はない。

不安と心配の中歩きながら、ふと俺は望郷の思いにかられた。いつの間にか集落の外れに出たようで、粗末な狩猟小屋の外側には植生貧しい林が広がる。

もう日本には帰れない。帰ったら俺がかけ橋となってカーリキリトの魔物を呼び出してしまうから。

決めたのは俺だ、頼んだのも俺だ。もうこれ以上だれかを巻きこみたくなかった。俺は響さんを巻きこんだ。日本で平和に生きていた響さんを引きずりこみ死なせた。

もうこれ以上巻きこみたくない。そう決めたはずなのに。

思い返すと懐かしくてたまらない。俺の日本、つい少し前まで暮らしていた故郷。夏は熱いアスファルトの大地、魔法と区別できないほどの便利な文明の利器。海が広がる日坂高校。もう絶対に見ることのできない当たり前の景色。

「……ちぇ」

俺は乱暴に目をこすり顔を上げる。

もう戻ろう。ひとりで考えてもしょうがないし、いい加減寒い。帰って相談してみよう。いい考えが浮くかもしれない。

決めて顔を上げた。そして唐突に謎の生き物と目が合う。

いつの間にか豚がいた。短く硬そうな毛、体長は俺の半分ぐらい。どう見ても豚だったが、いくつかおかしなところがあった。

まず猪のように牙がある。目が血走っている。口から見える歯も牙と呼べるほど鋭い。鼻息は荒く、前足で地面を引っかき今にも飛びかかってきそうだ。俺への敵意に満ちている。

これは豚なのか? なんだか肉食獣みたいだぞ。

頭ではどうでもいいことを考えながらも行動は素早かった。肩に持たせかけていたスタッフを構える。足幅を広げ腰を低くし、豚もどきへにらみつける。

なんだろうなこれ。まだよく分かっていない俺へ、豚もどきは血に飢えたうなり声を上げて突撃してきた。

巨体のくせにとんだ速度だったが、あいにく直進だ。俺は一歩と半分左へ動き、ちょうど横をすり抜けていく豚もどきの額へ両手でしっかりつかんだスタッフに体重をかけて殴りつけた。

豚のくせに人間のような悲鳴を上げる。あまりの重さと速さに手がしびれる。構えなおす俺の前を、豚もどきは叫びながら林へと逃げてしまった。あっという間に姿が見えなくなる。

「なんだったんだ」

緊張を解かずに、我ながらのん気につぶやいた。殴ってもよかったのか?


「それはビルブルよ」

帰ったらもうみんな起きていた。昨日から長く使われていなかった台所を掃除していたザリがさっそく全員分の朝食を鍋にこしらえている。朝ご飯を作りながら断言した。

「ビルブル?」
「そう、ビルブル。豚の一種だけどとても凶暴で人を襲うわ。恐れられているわよ」
「あ、そういや聞いたことがある。今年は多いって」

確かフォールストたちだ。街道でビルブルだっと叫んだらそこにいた人たちは逃げだした。あれだったんだ。

「そんなのがその辺歩いているのかよ、おいっ」
「といってもイーザー、いるものはいるのだし、ビルブルは生命力が強くてどんな厳しい環境でも生きていけるって言うしね。辺境の村、それも林の近くなら出てもおかしくないわよ」
「そっか」
「それよりもアキト」

小刀をもてあそんでいたキャロルはしみじみした。

「よく勝てたわね。ビルブルって凶悪で有名なのに」
「そうか?」
「そうよ」
「そういえばすごいなアキト。無傷だ」

イーザーまで。とまどう俺に、もう一回キャロルは感慨深くうなずいた。

「いつの間にそんなに強くなっていたのね」

アザーオロム山脈ふもとにある集落はフィーナの言った通り小さかった。暮らす人々はけして大きくない畑で細々と生きている。

つつましい生活をする人たちだったが、やはりアザーオロムふもとという土地上少し普通ではなかった。フィーナたちと騎竜が3頭も飛んできても平気だし、ちゃんと竜を泊める宿舎も、粗末で手入れは自分でやらなくてはいけないとはいえちゃんと用意されていた。山登りのための防寒具も物々交換で手に入るそうだ。

「基本的なものはエアーム帝都で買ったからいいのだけどね、細かいものが欲しいしついでに話したいわ。アザーオロムはどうなっているのかしら」
「キャロル、金じゃ買えないみたいだぞ。こんな辺境だから現金よりも物がいいってさ。交換するものがあるのか?」
「山ほどあるわよ」
「どこに」
「かばんの中」

指の先を見ると壁にもたれかかせたザリの背負いかばんと肩かけかばんがあった。

「まさかザリのもの勝手に盗むつもりか?」
「本人を目の前にそんな話をする訳ないでしょう」

そういえばいたっけ。呼ばれた本人は朝ご飯をかたづけている最中だった。

「なに?」
「ザリ、薬草少しわけて」
「ええ、いいわよ。待ってね、安全なもの選んであげるから」

直接持ち主に頼めばいいのか。

「本当はかばんの中も大体分かっているのだけどね。ま、本人を通した方が礼儀作法にかなっているでしょう」
「何回も勝手に盗っていたものな」
「結構色々あるわよ。しかるべきところで売りさばけばかなりの金になるわね。さすが研究者だわ」
「俺たちのせいで中断しているけどな」
「今も結構やっているじゃないの。マドリームでのほくほく顔を忘れたの?」

エアーム帝国で前もって買ったという防寒具はどれも毛皮の立派な服だった。交換を終えたら荷物をまとめて服を着こみ、出発する。

アザーオロム山へ続く道の番人は、一見平凡な白髪の青年だった。背中に白いこうもりのような羽根さえなければ、ただの人として群衆の中へ紛れこんでしまうだろう。

「よりによって冬にアザーオロムにくるとは物好きな」

シーンという青年は胡散臭そうに俺たちを見た。俺は無遠慮な視線に負けず手紙を差し出す。

「雷竜神神殿参りと、草の学術調査か。ちょっと待て」

住んでいる祠は半分人工物で半分自然の洞窟だった。たいまつの明かりはなく、俺たちは人の家だというのに角灯を下げて向かい合っている。大して広くもない祠は机の上はもちろん床まで本が積まれ、巻物が乱雑に散らかっている。

「散らかっていて悪かったな」

俺の視線に気づいたのか顔を上げた。

「え、いや」

どうしてこんなに暗いのに気づいたのか。キャロルみたいに暗くても目が見えるのか。

「仕方がないだろう。俺は赴任してきたばっかりなんだよ」
「あ、これ前の番人がやったのか」
「違う。前任の竜が急に亡くなってな。後を継いだのはいいけれどまるで勝手が分からない。紹介状は問題なしだな。気をつけて行ってこい」
「あ、どうも」

返してもらいながらそっとキャロルに目配せをする。

「(なにか関係あるのかな)」
「(例えば上の神殿勝手に自分のものにしているのに、この辺に詳しい老竜がいたら色々面倒よね。察して偉い竜に相談しに行ったりエアーム城に駆けこまれたらと思うと、先手を取りたいと思ってもおかしくないわ)」
「アザーオロムも最近不穏だ。なにもないように見えるし実際なにがあった訳でもない。でも、なんか変な気がするんだよな」

シーンは困ったように首をかしげる。

「落ち着いたら俺も飛んで調べてみるかな」
「やめた方がいいですよ。悪いことは言いませんから」
「はっ?」
「どうもありがとう、それじゃね!」

キャロルは必要以上ににこやかに手を振り、俺の襟をつかんで外へ引きずっていった。いて、いてて、痛いって。

「馬鹿。よけいなことは言わなくていいの」
「そうかもしれないけど、つい」

丸い目をする竜の番人を置き去りにして、俺たちはとっとと出て行った。


アザーオロム山脈は道がなかった。

まるで沙漠のような枯れた大地は荒れ果て、目につくものは岩か葉の代わりに棘がある低木だけ。

上へと向くとちらほら雪の白さが混ざり、やがて白一色にとなる。そして山には終わりがなかった。どこまでもどこまでも、このまま空まで続きそうなくらい果てがない。雲と同化しているところまで確認してもうやめた。きりがないと肩に食いこむ背負い袋の紐を直す。食料が重い。

「黒海がここにいれば」

ザリが嘆くように言う。「そうすれば荷物も持ってもらえたし、ずっと楽だったのに」

「どうかしらね。途中に馬返しがあるかもしれないわよ。黒海を置きざりにするの」
「そうね」
「馬返し?」
「難所で馬を連れている場合引き返さないといけない場所のこと」

なるほど。

「すごく高い山だな」
「雷竜神がいると伝えられている、そして本当にいる神聖な山だもの。行くだけでも面倒よね」
「おまけにラスティアがてぐすね引いて待っているときた」

なんとなく黙った俺たちは、急に両手を打ち合わせた音にびっくりした。イーザーだった。

「行くぞ、アキトっ!」
「あ、ああ」

半分虚勢混ざったように元気に言って先陣切って歩き出す。つられて歩き始めた。枯れた大地を踏みしめながら、イーザーが正しいことを認める。

そうだよな。こんな目の前まできたんだ。今は悩んだり迷ったりしている場合じゃない。

山に圧されてはっきりしない頭に手を触れながら俺は気を引きしめた。行かないと。


みんな無口だった。

黙って足元を見ながら歩く。言葉はない。

言いたいことはきっとあった。でも出てこない。気後れしているのかもしれないしラスティアとの対決が近いのを感じて緊張しているのかもしれない。

こぶしより大きい岩を避けながら歩いているうちにぼんやりはさらにひどくなった。目を開けても半分寝ているよな、厳しいはずの足元が柔らかい布団になったような気がする。

「霧だ」

くぐもったイーザーの声がする。

「アキト、起きている?」

肩をつかまれ引き戻される。キャロルが厳しい表情で俺を見ていた。

「あ」
「あ、じゃないわよ。しっかりして」
「悪い」

キャロルの言いたいことはよく分かるし、俺もぼんやりするなんてどうかと思う。本当なら抑えきれないほど興奮しているはずなのに、なんでこんなに夢うつつなのだろう。

イーザーの言った通り霧が出ていた。ただでさえ曇天、厚い雲が空を覆い昼だというのに大して明るくない。「迷わないように気をつけて」キャロルの呼び声がはるか遠くに聞こえる。

霧は一歩ごとに深くなっていった。昼ごろに一回立ち止まり、干飯をかじって水と干した杏を食べる。

「アキト、気分はどう?」

甘い杏をかじっていると、急にザリの顔が目の前にあった。きっと急ではない。寄られたのに気づかなかったんだ。

「大丈夫」
「熱もないし、健康そうね」

いぶかしげにザリは頬に手を当てた。

「あれじゃない。高地に行くとめまいと吐き気がする病気があるそうよ」
「高山病ね。あるけれども、症状が出るには少し早いわ。もっと高くにならないと出ないのに。はい、これを飲んで」

なにかの葉をすり潰したものを渡され、おとなしく飲み干した。舌につき刺さるように苦かったが、どうもぼんやりは味覚にも影響しているみたいで、特に違和感なく飲みきった。

ザリの薬にもかかわらずぼんやりはますますひどくなってきた。頭が重く、目が開けられない。深くなる霧が頭の中にも入ってきたみたいだった。「なにやっているんだよ、おい」途中からイーザーとキャロルが手を引き、強引に俺を山頂へと連れて行く。

アザーオロム山の地を歩きながら俺はいつの間にか違う場所を歩いていた。例えばクラシュムの地下遺跡、フォローの穏やかな大地。レイドの水中にある島。いつだって俺はひとつのところにとどまらず、5分ごとに違う地へと飛んだ。

荒野と城内と戦場を同時に歩きながら俺はだれかの声を聞く。

初めキャロルかと思った。また俺にしっかりしろと言ったのかと。でも違う。もっと遠くから、何回も何回も俺を呼ぶ。

「桜木か?」
「あ? アキト、なにか言ったか? サクラギ?」

桜木が俺を呼んでいる。必死に、死に物狂いで。あちこち走って、変わり果てたコンクリートとアスファルトの街を探している。

夢うつつの俺に、最後の夢で見た姿がぼやける。懐かしい日坂高校の制服、肩で息をする女の子。

「桜木」
「! 大谷くん!」

まるで声が届いたように桜木は跳ね上がった。

「どこ、どこに行ったの? 出てきて大谷くん!」
「駄目だ」

俺はここにいる、はるか遠く、世界を隔てた世界の果てにある山に。

でも駄目だ、ここは危ない、きちゃいけない。

「大谷くん、そこなの!?」

ぼやけた桜木が、すすけた制服の女の子が俺を見つけた。こっちへ走り手を伸ばす。

イーザーが呆気に取られた。「あの子、だれだ?」

イーザーにも見えている、見えているだって。じゃあ俺の見ている白昼夢でも幻でもない、本当にそこにいるのか。

手を振り切り下がって叫んだ。桜木の目が大きく開く。

「大谷くん」
「くるな!」

ここは危ないから。怪我をするかもしれない、死ぬ危険だってある。くるな桜木、日本にいろ。

「ラスティアに気をつけろ!」

驚きに染まった表情を最後に、桜木の姿はかき消える。「おい!」イーザーが荒々しく肩をつかみ、キャロルも俺の横で剣を抜き鋭く周りを見る。

「なにも、ないわね」

息詰まるような空気の下、キャロルは俺へ向いた。

「今の子は」
「桜木まどか。俺の日本での友だち」

驚きのあまりか、ずっと頭の中に巣食っていたぼんやりは消えた。すっきりした頭で考える。こんなに寒いのに汗が出てきた。


日がかげり始めたところで山小屋についた。外装も内装も無骨だったが、広くて台所もある立派な宿泊場だった。

「薪もあるのね」

備え付けのほうきでほこりを払いながら、ザリが感心したようにつぶやく。「十分にあるわ。持ってきちゃったのにね」

「あると聞いていたけど実のところ嘘だったなんて展開はごめんよ。用心しておいて不足はないわよ」

キャロルの返事がいささかやる気がなかったのは、ひとえに他のことに気を取られていたのだろう。落ち着いてさっそく茶でもと小さなやかんを火にかけると「さて」俺はつめよられた。

「もう一回話してもらうぞ。あの人はだれだ」
「桜木。日本での友だち」
「強いの。ヒビキみたいに」

いやと首を振る。自分でも意外なほど俺は落ち着いていた。

「強くない、普通の女の子だ。力もないし体育が得意なんて聞かない」
「魔法は。アキトのいたところには魔法も精霊術もないんだっけ。なにか普通でない能力はあるのか」
「ないって。あったら大騒ぎだよ」
「なんでそんな子の幻覚がここに?」

それは俺も聞きたい。イーザーが頭を回した。

「あれ、幻だったのか? ぼやけていたけどアキトを探していたし、気づいて叫んでいた。まるっきり生身の人間としての反応だったぞ」
「あの子はサクラギ本人だったと言いたいの」

ザリは信じられないようにつぶやく。「本人が直接ここにきそうだったというの?」

「アキトもヒビキもその口だ。召喚されかけてやめたなんて話は知らないけど、あってもおかしくない」
「ヴィー先生が言っていたこともある。また不安定になったって。このことを言っていたのかもしれない。今度は桜木が呼ばれているのかも」

穏やかな音を立ててやかんから蒸気が噴出す。すかさずキャロルが立ち上がって行った。

「今そんなことができるのは2人だけ、クララレシュウムとラスティアだけだ」
「ラスティアでしょうね。雷竜神にアキトの友人を今更呼び出す理由は全くない」
「キャロルが言いたいのはこうだろう。ラスティアは響さんの二の舞を狙っていると言いたいんだろう」

声は震えたが、それだけだった。キャロルは少し怯えを見せてうなずく。今はない片方の獣耳にそっと手を当てた。

「アキトもキャロルも思いつめるな」

イーザーがたしなめた。

「2人ともアキトの友だちだけど、決定的な違いがある。忘れていないか、ヒビキはアキトより強い武芸達者な人だった。でもサクラギはそうじゃない、ただの女の子だ。ただの女の子なら大丈夫。例え戦うはめになっても手加減できる。サクラギ本人にそう大したこともせずに捕まえられる」

張りつめて緊張していた気分に穴が開いたように抜けていった。

「ヒビキは強くてやるかやられるかだった。でもただの人間、ここにきて間もない頃のアキト以下なら話は別だ。ザリだって捕まえられる」

熱い茶をすすりながらイーザーは言う。

「アキトはそんなに弱かったの?」
「弱かった。俺たちで鍛え上げてやっと戦えるようになったぐらいだ。面と向かってきてもザリも力づくでなんとかなったよ」

必要以上に俺をけなしていないか、イーザー。

「でも、もし人質に取られたらどうするの」

その手もあったか。思わず立ち上がる。

「座ってアキト」

キャロルもお茶を取った。

「人質にするのも敵にするのにも、そもそもサクラギがここにいないと成立しないわ。今サクラギはここにいない。少し心配するのが早いわよ」
「でも、もしも」
「その時対応するしかないわね。どういう状況なのか、実際になってみないと分からない。今ここでできることは心の準備ぐらいしかないわよ」
「できることはなるべく早く行くことだ」

イーザーが茶を飲みきった。

「つまりサクラギが召喚される前にラスティアを殴ればいいんだろ。ラスティアはもう目の前だ。今すぐ行こう」
「夜のアザーオロムを歩くのは無謀よ、イーザー」

危機感を抱いたのか、ザリは外衣の端をつかんでとめた。「ただでさえ冬に山を歩くなんて危険をおかしているのだから、これ以上危ないことはできないわ」

「分かっている。朝一で出発だ」

ひょっとして分かっていなかったのかもしれない。そっぽを向いた。

「アキト、体調はどう?」
「俺は大丈夫、しっかりしている」

白昼夢に桜木の姿を見てから治った。まだ少し頭が重い気もするけど、もう平気。ぼんやりしていない。

それでも心配したザリにまた薬をもらった。数種類の草をすりつぶした液体は独特の苦さと生臭さで飲めたものではなく、器が空になるころには舌がしびれた。


夕食は山小屋で作ったにしては豪華だった。干し肉と野菜がたっぷり入ったシチューにチーズ、パンに干し杏、お酒をたらした黄色くて香ばしいお茶。

話は弾まず、静かに食べた。終わるとそそくさと片付けて、持ち物をまとめて武器の手入れをする。

眠りは浅く不安定だった。夢は見なかったものの起きた気分は昨日の朝と大差なかった。キャロルに「頬でもつねったら。青いわよ」茶化されるが、そういうキャロルだって顔は少しこわばっていた。ミサスでさえいつもよりさらに口をきかなかったんじゃないだろうか。

重く、無口になる理由はあった。そりゃもうはっきりしていた。朝まだ日が昇る前に出発する。思い出したようにキャロルが俺をおちょくり俺は細々と言い訳してイーザーが口をはさむけど、それでもようやく着いた時にはだれもしゃべれなかった。

遠くからでも分かった。一面雪に埋もれたアザーオロム山の中腹、急に文明を思い出したように唐突にその建物はあった。

古今東西どのカーリキリトの建築物とも似ていない。一番近いのはクラシュムの地下遺跡で、2番目は日本の高層ビルだった。高層ではないしろくに窓もないけど、雷神殿の本家ははるか遠くの異界に建つものに似ていた。

形はほぼ真四角の、墨で塗りつぶしたように黒一色だった。壁は金属ともプラスチックとも区別のつけられない触感で、入口らしい門は反対側が一切見えない自動ドアだった。城ほどまではいかないがかなり大きく、外周を回るだけで2時間はかかるだろう。音はなく明かりはなく、黙ってここにいる。

キャロルが門の上を指した。子どもかさもなくば天才的な芸術家が描いたような、直線だけで構成されたまるでなんだか分からない紋章がかかげられている。

「雷竜神の象徴よ。ここまで精密なものは初めて見るわ」

世界の果てで、俺たちは雷竜神クララレシュウムとラスティアの待つ雷神殿本殿にたどり着いた。