三つ首白鳥亭

−カーリキリト−

異世界(カーリキリト)の風景

一体、あの出来事はなんだったんだろう。授業中、俺は英単語をノートに書き写しながら、心の中はそればっかり考えていた。

あの出来事というのは、昨日家のドアを開けたとたんに始まった、ゲームの中の話のような奴の事だ。妖精のフィルやイーザーとであって、森をうろついて洞窟歩いて、最後には逃げた。

シャーペンを動かすのを止めて、俺はしみじみ思った。全部夢だったら話は早いんだが。

(まだそんな事言っているのか)

これだ。俺はため息をついた。

(あんなに散々夢ではないといっているのに、まだ分かってないのか?)
(分かってるよ。丸1日言われりゃ理解するって。受け入れたくないだけだ)

謎の声はまだ、俺につきまとっていた。声……というよりは透明人間のような者かもしれない。隣に何かいる気がして、まるで普通に友だちに話しかけられているみたいに聞こえてくる。でもやっぱり俺以外には聞こえないらしい。

(これって誰かにばれたら精神病院行きだよな)
(だろうな)
(お前のせいだろう!)

怒鳴ると、とたんに声は消えた。舌打ちして俺はまた忙しくシャーペンでスペルとの戦いを始めた。

学校から帰って家に入っても声は戻ってこなかった。かばんを片手に恐る恐るドアを開けて自部屋に入る。あれ以来ドアを開けるのが怖くなった。

「緊張しっぱなしだな、俺。このままじゃ身が持たない」

はぁ、と俺は椅子に全体重をかけて座った。

(そんながらか)
「わっ! また来た!」
(あと2、3日もすれば慣れる、仕舞いには居眠りしながら私と話す事になるだろうに)

ぐら。いきなり床が揺れた。いや、俺がそう見えるだけだ。

「ま、またかっ」
(そうだ。しかしこれもお前は慣れる。さぁ行け)

慣れてたまるかっ!

そう思ったのを最後に、俺の意識は途切れた。


鳥の鳴き声とがったごっとと何かの音が聞こえる。なんだか振動が直接身体に伝わってきた。

「おっ、起きたか、アキト」

ゆっくり顔を上げると、長い髪を後ろで束ねた男がこっちを見ていた。イーザーだ。

あぁ、また来ちまった……

「あれからアキト、ぐうすか寝ていて、運ぶのが大変だった」

そんな俺の気持ちも知らず、イーザーは機嫌よく言う。俺は今ここが舟の上でない事に気がついた。

「ここ、どこだ?」
「荷馬車の上」
「荷馬車って何だ?」

イーザーは絶句した。しばらくぽかんと口を開けてから考え込む。そして恐る恐る俺に聞いた。

「アキト、馬って……分かるよな?」
「そりゃ、そんくらい」
「馬車って知ってるか?」
「分かるって」
「よし、良かった。それに農作物とか荷物を運ぶための馬車が荷馬車。分かるか?」
「へぇ」

そう言われてみれば、どこかで習った気がする。

「分かった、うん」
「そうか。そうか、荷馬車も知らないのか。先が心配だ……」

イーザーが何かぶつぶつ言ってたが、俺は気にしないで後ろの草の山に寄りかかろうとし……うわっ。

「何でわらに突っ込んでるんだ?」
「よっかかろうとしたんだよ。これすごく揺れるから」

車酔いする奴なら絶対に5分で吐く。喋り声まで動いている気がした、それくらい揺れている。山中を走ってる車みたいだ。

「諦めろ。馬車は皆そんなものだ」

イーザーの答えに俺はがっくりして座った。そのまま呼びかけてみる。

(声、いるか? おい)

返事はない。おかしいと俺は思った。向こう―つまり現実の日本にいるときは呼びかけたらすぐに声は来たのに。

ちぇ、と俺は腕を組んだ。こんな時にいないなんて。イーザーに相談してみようかと思ったけど、止めた。こっちの世界でもそんな事言う奴は即病院送りだろう。俺はぼんやり風景を見ていた。さあっ……と風が吹き、髪が揺れてわらが何本か地面に落ちる。荷馬車は硬く踏みしめられた地面を通っていて、ここ以外は背丈の低い草で一面覆われている。ところどころに薄桃色の花が咲いていた。ちょっと日差しはきつかったけど、それを差し引いても十分気持ちのいい日だった。

俺はふと思う所があって荷物を調べた。

やっぱり。中身はちょっと前までの日本の時と同じだった。どうも俺だけじゃなく荷物まで一緒に来ているらしい。これはありがたかった。身一つでここに来るなんてぞっとする。すがれる物はあればあるほどいい。早速俺は荷の中から体育館履きを出して履いた。いつもの靴は今、俺の家の玄関にある。裸足で歩かずにすんでほっとする。

「イーザー、俺たちはどこに向かっているんだ?」
「後もう少しで大きな街に着く。ホートライトってとこだよ。古い街だから街の周りが壁で覆われているって。あそこからずいぶん離れたからもう追っ手はこない」

追っ手。その言葉に俺はどきっとした。

「俺、指名手配とか、そんな事されてないよな!?」

イーザーが腰を浮かしかけた俺を押しとどめた。

「しっ! 声が大きい。馬車の御者に聞かれて変な誤解されたらどうするんだ。大丈夫、追っ手は来ないって」

イーザーが自信たっぷりに言ったんで俺は思わず聞いた。

「何でそんなに自信を持って言えるんだ?」
「それは、アキトが未確認だからだ」

……?

「つまり、例えて言うと、宝石の原石らしいいしっころを拾って家に持ち帰ったらなくした。そんな時みたいなもんだ」
「それは、えっと、俺なら探すけど、見つからなかったらまあいいやって諦めるような感じ?」
「そう」

こくり、と偉そうにイーザーはうなずいた。

「アキトは次元移動者らしい。でもそれは本人の主張のみで、ろくな力も知識も技術ももっていそうにない。だったら情報屋も適当に探して終わりだろうな。フィルも何とかしてくれそうだし」
「フィル?」

少し心が痛んだ。今の俺からすれば、フィルには裏切られたという印象しかない。何でイーザーはそんな事言い出すんだろうと思っていたが、口にはしない。

「だから、ちょっと遠くまで来れば何とでもなる。それよりアキト、これからどうするんだ? 前にも言ったとおり、召喚師探しには協力するが」

過去に心を痛めてもどうしようもない。俺はフィルの事は忘れて未来を見た。

「もちろんそれをやるよ。召喚師なんていっぱいいるんだろう、どうせ」

魔法がごろごろしている世界だからそれくらい当然だよなと思っていたら、

「いや、全然」

予想を外れる、がっかりする答えが返ってきた。

「えっ、何で。ここはファンタジーの世界なんだろ!」
「アキトの言っている事はよく分からないけど、召喚術ってのは特殊な魔術なんだ。本人の才能と努力が必要な、危険で繊細な術らしい。それにやっと最近研究が始まったばかりでほとんど知られていないから術者は少ない。ましてや次元を自由に行き来できる術士なんて……でも、探せばきっと見つかるさ」

だんだん俺の顔がうつむいたのに気づいて、付け加えるようにイーザーは言った。もう遅い。そんな俺を気にしてイーザーはちょっと遠くを見るように目を細めた。

「アットなら」
「アットって誰だ?」
「友人。昔、冒険の旅で一緒にいた」
「そいつ、召喚士!?」

目の前が明るくなるような気がした。

「いや、そういう訳じゃない。アットは顔が広いから、知り合いがいるかなと思ったんだ。やっぱり無理だな」

イーザーは勝手に1人で自己完結した。それはそうと、と話を無理に変えるように俺に向き合う。

「アキトの装備を何とかしないとな。ナイフ1本持っていないなんてこの先困るし、自分の身くらい守れるようにならないと」

俺はさっきの話を蒸し返そうとしたが、ついついイーザーの話につられた。

「剣とか買うのか?」
「剣?」

イーザーは渋い顔で巾着袋みたいなのをどこかから取り出した。中を開けて覗きこむ。財布だろうか。

「駄目。とても足りない。ここに来るまでに結構使ったから、節約しないと」
「剣って高いのか」

剣を持っている勇ましい自分を想像していた俺はがっくりした。

「何か適当なものをみつくろうさ」

イーザーは進行方向に目を向けた。灰色の小山のようなものがゆっくり近づいてくる。

「そろそろ着く」

灰色の山はじつは壁だと気づくのには時間がかかった。近づくにつれて威圧感を感じて、手にじっくり汗をかく。だんだん俺たちとすれ違う人々が多くなってくる。その人々っていうのには人間ではない奴も含まれていた。遠目ではただの人に見えたのが実は半分猫、半分人間だったときは俺はまじまじとその人を見つめてしまった。

「あんまりじろじろ見るな。失礼だ」
「だって」

つんつんした髪や体は人間と同じだけど、腕は肩からだんだん毛が生えて、手は形こそ5本指だけどびっしり猫の毛があり、長い爪が出ている。ブーツも先が切られていて、蹴られると痛そうに爪があった。これがどうして見とれずにいられよう。

「アキトの世界はどうだか知らないが、ここは異種族なんていくらでもいる。今の月瞳族だってそう珍しい種族じゃない」
「今のが珍しくない、へぇ」

あいも変わらず後姿から目が離せない俺に、少し興味がある口調でイーザーは言った。

「そんなに珍しいのか?」
「珍しいよ。俺、ああいうの見たの初めて……」

前、フィルに連れられて街に来たときは疲れてたや悩んでたやらで、周りを見る余裕なんてちっともなかったからな。

と、そこまで言ったら、イーザーの顔が崩れた。

「見た事ないって、ひょっとしたらアキトの世界には獣人はいないのか?」
「いないも何も、人間しかいないって。猫人間もフェアリーもいない」

当然の事を言ったら、イーザーの口がかくんと開いた。

「に、人間しかいないって、それで世界が成り立っていけるのか? 国とか、文化とか!」

大声で俺に詰め寄った、怖い。

「俺からすれば、いるほうがやっていけない気がするけど、とりあえず成り立ってるよ」
「……何て事だ」

信じられないとぶつぶつ言いながらどがっと座った。よほど衝撃的だったらしい。

「信じられないって言ったって、仕方ないじゃないか。俺の所はそうなんだから」
「そうか。こっちも先入観を捨てたほうがいいな。出ないと身が持たない、それにしても信じられない」

そこまで言われると、むっとくるんだけど。でもほっとした事に、行きかう人々はほとんどが人間だった。あんなのがごろごろ、という訳じゃないらしい。

やがて壁の中の街の入口らしい所に着いた。イーザーはそこで荷馬車から降りた。俺も一緒に降りて、馬車の主に礼を言う。門には門番らしい武器を持っている男2人がいたけど、俺の見る限り全員を素通りで通していた。

「人が多いけど、はぐれるなよ」

イーザーが注意する。俺、16歳なんだけど。

1歩街に入ったとたんに、ふわっと風で髪が揺れた。どこからか花の香りがする。

うわっ、ファンタジーの街だ……

家々はレンガ造りが多かったけど、木造もあった。地面はレンガじゃなくて土をコンクリートみたいに硬く踏み固めている。目の前の通りは道の幅が広く、両辺にバザーみたいに色々な露店が出ていた。たくさんの人が―中には人間でない奴らも当然のように混じっていたのはやっぱり驚く―大声で売り買いしていて騒がしい。町は全体的にごみごみしていた。イーザーがすたすた歩くのに付いていきながら、俺は色々な事を見ては質問をぶつけた。

さまざまな商品を広げている所の前で座っている男が、キセルを持って何か呟いた。と、キセルの先が勝手に火がつく。

「魔法!」

俺は大声で叫んだ。すごい、本物だ。

するとイーザーがしぃっと口の前で人差し指を立てた。この動作もこの世界にはあるらしい。

「アキト、あれくらいは珍しくもなんともないんだ。大声出さないでくれ」
「へぇ」

俺はそのうち、もっと変なのも見つけた。ごみ収集所。

「こっちでもごみを集めるんだ」

正直俺はがっくりした。

「そうでないとごみは道端に捨てる事になる。そうしたら不衛生で病気がはやるし、ごみを掃除させるために豚を放すと豚と人がぶつかって危ない。ああすれ打清潔だし効率的だし、かけた陶器のようなものはもう一度陶器として作り出せて経済的だし、言う事なしだと思うが?」

一気に現実的な話を聞かされて俺はくらっとした。そうだよな、ごみ収集所がなかったら俺だってどこに捨てたらいいのか分からない。でも、だからって豚を放し飼いって。

「確かこれは次元移動者の賢者が出した案のはずだったな」
「へぇ」

誰だか知らないけど、この世界は俺みたいのは珍しくないのかな? しばらく歩いて、イーザーは3階建ての煉瓦造りの建物の前で泊まった。

「ここは?」
「情報屋」
「げっ! 何でここに来たんだ?」

俺は今すぐ逃げ出そうと引いた。イーザーが困ったような表情で言う。

「安くて安全な宿があるからだ。俺みたいな旅の者にはこれ以上の宿はない」
「でも、俺」

まだフィルの事を忘れてはいないぞ。

「指名手配されているんじゃないか? やっぱり泊まるんだったら別の所にしようぜ」
「大丈夫だって」
「何で?」

イーザーはうんざりしたように言った。

「情報屋は全国に広がっているし、独自の魔法で横のつながりが強い、だけど、範囲が広すぎてよほどの重要人物しか手配できないんだよ。アキトみたいなのまで手配してたら手がつけられなくなる、だからしない。だから大丈夫だ」

すっかり俺は感心した。

「詳しいな」
「こんなの常識だ。アキトが知らなさ過ぎるんだよ」

悪かったな、知らなくて。イーザーがドアを開けた。扉にくくりつけられた大きな鈴が豪快に鳴る。

「いらっしゃいませー」

俺はびくびくしながらイーザーに付いていった。中は前に来た情報屋と似ていた。カウンターと食堂があって、イーザーはまっすぐカウンターに行って受付に宿をとりたいんだけど、と手馴れている様子で言った。

「2人部屋を2日ほど」
「はい、帳簿に記入をしてください」

藁半紙のような荒い紙と羽ペン(という名前でよかったっけ?)を渡された。英語ですらない、全く読めない異国の言葉が書かれている。

「何語だ? 読めない」
「共通語だぞ。いいよ、俺が書く」

イーザーが俺の手元から紙を引っぺがして書いた。書き終わるとそれを出して店員と何か話して、2階へ上がっていった。

2階の、何かの動物が彫られているドアの1つを開けて中に入る。中は薄暗く、狭い。イーザーは窓を開けて、2つあるベッドのうちの1つに荷物を置いた。ベッドは見た目よりは柔らかそうだった。

「イーザー、次は武器を買うんだろ、どんなのにするんだ?」

俺は好奇心満載で尋ねた。イーザーはマントを脱ぎながら「う〜ん、何かな」と考えこむ。

「アキトは何がいい?」
「俺はよく分からない。安いのでいいや」
「直接店に行ってから決めるか」
「でも、いいのかイーザー。わざわざ武器なんか買わなくたっていいのに」

俺は本心からそう言った。あんまり世話になるのも悪い気がする。

「といっても必要だし、いくら世の中平和といっても自分の身くらいは守れるようにならないと旅は難しいからな。防具に比べたらまだ武器のほうが安いし」
「ふぅん」

そういうもんなのかな。

「じゃ、行くか」
「えっ、今から?」

もう少し俺は休みたいんだけどな。さっきまでかっきり学校で6時間の授業を受けてからこっちに来たんだから、それなりに疲れているんだ。

「早いほうがいいだろう? 何爺さんみたいな事言っているんだよ」

それを聞いて、しぶしぶ俺は立ち上がった。


情報屋のカウンターで武器を売っている店のありかを尋ねて、俺たちはそこへ行った。大通りを通るから人を避け、かき分けながら行く事になる。そうしながらも俺はしっかり周りを観察していた。

「おっ」

背中に鳥の羽を生やした奴がいて、俺はつい立ち止まった。背中が大きく開いている服を着てすたすた歩いている。俺は周りが誰も驚かなかった事に驚いた。さすがファンタジー。これくらいは当たり前みたいだ。

そこまで感心してはっとした。イーザーを見失った。

「やばっ」

こんな右も左も分からないところで1人っきり。急に俺は心細くなって、人波をかきわけイーザーを探す。

先のほうは広場になっていた。小走りに中央まで行って、そこでイーザーを探す。……いない、あの黒マントはどこにもない。

正直、俺は途方にくれた。と、

ぼろん。

すぐ近くで楽器の音がして俺はぎょっとした。

「どうしたの?」

音の発生源を持っているのは女だった。20代前半くらいで、群青色(!)のさらさらした長い髪と墨みたいな黒い目をしている。青い服、それも空色、水色、紺、それ以外の俺が名前を知らない様々な青い布を組み合わせたような変な服を着て、琵琶みたいな大きな楽器を持っていた。

女の細くて長い指が琵琶の絃に触れ、さっきの音を出した。

「そんな所できょろきょろして」

美人、言えなくもない顔立ちを女はしていた。でもにこにこ笑っているその顔はただの人のいいどこかのお姉さんのようだった。俺はつい、その笑顔に引き込まれそうになった。

「人を探しているんだけど、知らないか?」
「人?」

琵琶に手をかけて1小節弾きながら女は「どんな人?」と聞き返した。

「俺と同じくらいの年で、黒マントで剣持っている」
「う、ん、分からないな。あ、自己紹介が遅れたね。私は旅のリュート楽師のフォールスト。よろしくね」
「こっちこそ。俺は秋人・大谷」

また1小節、リュートという楽器を弾きながらフォールストは喋った。癖なのかな?

「あんまり聞かない名前だね。それに服もこの辺じゃ見ないし。どこの出身なの?」
「えっ」

俺は答えに詰まった。ここの地理なんか全然知らないから適当には答えられないし、かといって素直に別の世界から来たって答えるのも……

でも、そもそも正直に答えても普通信用しないよな?それにイーザーの話だと俺見たいのはそんなに珍しいわけじゃなさそうだし。いかにもわたしはお人よしですと言っていそうなフォールストの顔を見ていると、言ってもいい気がしてきた。

「実は俺、別の世界から来たんだ」
「へぇ。すごいね」

フォールストは目を丸くしてうなずいた。それだけ。

「びっくりしないんだな」

リュートを調整しながらフォールストは顔を上げて答えた。

「うん。前にそういう話を聞いた事があるから。でもそんな人と会ったのは初めてだよ。ここの世界に何しに来たの? 買い物?」
「いや、よく分からないけどここに来たんだ。帰れないんだよ、俺」
「じゃあ帰るためにこれから捜索の旅に出るの? 大変ね…… だったら、座ってよ。あげたいものがあるの」
「何するんだ?」

フォールストはそれには答えずにっこり笑って、リュートで曲を弾き始めた。

腕は下手じゃなかった。でも感動したり心動かされたりするほど上手くもない。フォールストは楽しそうに指を動かし、足で拍子を取り、静かで明るい曲を演奏した。今日みたいないい天気に口ずさみたくなるような、無限の可能性が世界にあると信じられる、希望に満ちた旋律。それは空を舞い、ざわめく街と溶け合い、風と一体化して俺を包む。時の流れがゆったりとする。フォールストと俺だけがここにいて、それ以外は人も物もくすんだ茶色の背景のように思える。

「アキト!」

いきなり呼びかけられて、叩き起こされたように俺はびくっとした。振り返るとイーザーが立っている。

「うろうろするなって。迷子になるって言ったはずだろ」

呆れた奴だとばかりにイーザーは言った。いけね。探すの忘れていた。フォールストが音量を下げて演奏しつつ、イーザーを興味深そうに見る。
「あなたがイーザー? わたしは旅の楽師のフォールスト。アキトと友達になったの。よろしく」
なぜかイーザーはフォールストが名乗ると変な顔をした。

「ああ、俺はイーザー・ハルク。アキトを探していたんだ」
「見つかってよかったね」

ぽろん、と最後の1節を弾き終えて、それでもまだ弾き足りなそうにリュートをいじって音をかき鳴らしている。フォールストが気まぐれに絃に触れると豊かなメロディがこぼれ落ちる。イーザーが俺を一瞥した。

「名残惜しいかもしれないが、行くぞ」
「へ、ああ」

そういうイーザーこそが未練がましそうにフォールストのリュートを見て、歩き出す。

「それじゃあね、アキト。そのうちどこかで会うかもね」

にこにこ笑いながらフォールストは手を振った。見る見るその青い髪は雑踏の中に消えていった。

「ふと見たらいないからぎょっとした」
「悪い、イーザーを探そうとしたんだけど、ついフォールストと喋ってて」
「1人でうろうろされるよりは広場でじっとしていてくれたほうがいい。その点ではフォールストに感謝だな」
「そういえば」

俺はフォールストが自己紹介したときのイーザーの事が気になっていたので、聞いてみた。

「それはな、フォールストという名が偽名だからだ」

偽名? あの、人のよさそうな、のほほんとした奴が?

「フォールストは神々の1人、風竜神の御名だ。吟遊詩人や旅人に偽名として使われる事もある。ま、あだ名のような感じで名乗っているんだろうな」
「ふぅん」

よく分からん。

話しながら歩いているうちに武器屋に着いたみたいだ。イーザーがとある店のドアを開けて中に入った。


暗くて狭い店内は鉄とさびの臭いがした。棚という棚、段という段に物騒な刃が並んでいる。イーザーはその1つ1つをじっくり見ていた。俺も真似してみたけど、よく分からない。俺の身長はある剣を見て驚いたり、変なのを見て首を傾げたり、そんな程度だった。

「イーザー、ここ店員いないのか?」

やる事がないから聞く。

「わしは店員ではないというのか?」
「わっ!」

びっくりした。下のほうから低い声が聞こえてきた。あわててそっちを見ると、やたら背が低く、そのくせがっちりした体格の中年の男がいた。顔は厳しく、ひげで顔の下半分が隠れている。そいつは俺のほうをなめっこく見ると、「変わった人間だな」とはき捨てるように言った。むっ。

「あのな、それは仕方ないんだ。だって俺は」
「おい!」

慌ててイーザーが俺をさえぎって、そのおっさんに話しかけた。

「これを貰う。いくらだ」

俺はイーザーの手の中にあるものを見て目を疑った。

それはただの棒だった。しかも木の。2メートルはありそうなそれは硬そうだし、これで殴ったら痛いだろうとは思うけど、いくらなんでも、よりにもよって武器が棒っきれ!?

「イーザー、俺もうちょっと強いのがいいんだけど」

控えめに意見する俺。

「そうか? これは比較的軽いし、扱いやすい。長いからその分有利だし、刃が付いていないから自分も傷つかない」
「自分の武器で自分が傷つくわけないじゃないか」
「あるんだ」

きっぱりイーザーは言い切った。

「そもそも武器なんて相手を傷つけるためにあるんだぞ。扱いが危ないんだ」
「でも、それにそんな棒じゃ相手を傷つけるなんて出来ないと思うなぁ」
「ただの石っころでも人間死ぬんだ、甘く見ないほうがいい。武器なんて本当は何でもいいものなんだよ。それに、まずアキトは自分の身を守る事から始めるんだから攻撃力はそんなになくてもいい」
「そうか?」
「そうだ。それに安いし」

最後の一言で俺は決心した。

「ならこれにしよう」

ほっとしたようにイーザーは「このスタッフにする」と言った。それから10分、永遠と2人は値段交渉していて俺は暇になった。値段交渉なんて日本で生きている俺にはまずお目にかかれないものなのだが、だからといって面白いわけでもない。その間俺はぼんやりそのスタッフと言う武器をいじくっていた。ちょうど持ちやすい太さだったし、振り回せる程度には軽い。剣よりは格好悪いけど、これでもいいかもしれない。ちょっと振ってみたかったけど、狭い店内だから我慢する。

そうしているうちに交渉は終わったらしい。イーザーが銀色のコインを何枚か出して俺に「行こう」と言った。

礼を言って店を出ると、イーザーは宙を見上げて考え込んだ。

「次は必要最低限なものか。火打石、保存食、ロープにナイフに」
「防具とかは買わないのか?」
「高すぎて手が出ない」
「その道具って今すぐ必要なのか?」
「いいや、俺のがあるから代用できるが?」
「じゃ、俺それを後で買うよ」

これ以上イーザーの財布をいじめたくはない。マッチとかチョコレートとかを向こう、つまり日本で買うつもりだった。「ならいいや」とイーザーはあっさり納得する。

「それからアキト、武器屋で気になったんだが、自分の出身を言いふらすなよ」
「やっぱりまずいか? フォールストは平気だったんだけど」
「あの楽師? 嘘だと思っている……顔じゃなかったな。鈍いか大物かのどちらかだろう」

鈍いの方だろうな。きっと。

「で、イーザーこれからどうする気だ?」
「そうだな。アキトに簡単に街の施設や店を案内して、それから仕事しよう」
「仕事って?」

俺は興味しんしんで聞いた。そういえば初めて会ったときもイーザーは「仕事」中だったっけ。

「色々。護衛や探し物、化け物退治から家の掃除まで」

本当に色々だな。ごみ捨て場だと言い、この世界もゲームみたいなファンタジーじゃなくて、もっと現実的なものらしい。俺は改めてその事を認めた。


それからは目が回る忙しさだった。イーザーは俺をあちこち引きずりまわしてはここはこういう場所だと説明した。それはいいけど、さすがに食堂や店屋くらいは分かるっ。イーザーは俺の一般的知識に激しい疑問でもあるように見ているらしい。事実、そうなところもあるけどな。とはいえ、魔法使いの学校みたいなところや神殿は見ていて面白かった。特に神殿は何種類もあってそれぞれがぜんぜん違った。ここの世界には日本やギリシャみたいに神様がたくさんいて、それぞれ信じられているらしい。

夕方になってようやく宿に戻ったとき、俺は何も言わずに荷物を放り出してベットに寝転がった。イーザーはなんでもなかったようにぴんぴんしている。これは断じて俺がひ弱だったからではない。俺はその前に学校に行っていたからだ。絶対にそうだ。

「アキト、寝るには早いぞ」

からかいを含んだイーザーの言葉に俺は反論しようとして、……ぐらりと世界が回った。

(今?何で、いきなり、そんな!)

心の中で俺は散々わめいたが、そのかいもなく俺の意識はあっさり闇の中にかき消えた。


(16の男にしてはか弱いな)

イーザーのようにからかっているような声が俺の頭の横で聞こえる。俺はがばりと起きた。

俺の家の俺の部屋。帰ってきた?

「おい、声、いるのか?」
(もちろん)

男でも女でもない偉そうな声はちゃんと聞こえた。なんだかむっとする。

「どういうつもりだよ、俺をこんな目に合わせて、いったい何のつもりだ!」

何もないところに向かって怒鳴る。傍から見れば俺はまるっきり怪しい奴だけど、誰もいないんだ。かまうものか。

(楽しくはなかったのか?)

声は予想外の答えを持ってきた。俺は虚を突かれて黙りこくる。それは……

「おい声、問題をそらしているぞ」
(そうだな。気がついたか)

声は悪びれもせずにそう言って、気配が消えた。

「? 声、声?」

返事はなかった。

「……逃げたな」

俺は声がいた方向を睨みながらうなった。