俺が帰り支度をしていると、関口がなれなれしく肩を叩いてきた。
「最近機嫌がいいな」「そうか?」
自覚はなかったが、言われてみるとそうかもしれない。その原因もすぐに俺は分かった。
「分かってるぜ、その理由」俺は思わずかばんを落としそうになった。
「まさか」「いや、友だちだもんな、分かってるよ。中間テスト、どこが出るが知ってるんだろ。誰にも言わないから教えるよ」
そういや、そろそろゴールデンウイークで、それが開けたら中間だっけ。あわただしくてすっかり忘れていた。
「そんなんじゃないって」「じゃあなんだよ。教えろよ」
「やだね。内緒だ。じゃあな」
俺はなおもしつこそうな関口を振り切って帰路へ急いだ。
関口には永遠に分かるまい。何で俺が嬉しいか。あれから1週間、一回もカーリキリトに飛ばされずに、何もない平和な日々を俺は過ごしているからだった。声もあれっきり聞こえないし、やっぱりあれはただの夢だったかもしれないと思ってくる。日常というのがこれほどありがたいものだとは、前は気づかなかった。
「ずっとこういう日々が続くといいなあ。イーザーには悪いが、俺そもそもそういうのには向いてないんだよ」なんとも幸福な気分で俺は家に帰り着いた。
(悪いがお前の意思はどうでもいい)「わっ!」
誰もいない家で、俺は驚いて大声を上げた。
「しばらくいなかったのに、いまさら来たんだ?」(毎日毎日カーリキリトに行ったのではお前が持たないからだ)
「俺のため?」
意外な答えを声はした。てっきり完全に俺の人格無視していると思ったのに。
(当たり前だろう。私の目的はお前を衰弱死させることではない)「じゃあ、ひょっとしていきなり授業中にトリップが来ないのも、俺のためか?」
前々から気になっていたことだった。2回中2回とも、学校から帰ってきた時だったのは偶然とは俺は思っていなかった。
(もちろん。それ以外の何だと思ったんだ? もういいか?)「あ、待ってくれ」
聞きたいことは山ほどあった。しかしそれらをさえぎって声は告げた。
(いいか、今回はお前にとって重要なことが起こる。気をつけろ、関われ。そのことはお前の生死を左右する、そしてそれ以上のことがある)それは何だと聞き返せないうちに俺は3回目のめまいを感じた。俺は壁に手をつき、すぐに体重が支えきれなくなって倒れこんだ。
そして俺はゆっくり目を開けた。粗末な木の宿のベットの上に倒れこんでいる。近くにはイーザーがいて、荷物の整理をしていた。また、カーリキリトに来たらしい。
短い夢だった……!
俺はしばらくベットの上で失望していたが、気を取り直してよっと立ち上がってかばんを開けた。やっぱり入っていた。マッチ、チョコレート、ペットボトル入りのお茶、ナイフに着替え。そのうち必要になるかもしれないと思って持ち歩いていた、こっちの世界のための備え。持ち運ぶのは重かったけど持ってててよかった。
「急に元気になったな」イーザーが自分の古びて硬そうなロープを調べながら行った。イーザーの前にはそれ以外に先に黒ずんだ布が巻かれた棒切れ、ナイフに石によく分からないものまで。袋はみんな革で出来ていて、擦り切れて、はげちょろになっていた。全部古典的なもので、相当使いこなしているみたいだ。
「そろそろ夕飯にするか?」もちろん俺は賛成する。例によって学校帰りだから腹ペコだった。
食事はパンとシチューだった。味は少し薄いことを除け向こうと変わりない。周りで食べているのは8割は人間だった。少なくとも俺は人間が大半なのをありがたく思った。……というより少しくらい半分動物人間や妖精が混ざっていても平気になった自分が少し、嫌だ。
少し高いステージのような場所では竪琴を持った男が歌い、客は食事をして酒を飲んで騒いでる。それを聞きながら俺はわき目も振らず全部平らげて、やっと人心地がつく。そして俺はイーザーがなんだか落ち着かないように周りを見ているのに気がついた。俺の視線を感じ取ったのかイーザーが顔を上げる。
「何か変な気がしないか?」「そうか?」
「ああ、なんだか、その、雰囲気が」
「俺にとってはここにいること自体が異常だ」
「アキトに気づけという方が間違ってたか」
イーザーは肩をすくめた。なんだかその言い方、腹が立つんだけど。
夕食を食べ終えて自分たちの部屋に戻ろうとした時、部屋の前に紙が落ちているのを見つけた。何だろう。イーザーも気がついたらしく先に駆け寄って拾う。
「なんだそれ?」「手紙と……ねずみ」
はい? イーザーの手の中を俺はまじまじと見た。紙切れと灰色のふかふかした小さな塊と青い石。
?
「とにかく、部屋に戻ろう」俺は異議はない。両手がふさがったイーザーの代わりに俺は重い木のドアを開ける。部屋に入ってイーザーは毛玉をそっとベットの上に置いた。俺はそれを後からのぞき見る。本当にねずみだ。灰色の毛並みの、尻尾の長い。怪我でもしているのかぐったりとして動かない。部屋に備えつけている机にイーザーは手紙と青い石を置いて手紙を読んだ。
「……」「なんて書いてある?」
「はい」
イーザーは俺に手紙を渡した。一応見てみる。
「イーザー、俺は読めないんだって。この世界の字を」「ああ、悪い、そうだったな」
俺の手からイーザーは手紙を取って、読み上げた。
「突然のお手紙をお許しください。私はこのポートライトの街に住むものですが、ある者に呪いをかけられています。貴方は勇気ある剣士だと聞いてお願いがあります。どうか呪いをかけている呪術師を止めてください。呪術師の居所は我が魔術で分かっています。
報酬として使い魔に宝石を持たせました。お願いです。助けてください」
俺はしばらく言葉が出なかった。イーザーが机の上の石、じゃない、宝石を持って明かり―何もない所が蛍光灯のように光っている。イーザーいわく、これは初歩の明かりの魔法の道具で大抵の所にはあるらしい―にかざした。しばらくあちこち角度を変えて、やっと言う。
「本物、のような気がする」「……嘘だろ? じゃあ、この手紙を出した人は本当に呪いをかけられていて俺たちに助けを求めているのか?」
「それは分からないけど、いたずらじゃあなさそうだな」
う〜んとイーザーは考えこんだ。
「どうする気だ?」「今考えている」
突き放したような答えが返ってきた。どうする気だろう。俺なら絶対にこんな手紙いたずらだと思って捨てる。気味が悪いし、第一何とかしようと思ったってどうすればいいのか分からないもんな。
「イーザー、仮にこのことをどうこうするとしても、何にもできないんじゃないか? だって呪いのこととか知らないだろう?」俺はふと、感じたことをそのまま口にした。すると、
「いや、できる」自信たっぷりにイーザーが答えた。小さなねずみが少し顔を上げてきぃと弱々しく鳴く。
「あれ、言ってなかったか? 俺、魔法もある程度はできるんだ」言ってなかった。絶対に。
「ま、ま、魔法って、イーザー魔法使いだったのか!?」「剣士にして魔道士だ」
「すっげぇ…… どんな魔法が使えるんだ? たとえばファイアボールとか、そんな奴か?」
「いいや、そんな派手じゃない。回復系と他を少し。悪い、詳しくは話せないんだ。ま、とにかくそういう訳で俺には何とかできる。よし、受けてみるか」
「受けるの?」
正直俺は驚いて、そしてイーザーを馬鹿にした。いかにも胡散臭いのに。
「宝石も本物だし、まだ生活するのに金はゆとりはあるから、少し調べてみるのも悪くはない。せっかく名指しできたんだし、やってみるよ」それに、と付け加えた。
「冒険らしい冒険はこういう風に始まるんだ。機会を逃すのはもったいない」そして次の日が来た。俺は起きて窓を開けて日の光を部屋に入れる。空はやっと明るくなったところだった。相当早いらしい。俺は自分のかばんから着替えを取り出した。いくら何でも制服でいつまでもうろうろする気はない。
反対側のベットで寝ているイーザーを起こさないように俺はこっそり動いていたつもりだったが、すぐにイーザーも起きた。目はとろんとして、いつもは後で束ねている髪が下りている。そのせいでまるで別人みたいだった。
「早いな」イーザーはあくびをしながら布団から出た。
「悪い、寝てろよ」「いい、もう起きる…… 昨日のことも早めに調べたいし」
髪をぐしぐし手で撫でつけながらイーザーはついでのように言った。俺のベッドの隅に置いてある手紙とその隣でぴくりとも動かないねずみを見ながら。イーザーが不安そうな顔になる。
「その使い魔、生きているよな?」「さぁ」
俺は試しにそのねずみをひっくり返してみた。ねずみは小さく鳴いて下にしいた布の上に戻ろうとする。まるっきり病気だ。
「あんまり使い魔のことは詳しくはないが、この様子だと主も相当弱っているだろう。急いだ方がいいな」俺の肩越しにその光景を見ながらイーザーはマントを身に着けて剣を取った。
「今すぐその調査に行くのか?」「いや、朝飯を食べてからにする」
その単語を聞いたとたんに俺も空腹のあまり腹が痛くなった。
情報屋の食堂は時間が早すぎて開いていなかったから、外の屋台でコンソメスープのようなものとおかゆを食べた。スープを平らげておかゆをすすりながらイーザーは手紙をつまんで軽く動かして言う。
「とりあえず手紙に書いてあった地図の場所を見てみよう。偵察が終わってからこの町で最近見なくなった魔道士について聞いてみて、それから…… どっちにしろ、話が本当だったら使い魔が何か示してくれるだろうな」「もし嘘だったら?」
食べ終わったイーザーと俺は歩きながら話を進めた。
「使い魔でないとしたら、ただのねずみにしては知恵がありそうだから、魔術で操っているか、金で雇われた地下道の一族が演じているか」イーザーは布で包んでいる、ぐったりしたねずみの尻尾をつまんで持ち上げた。イーザーのなすがままに揺れる灰色の塊はまるで物のようだった。
「そっちの方は違うな。本当に弱っているように見える」「その地下道の一族ってなんだ?」
「獣人の一種で、ねずみと人間が混ざった姿をしている。ねずみに姿を変えたりすることができるらしい。獣人の中では数が多いし、よく会う種だ。……そうか」
今気づいたようにイーザーは周りを見渡した。
「どうした」「昨日から変だ変だと思っていたんだけど、やっと気がついた。この街ではまだ1人も地下道の一族を見ていないんだ。どんな街にも普通はいるのに」
「大した事じゃないと思うな、それ」
俺は心からそう思った。ねずみ人間がたまたまいないからって、そんなに気にすることではない。
「……まぁな」イーザーがうなずいた時、俺たちは情報屋の前に着いた。あれ?
「イーザー、何で戻っているんだ?」「何でって」
「今からそこに書いている場所に行くつもりだろう?」
「そうだけど、アキトまで行くことはないだろう?」
数秒してやっと事が飲みこめた。
「イーザー、俺を置いていく気だったのか?」「当然だろう?」
イーザーは返って困惑したような口調だった。「誰が素人を連れて行くんだよ」
確かにそれも一理ある。正論で反論の余地がない気がする。だがな、イーザー。
「イーザー、でもまだ危険はないんだろ。どうせ俺もそういうことは知っておいた方がいいんだから、勉強のために連れて行ってくれよ」情けない話だが、俺はイーザーと離れるのが怖かった。子供じゃあるまいしと自分でも思うが、ここで頼れるのは奴1人だし、俺は下手に動けば情報屋に身売りされる身だというのを忘れてはいない。
そんな俺の心境を知ってか知らずか、イーザーはん〜と考え込んだ。
「遊びに行くわけではないぞ」「分かっているよ」
しばらく考えて、やっとイーザーは答えた。
「ま、いいか。今の段階なら」その答えに俺はほっとした。もちろんイーザーには悟られないようにだが。
30分くらい歩いて、俺たちは地図に描いたある場所まで着いた。そこは古い家だった。誰も住んでいないらしく、せっかくの庭は森になっているし、家だってホラーに出てくるお化け屋敷のように荒れ果て、今にも幽霊が出てくる気がする。今が朝じゃなくて夜だったら1人ではこんな所に入らない。
「ここ?」「ああ」
イーザーは家を見上げた。
「入ってみるか」訂正する。太陽がさんさん照っている朝でも入りたくない。でもこうも平然と入ると言ったイーザーに怖いから止めようと嫌がるのは絶対にごめんだった。「そうだな」と平気そうな顔をして、大きすぎる棒を入り口に立て掛けて逆に先に入ろうとする。
「おいおい」イーザーはそんな俺の方をつかんで止めた。
「何かあるかもしれないだろ。勝手に入るな。俺が先に行く」イーザーは俺とは違って慎重に足元を確認しながら入っていった。予想通り中は暗い。俺は懐中電灯を出して先頭のイーザーに渡した。
「なんだこれは?」「懐中電灯。俺のところから持ち出してきた」
「この前のよりこっちの方が明るくていいな。煤も出ないし、軽くて持ちやすいし熱くもない」
イーザーはしきりに感心した。へへっ、いい気分。
イーザーは持っている剣で先の床をつつきながら進んだ。中は埃っぽくて鼻がむずむずする。先頭がイーザーなので俺は前がよく見えなく、怖かった。日本じゃめったにお目にかかれないほどの純洋風館というのも恐怖を増大させる。
付いて来なければよかった。だんだん後悔してきたが、それでもイーザーにくっついて廊下を歩き、各部屋を覗きこんだ。全部特に何もないけど、それでもイーザーは真面目にやっている。
何の前ぶりもなく、イーザーは立ち止まった。
「どうした?」「今、ねずみが動いた気がした。これを持ってくれ」
イーザーは俺に懐中電灯を渡して、かばんから灰色ねずみを取り出した。弱々しい声で何か訴えている。
「何言ってるか、分かるのか?」「いや、全然。俺に分かるわけないだろ」
イーザーはそっとねずみを床に降ろした。小さな塊は今すぐ死にそうなくらい弱っていたけど、それでも何とか動いた。壁の方へ向かおうとする。
「えさでも見つけたんじゃないか?」ただの壁に向かって必死に行こうとするねずみを見て俺は思わずつまらないことを言ってしまった。イーザーが軽蔑したようにこっちを見て、壁にそっと手を触れた。すると壁だと思っていたところはドアのように内に開いた。
「隠し扉だ」「へぇ、これが」
よくテレビや漫画なんかであるけど、実物はなかなか派手で面白かった。イーザーは懐中電灯でその奥を照らした。長い階段が続いていて、先はよく見えない。
「行ってみるか」俺はねずみを拾い上げて歩き始めたイーザーを追った。小さな灰色はハンカチの上でもそもそ動く。頼むから俺の手の中で死ぬなよ。そうねずみに心の中で言って前を向く。
その時突然、固い物同士が力一杯ぶつかり合う音がした。懐中電灯がイーザーの手から転げ落ちる。
「下がれ!」イーザーが聞いたこともない鋭い声を俺に叩きつけた。何がなんだか分からないまま俺は固まる。
しばらくして、やっと俺は理解した。戦っている……! イーザーが、他の誰かと。がつがつ剣がぶつかり合う音がする。助けなければ、加勢しなくてはと思ったが、暗いのとあまりにも突然なのと、そして恐怖とで俺は一歩も動けずすくみあがった。
ちっと舌打ちし、イーザ−は何かつぶやいた。俺には全く意味不明の言葉として耳に入る。すると程なくして若い男の悲鳴が前から上がった。そして足音。イーザーは懐中電灯を拾って走り出した。その手にある抜き身の剣はいかにも重そうで、俺はそれを見てぞっとする。でも、というか当然というか、俺もイーザーを追いかけた。でも、いったい、何が起こってるんだ?
イーザーの懐中電灯の向こうで何かが光った。誰かの叫び声―動物じみていたが間違いなく人間の―がする。イーザーはすばやく懐中電灯を俺の方に差し出す。あまりにもさり気なかったから俺も思わず受け取った。
それからのことは全て時間が間延びしたかのように感じた。俺が明かりを持っていたからなおさらよく見えた。
イーザーが剣を両手で持ち右上から一息に振り下ろした。見ているこっちがうめき声を上げてしまうほど力強い一撃だった。鈍い音がして、何かが落ちたような音がそれに続いた。すかさずイーザーは床に転がっている何かを蹴り飛ばす。そこまで来てやっと俺は、イーザーが剣を持った男の武器を弾き飛ばしたことを知った。
そこで俺はまた背後に物音を聞いた。何か思うよりも先に振り向く。もう1人、剣を持って硬そうな皮の服を身に着けた男がいた。俺はそれを見たとたん凍りついたように固まる。衝撃が右腕に伝わり、俺は壁に寄りかかった。切られたなと俺は変に冷静に思い、その左側をイーザーが駆け抜けていった。鈍く光る鉄の剣で男の剣を喰らいつくように受け止める。
「逃げろ!」イーザーが叫ぶ。そこで俺はやっと、自分が切られてもなく、切り傷1つないことに気がついた。とっさにイーザーが左手で俺を押しのけたらしい。正しい現状を理解した所で……俺は今まで間延びしていた、パニックという感情が爆発した。
た、た、戦いだ! しかもよりにもよってその戦闘のど真ん中にいる。
どうしよう。俺にどうしろと。戦うか、逃げるか。
常識的に考えたら逃げた方が絶対にいい。戦うのは絶対にごめんだ。剣持っている奴に全くの素手でどう挑めというんだ。イーザーだってそう思ってああ言ったんだろう。でも、その肝心の出口でイーザーたちがチャンバラしている場合、どうすればいいんだ! まさかその横を遠慮しながら通るわけにもいかない。
と、考えるもんだ。俺は閃いた。
確かさっきイーザーは剣で剣を叩き落していたよな。あれを拾えば戦力にはこれっぽっちもならないけど、脅しにはなる。
俺は今まで進んでいた方向を照らした。イーザーに剣をはじかれた男はうずくまってうめいている。そして奥に銀に光る塊が転がっていた。あれだ。俺は走って剣の所まで行き拾い上げた。片手にねずみと懐中電灯を持っていたから剣はもう片手で持ち上げないといけなかった。
……重い。剣は片手では持ち上げて引きずるだけが精一杯だった。振り回して威嚇したり、ましてや戦うなんてとてもできそうにない。
後ろで何かが動いたような不吉な気配がした。はっとして懐中電灯をそっちの方へ向ける。
予想通り、さっきイーザーが剣をはじいた男が起き上がっていて、こっちへ世にも恐ろしい表情で向かってきた。
後で冷静に考えたら、今度は俺が武器有りで向こうはなし。今度はこっちが有利なんだからあんなことをする必要はなかった。しかし、あまりの気迫に俺はくるっと反対側、つまり奥へ走り出した。懐中電灯1つで、しかも両手がふさがっている状態でというのは心細かったが、止まるよりはましだった。
ほんの5秒かそこらで俺は止まった全身から血の気が引く。小さな部屋があるだけの、そこは完全な行き止まりだった。飛び込んでみてやっとそれに気付いた俺は頭が真っ白になった。もうどうしていいのか分からない。
死に物狂いで部屋を見渡す。ドア1つない。ただ部屋の中央に俺の腰まである台があって、その上にいかにも高価そうな丸い水晶玉みたいなのが転がっていた。
「入るな!」悲鳴のような声が上がって、俺を追ってきた男が部屋の前で立ちすくんだ。それを見て、一瞬にしていい考えが思い浮かぶ。
どうもこの水晶玉は大切なものらしい。俺は剣を捨てて、懐中電灯を落とし、ねずみを台の隅に置いてその玉をつかみ上げた。
これで「これを壊されたくなければ……」と脅してみるのはどうだろう。向こうは驚いてそれだけは止めろと来る。で、喧々囂々とやっているうちにイーザーが来て、この男を背後から殴るか、上手くいけば交渉成立して無血で事が進む。すぐに思い付いたにしてはなかなかだった。なんだか人質をとった悪人みたいだけど、どうせ向こうから襲ってきたんだ、構うものか。
ところが、そうしようと水晶玉を持ち上げた途端にとんでもない事が、俺の隣で起こった。
台の隅に置いたねずみが全身が震えるほど大きく痙攣した。その姿が見る見るぶれて、輪郭がぼやけて、大きくなる。俺の目がいきなりおかしくなった訳でも、暗くて見間違えた訳でもない。俺は現状も手の中の水晶も忘れてそれを見て、男はひぃと怯えてへたり込んだ。
時間にしてほんの1,2秒で再び輪郭は重なった。灰色の小さなねずみがいたところには灰色の髪の女の子が台に浅く座っていた。
「ありがとう!」その女の子はいきなり俺に抱きついた。「!」と俺は赤くなる。何で赤くなったかというと、その女の子は上着が、胸元が大きく開いている。よくモデルとかであるけど、ここまで近くだと……!
俺がどぎまぎしていると、女の子は今にもくっつきあいそうなほどに顔を近づけた。顔はいかにも面白がっているかのように笑っている。
「誰だよ、お前」慌てて顔をその女の子から遠ざけて、ぶっきらぼうに俺は言った。今の俺が抱えている疑問は山のようにあるけれども、口には出なかった。
「あたしの名前はキャロル。地下道の一族」それだけ言うと、キャロルという女の子はとっとと離れた。俺はほっとしたような、残念なような。そこまで考えて俺は気付いた。女の子は一見普通のファンタジ−世界の人間に見えたけど、その灰色の髪から見えている耳は、人間のものではなかった。あんまり動物の耳に詳しいわけではないけど、あれはりすとか、その系統だと思う。白いズボンの後ろから鞭のような長いものが伸びているが、あれは尻尾か?
キャロルは今のやり取りなんかすっかり忘れたように男の方へ寄って、その前髪をつかみ上げて後ろの壁に後頭部を叩きつけた。何の遠慮もしていない一撃で、俺は立ちすくみ男はうめいた。キャロルはつかんでいる手を壁の方へ向けて、むきだしになった喉に腰にくくりつけてあったナイフを突きつけた。
「さて、あんたをここにやったのは誰?」「もう、とっくに知っているだろう」
弱々しい、それでも何とか虚勢を張った声だった。
「あたしは直接聞きたいの」返事はない。キャロルはあら、と大げさに驚いた声を出した。
「あんなオーク以下の野郎にまだ忠誠を誓っているの?話したくないならそれでもいいよ。あの黒マント君が」キャロルは今来た通路を指し示した。「相手をしてくれるのがもう1人いるからね。そっちに聞くか。あんたいらない」紙くずを捨てるような口調で喉に押し付けたナイフに力を込めた。赤い線が喉にうっすらできる。自体の動きが早すぎて飲まれていた俺はやっとそこで目が醒めた。
「おい、止めろよ、そんなこと」「止めてくれ、ポートライト様だ、卿の命でここを見張っていたんだ!」
俺の声は男の悲鳴じみた声にかき消された。キャロルは男から手を離して立ち上がる。
「どうせ、そんなことだろうとは思った」やれやれと言い捨てて、キャロルは脱兎のごとく通路へ走り去った。俺が待てと言う暇もなく。
俺は呆然と、水晶玉を手に立っていた。
「おい、アキト!」
ふと気付くと、イーザーが目の前にいた。片手に血の滴った剣を持っている。剣を見て、俺はぞっとした。胸がむかむかしてくる。
「あいつを殺したのか?」「まさか」
イーザーは顔をしかめた。
「少し傷付けただけだよ。3日寝ていれば直るくらい浅くだ。それより何が起きたんだ? 今、すごい速さで走っていった女はなんだ?」「あれは死にかけていたねずみ」
「?」
「この、上にあるこれを取った途端に、キャロルは変身して、どっかへ行った」
「? 何、何、何だ? 何がどうなっているんだ? そのキャロルって、今の子か?」
「うん、地下道の一族のキャロルだとさ」
「地下道の一族? ワーラットか」
両手がふさがっていなければ、手を鳴らしそうな顔になって、イーザーは考え込んだ。
「どうなっているのか、分かるか?」「断片的にしか分からない。少なくとも魔法使いだの使い魔だっては大嘘だってことは分かったけど」
イーザーはちらりと座り込んでいる男を見た。
「細かいことは聞いてみるか」男の目線に合わせてイーザーは座り、事情を教えてほしいんだけど、と穏やかに声をかけた。さっきキャロルがしたようにしないと話さないか、と俺は思ったが、男はぼんやり、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
たったったったっ。俺とイーザーは息を荒げて走っていた。周りの人間が何事かと俺たちを振り返るけど、構ってなんていられない。
―ポートライト卿は地下道の一族を嫌悪している。それだけでは言い表せない。憎悪している。昔、ご子息を地下道の一族の強盗に襲われて、亡くされたから……
―卿は何年もかけて準備した。街の中央にある廃墟に魔法の結晶体であるオーブをすえつけ、地下道の一族全体に復讐を果たそうとした。
大通りまで出て、そこからまっすぐに走る。俺はもう半分へたり始めていたし、速度も落ちてきた。それでも走るのを止めない。
―恐ろしい、呪いの復讐を
―疫病だ。致命的な疫病が発生する。疫病はすぐに地下道の一族に全体に蔓延する。一ヶ月。それだけあれば、地下道の一族は滅びる。
―あの女は地下道の一族だ。誰が糸を引いているのか分かってしまった。呪いは解けた。これから奴らは報復をする。お終いなのは、人間だ。
―このことを卿に知らせないと。卿が狙われる。お守りしないと……
「何てことしてくれるんだ!」思い出したのか、イーザーが人前だというのに罵り声を上げた。周りの視線が集まり、俺は恥ずかしくなった。イーザーは声の調子を落として、それでも不機嫌極まりなしと顔をしかめている。
「子供でも分かるような馬鹿な真似しやがって。国に知られたら、いや、外に漏れたらどうなると思っているんだ?」「どうなるんだ?」
自分が間抜けに見えてきたけど、分からないんだ、仕方がない。
「決まっているだろ、地下道の一族はこの国に、フォロー王国に反旗を翻し、弱体化した国は隣国によって攻められる! 下手したら戦争だ、そうでなくてもこの国は異人種の比率が他国より多い。こんなことがばれてみろ、国はがたがただ。また種族が違うからって争い合う、愚かな時代が来るんだ!」ひっくと俺はおかしな声を上げた。今度こそ周辺の目が1つ残らずイーザーに集まる。しかし激しているイーザーはそんな事を気にしてもいない。大股で走りながら遠慮なく怒鳴り続ける。
分かっているって、イーザー。だから、この事を内緒にするため、いやいやでも卿という奴に伝えなくてはいけない。そのために今、わざわざ走っているのだ。伝えてから復讐の第一歩として殺されないように守って、それからこれからどうすればいいのかを話す。何でそんな奴守らなくてはいけないんだと思うが、イーザーは即座に承認し、そして走って行った。俺も追わないわけにはいくまい。
大通りの行き止まりに立派な洋館が見えてきた。なおもイーザーは毒づいていたが突然立ち止まった。俺は危うく背中にぶつかりかけたが、イーザーは気付くことさえなく、ぼうっと直立不動している。
「気のせいか? でもっ」そういってイーザーは再び走り始める。何だ、何があったんだ?
洋館に着いたのは謎の停止から30秒後だった。正面は反対側にあるらしく、ここには左右どっちを見ても壁しかない。すかさずイーザーは左へ走って角を曲がる。俺も仕方がなく走った。
左も外れだったみたいだ。小さな勝手口の他には何もない。人気もなく、せいぜいローブを着た男が3人、せかせかとこっちへ歩いてくるだけだ。3人は走ってきた俺たちを見て多少はぎょっとしたが、そのまま通り過ぎようとして……
「お前たちは地下道の一族か!?」イーザーは晴天の霹靂、開口一番に男たちに言った。多分、当てずっぽうであり、根拠は何もなかったんだろう。でも当然ながら、男たちにそんな事分かるはずがなかった。
かんっ。男の1人が今の今までそんな素振り1つ見せずナイフでイーザーに切りかかった。切られた、と思ったがイーザーも素人ではない。左腕に付けている小型の盾(バックラーというそうだ)で受け止めた。ほっとしたのもつかの間、2人目がさっと脇から飛び出す。イーザーは下がろうとしたが間に合わず、胸部が切りつけられた。
「毒刃か!」俺の予想ではイーザーは剣を抜いて切りかかるはずだった。予想は外れた。代わりにイーザーは右手で初めの男のローブを引きちぎった。男はうめき声を上げ顔を片手で隠そうとしたが、その耳や顔つきまでは隠しきれない。さっきのキャロルと同じような、人間ではないものの耳だ。
「やっぱり! 貴様ら、何をする気だ!」悲鳴が突如場を切り裂いた。館の中から女の人の悲鳴が聞こえた。途端に男たちは脱兎のごとく俺らの脇を走り抜けた。
「待てっ!」イーザ−は追いかけようとする。俺も付いて行こうとしたが、
「アキトは館へ!」イーザーが勝手口を指した。俺は戸惑ったが、そうしている間に男とイーザーは見えなくなった。仕方なく俺は勝手口へ走る。
「どうしましたかー?」鍵はかかってなかった。我ながらのんきなことを言って勝手口を覗き込む。誰も出ない。
俺は困った。悲鳴はもう聞こえないけど……
「し、失礼します」イーザーの行動力が伝染したのか、俺は大胆にも不法侵入してみた。庭を走って、悲鳴が聞こえて来た方向へ行こうとする。
俺の望みはすぐにかなった。その代わり、俺もうわぁっとか、その類の情けない悲鳴を上げるはめになった。
2人の兵士っぽい男と、立派で高そうな服の男が倒れていた。3人とも微動だにしないが、高そうな服の男の周囲には赤い液体がじわじわ流れて広がっていく。そして顔色はどす黒い。いくら俺でも刺されて血を流したら青くなるということぐらいは知識として知っている。これは明らかにおかしい。そして、すぐ近くにお手伝いさんらしい女の人が口を開けて、へたり込んでいた。俺も立っていられなくなり、座った。とても足に力が入らない。
「ご主人様!」3人目は俺よりまだましだった。立派な服の男に駆け寄り「誰か!」と人を呼ぶ。わっと、どこにこんなに人がいたのかと思うほど集まってきた。
「くせ者、くせ者だ!」「薬士を呼べ、きっと毒刃だ!」
「見ました、私! 地下道の一族です、奴らが刺したんです!」
大騒動の中で、少し冷静になった俺は考えた。このままここにいるのは、俺自身が危険ではないだろうか。外部者で、身よりもない、小汚い若者。もし声をかけられて、そしてあらぬ疑いをかけられたらと思うと、自然に俺はこそこそ裏口へ引き返した。
今の今まで腰を抜かしていたくせに、保身のためなら人間自分でも思った以上の力が出せるらしい。混乱しながらも俺は勝手口から転がり出るように外へ飛び出した。
さすがに息が切れた。何とか整えようと四苦八苦していると、
「アキト!」イーザーが走ってきた。1人で。
「悪い、逃げられた。向こうの方が土地感がある分敵わないな。アキト、どうだった?」「その、卿って人が刺されていた。何でも毒刃だって、さ」
「何だって!?」
「本当本当。で、やばくなる前に逃げてきた」
「そうか、よかった…… アキトにしてはいい判断じゃないか」
なんだよ、アキトにしてはって。
「でもこれって、大事にならないか?」いくら俺でもあっちで新聞は読んでいる。報復と復讐合戦はすぐに泥沼の戦争になることは知っていた。今まで1回も実感したことのない現実が目の前にありありと映し出されて、俺は寒気がした。
「あ、思い出した。イーザー、さっき切られたんじゃないか? 動いて平気か?」「皮鎧で止まった。心配しなくてもいい」
鬱そうに考え込みながらイーザーはぶっきらぼうに答えた。本当だ、イーザーの濃い茶色の胴着に、真新しい傷が出来ている。まるで釘か何かで引っかいた後みたいだった。とても切られたとは思えない。
「ともかく、1回情報屋へ戻ろう」俺はもちろん賛成だった。反対する理由も気力もなかった。