三つ首白鳥亭

−カーリキリト−

灰降る街で 7

その日はいつもにもまして灰がよく振った。

窓の外でしきりに灰がこぼれるのを目にもとめず、あたしは図書館で異界についてのレポートをまとめていた。他の人も黙々と本を読んでいる。

水神殿の鐘が鳴っても初めはだれも気にしない。2、3、4と立て続けに鳴ってようやく顔を上げる人が出る。あたしは筆を走らせるのに夢中で気づかなかった。

鐘はいつまでたってもやまず、さすがにおかしいと思い始める。いつもは1回、せいぜい2回で役目は時間を告げるだけなのに。

「竜がきた!」

遠くから間延びした、緊張感のない声が聞こえる。

「竜がきたぞ!」
「火山の竜が!」
「生徒は避難しろ!」

徐々に図書館で悲鳴が上がる。あたしは本を置いてゆっくり立ち上がった。

アム火山の竜。学問通りには竜の住んでいる山がある。どこにでもある、よくある伝説だと思っていたのに。鐘はいまだに鳴り続けているし、水神殿の教授は間違ってもこんなひどい冗談は言わない。

「生徒の皆さん!」

司書が声を張り上げ、膨れ上がりかけた恐怖を押しとどめた。

「避難をします、指示に従い落ち着いて行動してください」

きびきびした命令に凍りついたあたしの精神がようやく動き出した。避難、そうだ、逃げないと。

扉へ走った。「そこの生徒、待ちなさい!」悲鳴もあたしには聞こえない。

逃げなきゃ、竜は怖い。火を吐いて空を飛び眷属を引き連れる史上最強の生き物。知性を持ち人と対話する竜もいるけど、学問通りの竜はそうじゃない。街を壊して人を殺すだろう。今まで山の中でおとなしく暮らしていた竜がなぜ降りてきたのかは分からないけど、危険だ。

逃げないと。表へ出ると荷馬車と人が入り乱れ、あたしは押しつぶされかけた。遠すぎて大きさは分からない、予想していたより大きくはない。竜の眷属なのかもしれない。

恐怖に駆られ闇雲に逃げようとする人間にもみくちゃにされる。髪を引きずられあたしは転んで踏まれそうになった。

逃げなきゃ。あたしは無理に人の流れに逆らって押しのける。

その前に、シュウはどこ?

だいぶ勉強したとはいえ、シュウはまだこの世界に疎い。竜についてどれだけ知っているのか、知らずに逃げ遅れたら。考えただけで目の前が反転してあたしは吐きだしそうになる。

きっと今は灰掃除の仕事中だ。この街のどこかにいる。

どこか、それだけであたしはくじけてその場に座りこんでしまった。ただでさえ広い街の中、混乱する最中どうやってたったひとりを探し出せるの?

「邪魔だ!」

荷車にひかれそうになって、あたしはかろうじて転がって逃げた。今ここで死にたくない。その一心であたしは起き上がる。

どこに、どこに行けばいいのだろう。

……家へ。

あたしの家しかない。あたしたち2人が知っている場所。唯一かりそめの安らぎがあるのはあたしの家だけだ。異変に気がついてあたしを落ち合おうとするならそこしかない。きっとシュウはそこにいる。

目的が見えたとたんおびえは収まった。足に力が入る。あたしはこぶしを握りしめて、建物沿いに歩いて小道を走った。

大通りの外側はありがたいことに無人だった。ひとつ隔てた向こうでは人々が押し合いへしあいして逃げているのに、灰がうずたかく積もる壊れたがらくた道の生き物はあたしひとりだけ。襲われませんようにと祈ることさえせず走った。どうせお祈りする竜神様なんていない。

あたしの家へ!

家は朝出てきたときそのままだった。炊事道具に魔道書が散らばり、貧乏なので物が少なく寒々としている。

シュウはいない、あたしは叫んだ。

「シュウ! どこにいるの!?」

一部屋なんだから一目瞭然なのに、シュウがいないのを認められなかった。大股で部屋を歩いてあたし自身を納得させる。歯を食いしばった。

落ち着け! 今シュウはいないけど、異変に気づいたらきっとここにくる。だったらあたしは待つしかない。あたしは自分をねじ伏せて、逃げるための準備をする。残り少ない蓄えに魔道書、ほとんどない食糧庫から奇跡のようにパンとチーズのかけらを拾い集めた。

あたしの財産はこれで全部だ。軒下に立って待ち人を待つ。

ぼんやり空を見上げた。学問通りの街は白いものが降る。夏なのに雪が降っている気がした。そういえば今日は肌寒い。もともと温かい土地じゃないけど夏に冷えるなんて絶対におかしい。嘘の雪に混ざって大蝙蝠が空を舞う。

竜の手下、眷属の巨大な蝙蝠だ。

なんでこうなったんだろう。あたしは壁に寄りかかった。あたしがなにをしたの。根明なあたしもさすがに応える。ため息をつこうとしたらうめき声が出て、あたしは片手で目を覆った。

「シュウ」

早くきて。あたしはここにいる。今どこにいるの。混乱に巻きこまれているの。ひどい目に会っていないよね。君がくるまでここを動かないよ。

会いたい。

「ギリス!」

灰にまみれた男が、カタナを腰に差した灰掃除人が、あたしが待っていたシュウがきた。どこから走ってきたのだろう、汗は顔から灰を流し、全身で呼吸をしている。

「シュウ!」
「逃げるぞ!」

シュウはあたしに、なにが起きたのかもなぜここにいるのかも聞かなかった。

「うん、行こう」

会えただけで喜ぶ訳にはいかない。危険はなにひとつ減っていないのだから。

どっちに逃げるかあたしはとっくに決めている。

「西へ、マドリーム荒野国方面へ行こう。火山の反対側だし、南の方が逃げやすくて街に近い分混んでいない」

走りながらシュウは聞いた。

「なにが起きたのか、分かるか」
「分かる。学問通りに隣接するアム火山には昔から竜が住んでいるの。目覚めて眷属とともに街へ下りたんだ」
「本当に竜が住んでいたのか?」

シュウが住んでいた所では竜は空想上の生き物でしかない。驚くのもしょうがない。むしろ大半の人がシュウと同じ、竜を見たことがなければ実在も信じたことがないだろう。

「ちゃんと昔の文献にあるよ。寝ているだけでなにもしないから退治をせずに放っておいたの」

なにもできなかったとも言うだろう。竜は力も能力も人間をはるかに上回っている。よほどの英雄でない限り竜に傷ひとつ付けられない。

「どうして今になって目覚めたんだ」

分からない。どこかにいる救い難い馬鹿が火山へ行って起こしたのかもしれない。

「空を飛んでいるのも竜なのか」
「そうだけど、シュウが見ているのは竜じゃない。あれは竜の眷属、手下の大蝙蝠。本当の竜はあんな大きさじゃすまない」

人波にもまれないように街の裏へ影へと、あたしとシュウは走った。

「ひっ!」

頭上から押さえつけられるように風がなぎ、焼けるような熱が顔に触れた。大蝙蝠が一匹あたしたちに興味を持ったみたいで、無感情な瞳で地上を観察している。もう一度と急降下、羽を広げた。同時にシュウが刀を抜いて立ちふさがった。

交差する!

血が空中一杯に閃いて大蝙蝠は不快な声を上げた。飛ぼうとしたがうまくいかずに、建物とぶつかって窓枠と壁を巻きこんで互いに崩れる。

「シュウ! 怪我は?」
「ない、走ろう」

自分の外衣で血を拭う。また血で汚れた。

はるか遠くで竜の咆哮が聞こえた。思わず立ち止まって震える。じっと立っているのは危ないのに、すくんでおびえてしまうような声だった。シュウが全身を痙攣させて、あたしは声の方向を割り出した。あまり離れていないけど、あたしたちの向かっている方向とは逆。

「大丈夫」

わざと明るく言い放ってシュウを元気づけた。一歩踏み出して、そしてあたしはあたしたちを見つめている男にやっと気づいた。

男は白い服を着ていた。それだけでもう年中灰が降る学問通りの住民でないことが分かる。輝くような金髪で、腰に剣を差している。手首に淡い光を放つリングが見えた。魔法使いだ。

「響修か。俺は正しい選択をした。これで宿命にぶつけられる」

シュウの名前を知っている?

「誰!」
「ラスティア。修、お前の召喚主であり主でもある」
「召喚…… 者」

シュウの顔に浮かんだ理解の色は、みるみる怒りにとって代わった。

「貴様が俺を呼んだのか」
「そうだ。呼んで放った」
「なんで?」

あたしはシュウをかばうように前に出た。この男、どこか変だ。

「そのままでは使えないからだ。知識も風習も言葉も使えない人間は役に立たない」

あたしとラスティアは目が合った。ラスティアは自信に満ちて堂々としている。でもけして立派じゃない。今のことが本当ならこいつは屑だ。自分から勝手に呼んでおいて。

「なによりあのままでは戦えない。刀は研がれてこそ威力を発揮する。宿命とぶつけるには修練する必要があった。これも定めだ。神竜と人間との戦いに」

シュウの膨れ上がった殺意が暴走するより先に、ラスティアの方が早かった。

「そしてこれも定め」

その瞬間、あたしは世界から切り離された。

え?

なにも見えない。音もしない。降り積もる灰も遠くから聞こえる竜の咆哮も、確かに後ろにいたシュウもいない。五感は消えうせあたしは闇の中ひとり取り残された。

なに、なにがあったの? みんなどこに行ったの?

それともどこかに行ったのはあたしなの?

シュウ? どこにいるの?

シュウ……?


修の目の前で、ギリスは身体をこわばらせ倒れた。

言葉より思考より行動の方が早かった。日本刀の構えが揺らぎ刀を落としかける。ギリスの背中を支えた。

「ギリス?」

ギリスの目は見開いて宙をさまよっている。脈も呼吸もちゃんとしているのに、魂が抜けたかのようになにも反応しない。

「ギリ…… ス」

足が震えて膝をつく。シュウの体内に嵐が起きて全身をかきまわす。

「封印。精霊術のひとつだ」

満足そうなラスティアの声にシュウは動かなかった。

「使う精霊の種類によって効果に差がある。雷の封印は殺す訳ではない。ギリスは死んでいないし年を取らない。捨て置いてもこのままだがなにも見ないし聞こえもしない」

修の刀を取る手が白くなった。血の気が失うほどに握りしめていいる。

「だた無意味に時が過ぎるだけだ」
「ラスティアぁぁぁ!」

修が叫んだ。地を蹴り刀を握り、矢より早くラスティアへ飛ぶ。後一歩の距離で突如虚空に見えない壁が出現した。刃とぶつかり激しい雷光をまき散らす。火の粉で髪が焦げた。

「殺してやる!」

修は退かなかった。障壁に正面から向かう火花が散り手に火傷ができるのも見えていない。ただラスティアへ刃を突きつける。

障壁が…… 百の硝子が一斉に砕け散る音と共に消滅した!

刃がラスティアを貫いた瞬間、白い姿がかき消えた。同時に背中が強く爆ぜ、前へ突き飛ばされ壁に衝突する。

「がっ」

灰色に汚れた塀に自分の血をすりつけ、シュウは倒れかけた。意識を失いそうになるのを押しとどめ、刀を離した左手で自分を支える。

ラスティアは何事もなかったようにそこにいた。重い荷物を抱えるようにギリスを持ち上げる。なにも見ていない目を見開いているギリスは動かない。シュウはよろめく足で立とうともがいた。

「ギリス」
「大谷秋人と戦え」

ラスティアは告げた。

大谷? 修の頭にもう帰れない日坂高校がよみがえる。文化祭実行委員会の後輩の男の子。どこかぼんやりしていて平凡な顔つきの、それでもひとりで痴漢を撃退したつかみどころのない一年生。

在学中でさえたいして話もしなかった。もう忘れていた。その大谷を?

「秋人は仲間とともにフォロー千年王国にいる。追え」

満足そうに、殺意と疑問が混ざった修の顔をラスティアは眺めていた。

「ギリスを離せ」
「放す。封印も解こう、秋人を殺せば召喚士はお前のもとに帰してやる」

血の跡を作りながらシュウは歩く。

「ラスティア!」
「期待している」

修の刀が届くより先に、ラスティアはギリスとともに消えた。

修はそのまま倒れる。刀が地面にはねて転がった。

「ギリス」

修は呟いた。だれもいない。いつも元気良く返事する少女の姿はない。

「ギリス……」

起き上がることのない修の身体に、灰が積もった。


学問通りは一日で滅び、ギリス・ブロシアは姿を消した。