部屋に戻って、俺は椅子にどっと腰掛けた。イーザーはベットの端に浅く掛ける。
「これからどうするんだ?」俺は訳も分からずあせってイーザーに尋ねた。イーザーはじっと目をつぶって考え込む。
「もう、事態は俺たちの手に負えない、どんどん悪い方へ進んでいる。最悪まで行く前に何とかしないと。
こうしよう。アキト、お前はここでじっとしていろ。俺の知り合いにこれを打破できる奴がいるから、今からそいつに会いに行く」
「何で俺が留守番なんだ?」「急いでいるから、早馬を情報屋で借りるつもり、何だよ!」
説明するのがまどろっこしいとばかりにイーザーは歯を食いしばった。うっ、悪い、イーザー。
「でも馬は滅茶苦茶高い。今の所持金でやっと1頭借りられるかどうかだから、俺1人で行く。悪いが、おとなしくしていてくれっ」イーザーは黒マントを翻し、ドアを突き飛ばして出て行った。意外に熱血な所に俺は何も言えなかった。そいつは誰だとか、行くのにどれくらいかかるとか、聞きたいことは色々あったのだが。とりあえず言われたとおりに部屋にじっと閉じこもってみる。でもとてもではないがくつろげなかった。こんなときのんびりしている自分が嫌でそわそわし始める。
何か、俺にも出来ることはないかな?
何もない気がする。う〜ん、どうすればいいんだろう。
俺はしばらくじっと考えた。今日1日の様々な事が頭の中で浮かんでは消える。頭の中で試行錯誤をし、いい加減ぼやっとなった時、ふとキャロルを思い出した。
あいつを仲介にして、地下道の一族と話せないかな。無理か? でも人間対地下道の一族なんてことになったら向こうも困るだろうし、話してみても損はない。キャロルを助けたのは俺たちなんだし、話ぐらいは聞いてもらえると思う。よし、そうしよう。
はっと俺は起きた。どうもうとうとしていたらしい。もう空はとっぷり暗い。俺は立ち上がって荷物とスタッフを持つと宿を出た。じっとしてはいられなかった。
ところが。道に迷った。どこに地下道の一族がいるのかが分からない。その辺にあると思っていたのだが、俺の考えが甘かったらしい。おまけに外は街灯がほとんどないし人に聞こうにも時間帯が遅くてほとんど通りかからない。日本とは大違いだ。
帰ろうかな。そう、俺が諦めかけた時、目の前をすっと青い人影が通った。
「フォールスト?」琵琶みたいな楽器は持っていないし、髪は紺の紐で束ねていたけど、確かにこの前会ったフォールストだ。青の楽師は振り返った。俺を見て、にこりと笑う。
「アキト、こんばんは。どうしたの、こんな所で」「フォールスト、地下道の一族の住んでいる所知ってるか!?」
礼儀を殴り捨てて俺はフォールストに詰め寄った。フォーするとなら知っていそうだし、唯一の手がかりだ、逃がさない。フォールストは俺にびっくりしたようだが(それはそうだろう)でもあっさり答えた。
「知っているけど?」「案内してくれ、いや、そこまで教えてくれ」
「えっ、ちょっと待って。今ここでそれはまずいよ」
「何が」
俺は不安になった。まさか俺が寝ている間に戦いが始まったのでは。
「ここの有力者が地下道の一族嫌いのあまり、呪いをかけようとしたんだって。それは何とか解けたけど、それに対して地下道の一族は仕返しとして卿をナイフで刺したそうだよ。ナイフには毒が塗っていて、卿は瀕死の重傷、今人間と地下道の一族、どちらも睨みあっている、紛争まで後一歩だよ」よかった、まだだった。
「そんな時に地下道へ行くなんて危ないことは止めなよ」「今すぐ行く必要があるんだ」
「そう? なら」
もっと渋るかと思ったけど、割合あっさりと教えてくれた。俺はありがとうと言って走り出そうとして、ふと止まった。
「何でそんなこと知っているんだ?」俺はその場にいたから呪いとか毒とか知っているけど、一切何も関わっていないフォールストがそんなことまで知っているのは不自然だった。
「私だって伊達にふらふらしていないよ」何が言いたいのかよく分からん。でもここでぐずぐずしてもいられないし、その答えで納得して俺はまた走った。
昔火事でもあったのだろうか。今は人がすまない、アパートのような集合住宅の廃墟の一角。そこで一番大きな建物に俺は入った。中は暗くて、ほこりが鼻につく。
ここから地下道の一族が住んでいるところにいけると聞いたけど、ねずみ人間どころかねずみ1匹すらいない。俺が間違えたか、フォールストが間違えたか。多分俺が間違えたんだろうと考えて、別の建物に行こうとした時、
「動くな」真後ろで、押し殺したような声がした。首の辺りに冷たいものが突きつけられている。こういう扱いをいきなりされるとは、聞いていないぞ、フォールスト。
「何の用だ?」「あの、俺、キャロルに会いに来たんだけど」
どっと冷や汗をかきながら、俺は何回も心の中で繰り返した言葉を口にした。
「貴様、人間か」いつもならそんなことを言われたらむっとして、それ以外の何に見えるんだと言っただろうが、今の俺にはそんな余裕はない。首にナイフを当てられながら、相手にそんなことを言うほどの勇気はなかった。まずい。俺は自分のうかつさを呪った。このままでは本当に殺されてしまう。
「キャロルに話があるんだ。どうしても会わなくちゃいけないんだ。いるか?」今までの人生で、これほど必死になったことはない。頼みながらもっと口が上手ければと痛いほどに感じる。背中の方で沈黙があった。
「その方は、今はお眠りになっている」敬語だった。キャロルって実は結構偉いのかな?
「帰れ」「あ、あのな、話ってのは、実は呪いの水晶玉のことなんだ」
一か八か、俺は言ってみた。後ろの奴が息を飲む音が聞こえた。
「あれを動かしたのは俺だけど、そのことでイーザーがおかしいと言っていたんだ。その時にいた人間でもう1回、きちんと呪い祓いをした方がいいかもしれないって。さもなきゃ呪いは消えるどころか、もっとひどく降りかかるかもしれないってさ」「あの方は人間と手を組んだりはしない」
「手を組んだわけじゃない。あれは、どっちかと言ったら利用された、とか騙されたとかだ」
これだけは本音だった。
「……いいだろう。そこを動くな」俺のでまかせを男は信じたらしい。首にナイフを突きつけられている状況は変わっていないけど、今すぐぶっすりということはなさそうだ。どっと身体から力が抜けて、額から汗がぽつぽつ浮いた。
俺の体内時間からすれば3時間は過ぎた。でも腕時計は1時間も過ぎていない。俺の後ろの男は動きもしないのに、どういう方法をしたのかキャロルを呼び出したらしく、聞いたことのある声がした。
「デール、ヤミ、下がっていろ」やっと俺の背中からナイフが消えた。安心して座りこんだ俺の顔を女が覗きこむ。
「誰かと思ったら、アキトか」灰色の目と髪、背は俺より少し小さい。さっき見た顔だった。
「キャロル、良かった……」「上手くないけど、とっさの嘘にしてはまあまあかな。アキトにしては」
「あ、ばれたか?」
「当然でしょ」
小さな子供に言い聞かせるようにキャロルは言う。その姿はどう見てもさっきの男と同種族とは思えない。
「呪いが降りかかるなら動かしたアキトだし、動かしてすぐに降りかかる。でもあいつらはそんなこと知らなかったし、今まで散々呪いで苦しんでいたから、あんまり深く考えずにあたしを呼んだんだろうけどさ。あたしのことそれなりに知っているし」キャロルはそう言って笑った。俺は半分騙されたはずなのに、キャロル自身に罪悪感がなく、そのせいかどうも憎めない。
「キャロルって、偉い人なのか?」さっきから疑問に思っていることをたずねた。ああ、とキャロルは頷く。
「あたしは影の長候補で、もうじき影の長になるから」「影の長って何だ? 副リーダーみたいなものか?」
「少し違う。人間にはなじみがないかな。表の長を助け、種族と長のために全てを捧げる存在のこと」
「長というのは、いわゆる村長みたいな者だよな。つまり、部族で2番目に偉い人で……そんなに凄い人だったのか?」
「そうでもないって。元は次の次の次、ぐらいの影の長候補だったんだから」
「だったら、どうしてもうすぐその、影の長に慣れるんだよ」
「呪いで前任者が全員死んだから」
あっけらかんと恐ろしいことを言われてしまった。そうか、だからそんなに若くてもそんなに偉い立場にいられるのか、という感想はさておいて。俺はやっとここに来た理由を思い出して、ずばり本題に入ることにした。
「キャロル、俺、話しに来たんだ」「何を?」
「和平だよ、戦争を止めに来たんだ。な、キャロルってそんなに偉いんだったらここのリーダーと話してくれないか」
「何言い出すのかと思ったら」
そんなの心配しなくてもいい、とキャロルはあっさり言った。
「あたしら地下道の一族は戦いを好まない。今回のことで即人間と争いになったりはしないよ」「人間側はそうは思ってはいないと思う」
「何? それ」
「だから、もしあの卿って言う人がこのまま死んだら、人間の方はキャロルたちに戦いを挑むに決まっているって」
「何でポートライト卿が死ぬの?」
「何でって」
どうも話がかみ合わない。俺は苛立って声を荒げた。
「キャロルたち地下道の一族が卿を毒が塗ってあるナイフで刺して逃げたからだろ!」キャロルはそれを聞いて口をつぐんだ。今まで豊かだった表情が消えていく。
「俺とイーザーは見たんだからな。大きな館から逃げ出す地下道の一族を」「あたしは、知らない」
押し殺したような低い声だった。
「アキト、それについてあたしたちの長に話をしなくちゃいけない。来て」きっぱりキャロルは、有無を言わせず従ってしまうような強い口調で言った。俺は今までキャロルは俺と同じくらいの年だろうとは思っていたけど、もしかしたら俺よりずっと年上なのかもしれない。こんな物言いができるなんて。
「悪いけど、荷はあたしが預かる。武器はここに置いて」言われたとおり、俺はスタッフをその辺に立てかけてかばんをキャロルに渡した。
「明かりを持っている? あたしらはそうじゃないけど、人間には地下は暗いよ」「懐中電灯がある」
「それから」
キャロルは俺を上から下まで眺めて近寄り、手で俺の服をぺたぺた触れた。なんだろう、ひょっとしてこれがボディチェックというものか。
「こっち」キャロルは奥の部屋に早足で入った。足音はかちゃかちゃ立てているのに埃はほとんど立たない。かちゃかちゃ? 俺はキャロルの足元を見た。はいているブーツは足の先に穴が開いていて、そこから獣のような長い爪が出ていた。人間のような外見でもやはり人間ではない。
奥には地下へ行くための穴がまるで生き物のように口を開けて俺を待っていた。階段がその先に続いているとはいえ、不吉な予感が俺はした。キャロルはためらいもなくその穴の中へ身を投げた。
正直、俺はそんなところへ入りたくはない。昼入った館よりも入りたくない。イーザーもいないし、この奥には人間を敵視している地下道の一族が死んでいて、いつさっきみたいに痛い目に合わされたり、それ以上のこと、最悪殺されたりという目に合うかもしれない。
俺はふがいない自分をしかりつけた。しっかりしろ、俺! こんな所で怖気づいてどうする、何のために宿を飛び出して、見張りに脅されながらもキャロルを呼び出したんだ。それは少なくともキャロルと世間話をするためではないぞ。もし俺が失敗しても、何とかしてくれよ、イーザー
我ながら悲痛な決死の覚悟を決めて、俺は懐中電灯の電源を入れた。
階段は狭くて長かった。先に入ったはずのキャロルの姿はない。こっそり頼りにしていたキャロルまでいなくなって、俺は本当に帰ってしまおうかと思った。たっぷり3階分は下りて、やっと階段がなくなり、そこにキャロルがいた。その先にはうずくまっているらしい誰かもいる。キャロルは苛立っているらしく、爪が硬い音を立てて床を削っていた。
何しているんだ? そう聞く前にキャロルのしっぽが鞭のようにうなり、床に叩きつけられる。
「何てことを……!」憎々しげに、そして苦悩しているようにキャロルはうめく。
「キャロル?」「行こう、アキト」
止まったのは自分のくせに。俺はそう言おうとしたが、キャロルの声があまりにも重く暗かったたのでやめた。
「明かりはいるか? この先は真っ暗だ」「見えるから、いい」
俺は前を見た。懐中電灯なしだと俺には何にも見えない。小走りに歩き出したキャロルの背中を追いかける。よく見れば壁のあちこちに出っ張りがあって、そこに青白い光がちらちら燃えているようだった。でも、光量はあれで足りるのか?
キャロルには足りるらしい。迷わないし、転びもしない。小走りはだんだん速度が上がってきて、終いには走っているようになった。案内役が走っているので俺も走る。何もなく意外ときれいな、静かすぎる地下道に足音がこだまして、人1人いない夜の街を走っている気分に俺はなった。もちろん無人ではないらしく、背中に複数の視線を感じる。どうもむずがゆい。
何の前触れもなくキャロルは止まった。
「我が長。タリスです」低く、大きくない声はそれでもはっきり聞こえた。片ひざをついてしっぽを体の周りに回し、俺に明かりを消せと命じた。
「タリスって誰だ?」言われた通りに懐中電灯の電源を切って、キャロルがやっているように座りながら聞いた。暗い中でもキャロルが睨むのが分かる。
「(あたしの名前)」「(キャロルじゃないのか?)」
「(それは人間に名乗るときの名前。本名はタリス)」
キャロルはそこで扉に手を伸ばした。ということはキャロルというのは偽名なんだろうか。これからはタリスと呼ばなくてはいけないのかな? なんだかぴんと来ない。
扉が開いた。キャロルはもう1回うなだれて、流れるような動きで立ち上がった。ここは暗いし、俺はキャロルの後ろにいるので表情は見えないが、それでもキャロルが毅然として、眼つき鋭く前へ進んでいるのが感じられる。ついて行きながら俺はその時キャロルと俺とは全く違う世界に生きているもの同士だという事を知った。俺と同じくらいの年なのに方呼ばわりされて、一族の命運を決する任務を任されて、こんな時まで堂々と振る舞える。俺みたいに普通に生きていたら絶対に身に付けられない強靭さ、強さを持っていた。
「人間だ!」扉の奥の広い部屋―と言っても地下だからそれほどでもないだろうが、暗くてよくは分からなかった―の奥から嫌悪の叫びが聞こえた。たちまち俺にどっとあふれんばかりの敵意が降り注ぐ。どれくらいの敵意かと言うと、鈍い俺でもこの場から即刻退散したくなるほどだった。もし敵意に人を殺す力があるんだったら俺は即死していただろう。
「タリス、なぜここに人間を連れてきた?」部屋の中央辺りにいる老人が淡々と聞いた。らしいと言うのは暗くてよく分からないのと、その人物はキャロルとは違ってまさに直立歩行するねずみといった容貌だったからだ。再びキャロルは片膝を付いてうつむく。
「我が長、この人間は協力者です。一族を忌まわしき呪いより解放する際力を借り、そして今、私に極めて重要な情報を届けました。このものには我々を迫害する能力も意思も持ちません。故にここに運びました。我が長、ポートライト卿が我らの仲間によって切られ、その刃の毒によって瀕死の状態にあります。この人間より話を聞きました。ヤミにも確認を取りました」
確認? いつ取ったんだろうと思って、階段の時の事を思い出した。あの時、その話をしていたのか。
キャロルの声は淡々と続いた。
「我が長、この事は由々しき事態かと思います。恐らく一部の若者が怨みのあまり暴走したものと思われますが、それにより人間と際限なき争いになるでしょう。それを収めるために、どうぞ、ご指示を」「タリス、その必要はない」
地下道の一族の長と呼ばれている老人は、今の大事件がどうでも良かったかのように静かに返した。もっと驚けよ、せっかく俺ががんばって伝えたのに。
「すでに私は知っている」「ならば、一刻も早く手を打たないと。なぜ私めに伝えなかったんですか?」
「お前は重要な任務のために疲れていると思ったのだ、タリス」
「それは言い訳にもなりません。私は理由を聞いています」
「タリスよ、お前は許せるのか?」
長の声がかすかに変わった。どこなのかは人生経験浅い俺には指摘できなかったけど、確かに変わった。
「人間の理由なき呪いで幾人我らの同胞は死んだ? どれだけの我が子が一夜にして消えた? 死んだ親はいくばかか? たった数日の間だ。それだけでずいぶん変わった。全てあの男の、人間のせいだ」キャロルは少し、放心したように呟いた。
「長よ……貴方が、命を下したのですか」「違う、我々、地下道の一族全ての意思だ」
正しい正しくないとも言わせない、強い意思がそこにこもっていた。もし今のが俺に向かって言われたのなら俺は考える前に張子の虎のように頷いていただろう。実際、俺は立ちすくんだ。
「何て、事を」突如キャロルが立ち上がった。かしずいていた臣下の姿から対等の立場までにその身が上がる。
「長よ、貴方はご自分がなさった事を分かっておられるのか!? 人間と全面戦争をするおつもりか? そんな事をしたら他の獣人も、妖精たちも、フォロー王国も黙ってはいない。国を散々かき回して、そして負けるのは我ら地下道の一族だ。貴方がした事は一族を破滅させる!」「その心配はない、我が一族は迫害されていた昔とは違って、もう十分に力をつけた。奴らに地下道の一族としての力を見せ付けるのだ」
「長、考えを改めよ! 戦になれば我々は負ける。1回目は勝っても次か、その次には負ける。必ずだ。我々の生きてきた道を思い出せ! 地下に潜り、影で生きてこそ我らは生き延びてきた。貴方の狂気でこの世界の地下道の同胞を皆滅ぼすおつもりか!?」
「口が過ぎるぞ、タリス! 長になんと言う事を!」
「ディーダ、貴方こそ口を慎め。今や私は影の長だ。貴方ごときに言われる筋合いはない」
長の取り巻きの1人がたまりかねて怒鳴ったのを、キャロルは冷ややかに切り捨てた。
「タリス、これは我ら全てが決めたことだ。お前は私だけでなく、一族全てに反逆する気か」「長よ、この身は一族全てに尽くすために存在します。けして反逆などは」
「ならば従え、タリス、お前には肉親というものは存在しない身、だから、我らの事が分からないのだ」
「そのような事はありません、地下道の一族が我が肉親、全てが身内です」
「ならば我らに従え、お前には期待している、それを裏切るな、忠誠を見せよ」
それとも、と長は一端言葉を切った。
「その人の側に付くか? 我らの敵となるか? 我々を死へ追いやった人間たちに味方して、地下道の一族として生きる事を放棄するか? 選べタリス! その鉄のごとき忠誠は口だけか、真かを選べ!」……雷のような大声の後、誰も何も言わなかった。俺はキャロルがその時どういう顔をしていたのかを心底知りたいと思った。息詰まるような時間が経過した後、ゆっくりキャロルは膝を付いた。
「……全ては、我が長の言うままに」俺の心は凍りついた。現実が一切剥離したような、そんな風に感じる。それとは逆に長は満足そうに大きく頷いた。
「おい、キャロル」俺は到底信じられなくて、言った。部屋中の目が俺に向く。キャロルは振りかえらなかった。
「それ、本気か? 本当に戦争起こしてもいいのかよ」キャロルは何も答えなかった。俺は思わずかっとなる。
「聞いてんのか! 何とか言えよ! 俺は戦いを食い止めるためにここに来たんだぞ、押し進めてどうするんだよ!」キャロルが振り返える、それと同時に俺は腹部に強い衝撃を感じて、視界が目を閉じたように暗くなった。
あ、キャロルに殴られたのかとその時やっと思い当たった。もう遅かったが。
どれくらい気絶していたのかは分からない。とりあえず俺はふと目を覚ました。途端に吐き気がこみ上げてくる。多分殴られたからだろう。
「ここはどこだ?」気分最悪の目覚めの中で、俺はとりあえず現状を確認しようと周りを見渡した。暗すぎる上に懐中電灯もいつの間にか手元にないためここがどこかよく分からないが、人も気配もないし音も俺の立てる音しかない。手探りで壁を探ってみた所、2畳くらいの小部屋で壁は四方どこも湿ってぬめりがした。一応ドアらしいものもあったが、鍵がかかっているらしく開きそうになかった。湿気のせいか震えが来るほど寒く、しかも夏の生ごみと駅のトイレの臭いを混ぜて濃くしたような悪臭がある一角で強烈に鼻をさし、不覚にも俺はそこで戻してしまった。
咳きこみながら、俺はここが噂に聞く牢屋というものではないかと思い当たった。
「だとすると、入れたのはやっぱりキャロルだよな」なるべく乾いて清潔そうな所へ移動して座ると、そんな当たり前の事が思いついた。だとすると、これから俺はどうなるんだろうか。お世辞にも未来は明るくないような気がして、俺は震えだした。情けない話だが、止めようと思っても止まらない。ここへ来るときに覚悟は決めたはずだったが、決まりきらなかったらしい。
「どうしよう…… 何かいい方法はあるか? こんなことならイーザーの言うとおり、宿でじっとしていればよかった」後悔後に立たず、そんな言葉が頭に浮かんできた。
「あ、それから、この街どうなるんだ?」おまけのようにそんなことも浮かんできた。それはもちろん、キャロルもああなったんだし、やはり戦いが起きるのだろう。戦いというものは俺にとっては少し前まで映画と新聞の中にしか存在していなかった。だからだろうか、いまいち実感がわかないが、どうしても止めなくてはいけないと感じる。個人でけんかするならともかく、大勢の団体同士がぶつかり合う戦いは不幸を呼ぶだけだろう。でも今俺ができる事はもう何もない気がする。
「せっかくこんな所まで来たのに、俺ってば間抜けみたいだ」自然とため息が出る。ついでに泣きたくもなった。考えているうちにそのねたも尽きて、俺はぼんやり絶望しながら座っているだけとなった。真っ暗な中でじっとしていると俺はこのまま人知れず闇に溶けてしまいそうな気がしてくる。身体はくたくたなのに不安と恐怖でちっとも眠くならない。いっそ寝てしまえば楽になるのに。
何時間経ったんだろうか、誰かが遠くから来たらしい、驚くほど大きく聞こえる足音が複数近づいてきた。どきりと怯えて俺は大声を上げた。
「誰だ!」返事はない。代わりに扉の開く音がして、その誰かは入ってきた。俺に近づいてくるのが足音で分かる。俺は何を言われるのかとおどおどしながら待っていた。
いきなり腹を蹴飛ばされた。俺はぐえっとうめいてうずくまる。そこ、キャロルにもやられた所だし、第一何も言わずに蹴るなんて。
「は、反則だ」俺はがんばって口をきいたものの、相手に反省を促せなかったらしい。前髪を捕まれてその人物の方に無理に顔を向けさせられた。
「どうだ? 人間」どうだと言われても。仕方がないから俺は正直に言った。
「痛い。何するんだよ、お前」答えとして顔を殴られた。手も放したらしく俺はそのまま後ろに転がって後頭部を強打した。痛くてめまいがしてくる。
「立てよ」頭を抱えて情けなく唸っている俺の後ろからあざけりと嘲笑が聞こえる。
「俺たちが受けた苦しみはこんな甘優しいものじゃないんだぜ」その気持ちは分からないでもない。彼らは地下道の一族だ。ちょっと前まで人間に呪いをかけられ、死ぬほどの苦しみを味わってきたんだ。別にこいつらだって正当な理由があってひどい目に合ったんじゃない。地下道の一族だから。そんな理由にもならない理由でそんな目に合った。その怒りをいきなり来た俺にぶつけるのはある意味当然のことだった。
でも俺がやったんじゃない。むしろ俺はお前たちの呪いを解いて、さらにここまで来たんだ。その言葉が喉まで出かかって止まる。それは恩着せがましいし、結局俺は大した事は何もしていないからだ。俺には何も言えない。
でも、だからって何も理由もなく殴られる訳にも行かない。俺は立ち上がって反撃しようとした。それにドアが開いているのだから上手くすれば脱出できるのではということもあった。
立った瞬間に俺は足をすくわれてまた転ぶ。さらにそこで俺は脇腹を蹴飛ばされた。一瞬息ができなくなり、同時に寒気がした。ひょっとしてここで死ぬかもしれないという恐怖を感じる。でも俺にはどうすることもできない。ここでいたぶられて死ぬのは嫌だ、誰か何とかしてくれ……
「楽しそうだな」笑いを含んだ、それでいて冷ややかな女の声がした。キャロルの声だった。俺を取り込んでいる(はずの)奴らも驚いたようにそっちを向く。俺の耳に間違いがなければ、足音1つ立てずにいつの間にかそこにいた。
「楽しむのは結構だが、喋れるようにはしておいてくれ」あの長と向かい合った時のように温かみがない声でそう言うと、キャロルはこっちに来た。暗すぎてはっきりとは分からないけど、空気の動きで俺のすぐそばまで来たことが分かる。俺はキャロルがいるであろう方向へ顔を上げた。
「お前たちは下がれ。あたしはこいつと話がある」「タリス様、尋問なら俺たちがやりますよ、何もタリス様がやる事はありません」
一瞬不思議な沈黙があった。気配からキャロルが今発言したそいつに冷ややかな視線をくれ、そいつが怖気付いたんだろうと推測する。
「下がれ、と言ったはずだが。声が小さくて聞こえなかったか?」男たちは大慌てでここから出て走り去った。
「……何の用だよ、キャロル」俺は起き上がって、可能な限り険悪で非友好的になるように言った。そんな俺のほおを、ためらうようにそっと暖かい肌触りの悪い物が触れる。手袋をしたキャロルの手だった。
「意外と元気そうね。よかった。さ、行こう」その親身な態度に心底驚いた。想像していたものとは違い、思いがけなく優しく温かい言葉に俺は痛みも忘れてキャロルを見る。暗くてどんな顔をしているのかは分からなかった。
「早く」「早くって、どこへ行くんだ? えっと、そうじゃなくて、何でそう態度が変わっているんだ?」
返事の代わりにキャロルは俺の手を取って何かを握らせた。ひんやりとした感触と手ですっぽり包める大きさから女の化粧瓶のようなものだと思うけど、なんなのか分からない。
「解毒剤」「解毒剤? なんの? あ、ひょっとして、ポートライト卿の!?」
俺がそれ以上の大声を張り上げる前に、キャロルが俺の口を手で押さえた。
「しっ、声が大きい。上の目を盗んでこれを取ってくるのに、思ったより遅くなった。悪いね。急いで地上に出ないと」と、言う事は。俺の心の中にじわじわと喜びが沸きあがった。
「やっぱり協力してくれるのか?」「まぁね。戦はなんとしてでも止めないと」
なぜか俺はそんなキャロルの言葉に、陰がかかった気がした。気のせいかなと首をかしげている俺にポリエステルの感覚の袋を渡される。
「はい、アキトの荷物。早くここから出よう」「もちろん! 明かりをつけてもいいか?」
もう暗いのはこりた。今はろうそくの明かりでも、豆電球でもいい。明かりがほしい。
「駄目、目立つ。大丈夫、あたしが道案内するから安心してって」キャロルは俺の手をつかむと、早足で歩き始めた。俺もそれに引きずられるようにして行く。そうだな、ここから出よう。もう一刻一秒もこんな所にいたくない。早足は競歩となり、すぐに駆け足となった。相変わらず真っ暗でともすると立ち止まりそうになったけど、キャロルの自信に満ちた手が俺にそうするのを許さなかった。
この大逆転で俺はすっかり満足して、希望に満ち溢れ、何もかもが上手くいくと信じきっていた。本当の事は何1つ分からずに、分かろうともせずに。
俺が外に出たとき、大げさに感動した。今までこんなに外へ出て嬉しかったことはなかった。もう夜明けらしく藍色の空が明るい。どこからか分からないけど、空の果てが青白い線を描いている。びっくりするほど多い星々はまだ輝いていて、天からこぼれ落ちそうだった。俺は思わず見とれた。
「やったぞ、キャロル! これで地下ともおさらばだ! もうあんな所2度と行くもんか」俺は有頂天になってキャロルの手を握った。キャロルもまた穏やかで静かな表情をしている。俺は浮かれすぎていて、何か変だなとは少しも気付かなかった。
「アキト、何でもう何もかも終わったように言っているの。無駄口を叩いていないで、早くこれを届けよう」「ああ」
「だけど、もし地下道の一族から追っ手が来た時相手を惑わせるように2手に分かれよう。あたしと、アキトと。それでこの薬はアキト、貴方が持て」
「え、どうして」
キャロルの提案にも驚いたが、もっと分からないのは何で俺かということだった。どう考えてもキャロルの方が強いし、俺が地下道の一族に出会ったら致命的だが、キャロルが会ったんだったらどうにでもなる。それこそさっきみたいに口舌3寸で丸め込むこともさえできる。
「だからよ。なら誰もアキトが持っているなんて考えないでしょう。あたしたちは人間の顔なんていちいち覚えられないんだからアキトだなんて分からないし、地下道の一族の裏を突けるわよ」キャロルはあっさり言った。でも俺は納得をしなかった。
「そんなことはないだろう。万が一そう考えた奴がいたらお終いだし、そんな危険な事はしないほうがいいよ。2人に分かれるよりは一緒にいた方がいいって」キャロルは目を大きく開けて、じっと俺を見ていた。
「それに、人間の顔を覚えられないって、そんな訳はないって。全員ねずみの顔という訳じゃなくって、キャロルみたいに人間の顔の奴もいるんだから、覚えられないわけがないよ。自分たちの仲間の顔を覚えられない奴がいたら困るだろう」なぜかキャロルは沈黙していた。俺は気にしないで続ける。
「あれ、そんなこと、キャロルは同族なんだから当たり前に知っているよな? じゃあ、何でそんなこと言ったんだ?」「……あは、そうだったね、思い出しちゃった」
キャロルはあっけらかんと言って、俺の肩を叩いた。
「じゃあこう言い直すよ。あたしが囮になって追っ手を殺すから、アキトは先に館へ行け」意味を理解するのに、少し時間が必要だった。
「おい、変な事言うなよ。駄目だ」やっと出した声は乾いていた。やれやれとかぶりを振ってキャロルは続ける。
「アキトならそう言うと思ったわよ。だから言うけど、あたしは別に悲劇的な状況に酔いつぶれている訳じゃない。どうせこのまま2人で言っても卿の館へ着いてもすんなり卿が薬を使うとは思えない。絶対に疑われたり、調査されたりがある。その時間差の隙に解毒剤を奪われたり卿が殺されたりしたら元も子もない。誰かが、時間を稼ぐ必要がある。そして地下道の一族のあたしより、人間のアキトの方がこの使者には適している。そういうこと、行くのはアキトで、残るのはあたしがいい」どうせ時間稼ぎが出来るのも、戦えるのもあたしだからね、とキャロルは言った。
「だけど」「それだけじゃ納得しないだろうからもっと言うけど、あたしは卿を死なせて、人間と地下道の一族との闘いを起きるのを許すわけにはいかない。もし戦いになったら絶対に地下道の一族が負ける。絶対に、だ。戦力も人数も武装も違いすぎる。そして負けたらこの地から地下道の一族の居場所はなくなる。この国だけじゃない、他国でも、そして全世界で地下道の一族はまた迫害されて、追いつめられる。あたしはそれを、次の影の長候補として全力で食い止めなくてはならない。そのためなら何でも利用するし、自分の命も惜しむ気はない、裏切り者と呼ばれるだろうけど、それも構わない。止めなくてはならないんだ。
もういい、アキト? アキトや、卿のためではない、あたしと地下道の一族のためにここにあたしはいる。アキトのことだ、あたしがかわいそうとか、そんなつまらない理由でいやだって言っているんだろうけど、それはあたしにとっては大迷惑なだけだ。分かったなら、早く行って」
俺は動けなかった。目の前の人物の決意、思い、覚悟が俺の足と口を封じた。
「……それで、いいのか?」俺の声はどこか遠くで聞こえるようだった。本当に言いたかったことの代わりに俺は言う。
「それじゃあ、何のために生きているんだ?」キャロルは不思議そうに眉をはね上げた。俺の顔を初めて見たように見る。その顔には悲壮さも自己犠牲の精神に溢れている訳でもなかった。当たり前の事を当たり前にやっている、そういう日常さしかなかった。
「あたしは今まで一族のために生きるように生きてきた。一族のために生き、一族のために死ぬ。それ以外の生き方なんてあたしは知らないし想像もできない、したいとも思わない。それだけ。さ、アキト、早く行け」
俺は駆け出した。
熱に浮かされたように俺は走った。今まで数多く走ったが、こんなに息もできないほど走ったことはない。眼の奥が熱く痛んだが、涙は出ない。
悔しく、悲しかった。そして俺はどうしようもないほど怒っていた。何でこんなに腹立たしいのか分からない。そんな自分を持て余し、すさまじい感情のうねりに流されながら俺は走っていた。
あっけらかんと笑うキャロルの顔が忘れられなかった。本当は一緒に行こうと、さもなきゃ役に立つかはともかく一緒に戦おうと言いたかった。でも駄目だ。ああ言われた以上、俺はキャロルを置いて1人で行かなくちゃならなかった。混乱と疲労の中、俺はどうしても分からなかった。どうしてそんなに考えられるんだろう、何でああ平然と行動できるんだろう、死ぬかもしれないのに。
大きな館へ一直線に走ってくる俺を見て、見張りらしい男2人が俺に止まるように言い、急いで剣を構える。
「どけぇ! お前たちの主人の解毒剤を持ってきたんだ!」大声を出したかったが、実際にはかすれて消えかかっているような声しか出なかった。それでも2人とも驚いて身を引き、何者、と誰何する。俺はそれには答えず、門を潜った。
館の大きな庭を走り、玄関へ体当たりする。女の人たちが悲鳴を上げて俺の目の前から消え、その子供が例の居合わせた奴だ! と、どこかで誰かが言ったが、俺は全部無視をした。
「解毒剤を持ってきたぞ! ここの主人はどこにいる!」再びそう言った俺に答えたのは、杖を持った男が右手を上げて何かを言う事だった。突然俺は信じられないほどの眠気を感じて、思わずその場で床に崩れ落ちた。誰かが駆け寄って俺の手の中から瓶を抜き取ろうとする。
それは駄目だ、これは取られるわけにはいかないと思い、それを最後に俺の意識は消え去った。