三つ首白鳥亭

−カーリキリト−

灰の降る街で 5

「シュウ、逃げよう」

狼はいなくなっても火は消えない。シュウは刀を納めると頷いた。

「待って、そこの2人」

ラケルが止めた。周りは炎に包まれているのに走って逃げる気配がない。

「なんだ」
「そこの女の子はギリス? ブロシアの末娘のギリスちゃん?」

なんでその名を知っているの。めまいがするほどの熱気の中で、あたしは口一杯の氷を押しこまれた。

ラケルが空を見上げる。いつも灰色の天は今日は赤い。

「逃げるのには賛成だ。でもその後で話をしたいんだけど、いい?」

あたしはためらって、頷いた。


逃げる場所がそこしかなかったので、あたしたちは自宅前まで逃げてきた。ラケルが周りを見て、あたしになにか言いたそうに口を半開きにする。古いと言いたいの。

「まずは巻きこんでごめん。私はラケル・グリスター。元マドリームの王宮魔道士」

荒野国マドリーム。国土の大半が不毛の地、魔荒野の貧しい小国。でもどんな国だろうとも宮廷魔道士なんてそう簡単になれない。ラケルはマドリームの中でも首折りの実力者なんだ。さっきの鷹揚な態度が今となっては理解できる。ただの神殿仕え平魔道士なんてお遊びのようなものなのだろう。

「で、今はマドリームに追われる身でもある。さっきのレックスが追手」

ラケルは苦い顔になった。足元の小石を蹴っ飛ばす。「馬鹿なレックス」

「追手って、なにをやったの」
「なに、上司とささやかな意見の違いがあってね。色々考えた結果しばらく国を離れた方がいいだろうと考えたの」
「ささやかな割にはしつこく追われているな。なにをしたんだ」

シュウが冷静に指摘した。相手が宮廷魔道士と知っても屈していない。きっと宮廷魔道士がどれだけすごくて偉いのか分かっていないんだろうな。

「うん、まあね。やっぱり最後に居並ぶ上役全員カエルにしたのがまずかったかな。怒っていたとはいえ短慮だった」

超がつくほど古典的で、かつ国を丸ごと怒らせるには十分だった。そりゃマドリームも追手を放つよ。ラケルは悪戯がばれた子供のように笑ってごまかした。

「その辺は過ぎたことだ、しょうがないよ。それに今ギリスに話したいこととは全然関係がない。君たちにとっても深く知りたくはないだろう」

確かに後々マドリームの人がきた時のことを考えると初めからなにも知らない方が都合がいい。

「で、ブロシア家のことだ」

ラケルは気を取り直した。

「マドリームにいたころ私は貿易にも手を出していた。マドリームは貧しいけど魔荒野があるから魔法関係のものは売るほどある。最大のお得意様がアドマント公国のブロシア家という訳だ」

ラケルはちょっと言葉を切ってシュウを見た。同席してもいいのかと言いたいのだろう。あたしが反応しなかったのでラケルは勝手に判断して続ける。あたしはどっちにしろ急に現れた過去にただ驚いているだけだった。

「ブロシア家は婿を取ったのよね。

マドリームの魔道士が大商人の娘と結婚した。そこでできた魔道士関係のコネを利用してブロシア家はさらに拡大した。私は仕事でブロシア家にお邪魔していたよ。交渉相手は家主だったけど婿殿ともよく話した」

ラケルは少し笑った。

「人はいいけど気が弱そうな方だったわね、ギリスのお父さんは。失礼、そんなわけで私はギリスのことを知っている。末娘を家に引き取ったことも、その娘が家出したのも噂で聞いた。見かけたこともある。正式に紹介されたことはないけど一目見てすぐ分かった。お父さんそっくりだったから」

おっととラケルは口を押さえた。シュウは微動せずにいる。きっと涼しい顔をしているのだろう、少しでも動揺したらすぐラケルが反応するだろうからだ。初めて聞く話なのに大した精神力だった。

「安心して。似ているのは顔のつくりだけだから。性格は全然違うね。見て分かる。性格が表情に表れている」

ラケルはなんの気なくシュウに視線を向けた。

「そこの少年はブロシアの家ではないね」

ラケルはブロシアの家人や使用人を把握してはいないだろう。でもシュウの外見や顔つきで召使と思うほど、人を見る目がない訳ではない。

「学問通りで知り合った」
「精霊石に憑いている獣を倒せるとはなかなかの腕前。私も君のような騎士殿が欲しかったぞ」

本気とも冗談ともつかない口調でラケルはひとりで笑った。

「俺をからかっていないで本題に入ったらどうだ。知っている理由を言うだけに誘ったんじゃないだろ」
「つれないね。そう大した用件じゃないよ。私が気になっただけだ。

ギリス、君は今なにをしている」

「魔道の勉強」

声は我ながら虚ろだった。おやとラケルが瞬きをする。

「学費は? 安くはないだろう」
「家を出る時金目のものを持ち出してきた。なんとか卒業できる」

ぼんやりした答えにラケルは満足したらしい。大きく頷いた。

「うむ、うむ。あ、そうだ。礼儀上一応聞くけど、家に帰る気はある?」

あたしは一歩さがって首を振った。ラケルは義務は果たしたとばかりにそれ以上進めない。

「用件はこれでお終い。じゃあ私は再び逃亡するよ。レックスのリングは返す必要はない、そのまま自分のものにしちゃいなよ」
「どこに逃げる気だ?」
「そうだね、なんとなくふらふらしていたけど、石憑きまで送りこまれたなら少し深刻にならないとね。レイドにでも行くか。あそこならごちゃごちゃして見つかりにくい。世話をかけたね、ギリスに少年。ではさよなら」

冗談っぽく手を振って、ラケルはあっけなく去った。大股で背筋を伸ばし、角を曲がり見えなくなる。あたしはそこで我に返った。

「質問!」

叫んで走る。あたしの声が聞こえた時点で足を止めたのだろう。曲がり角からいくらも行っていないところで立ち止まっていた。

「なにごと」
「あたしが家飛び出た後もラケルはブロシアの家に行ったの?」
「うん、そうだよ」まだびっくりした表情のままラケルは頷いた。「私がマドリーム出たのはほんの最近」
「お」あせってどもった。あたしは大きく息を吸う。

――頼むよ、ギリス。

お父様の顔が目の前にちらつく。あれはブロシアにいた最後の日。母の死後あの家にに引き取られてから一度もあたしを見なかったお父様が初めてあたしを直視した日。

「お父様はあたしがいなくなっていてどう言っていた?」

肩身が狭いんだ。ただでさえ入り婿なのにそのうえ君がいるだろ。妻はね、君を見るたびにヒステリーになって文句を言うんだ。もちろん君は悪くないよ。でもやっぱりね、妻の子でない君が家をうろつくのは腹が立つんだろうな。

「どんな風にしていた? 教えて」

だからね、頼むよ。この通りだ。君がいなくなれば妻も少しは落ち着くと思う。必要な金ならいくらでも出すから。

いなくなってくれ。

「心配していた、当たり前だろ? 娘が家を出ても平気な親御さんはいないよ」
「本当に?」

ラケルは困った顔になった。

「本当にそうだった? ラケル、あたしは知りたいの」
「ギリス、世界には知らなくていいことも、知らない方がいいことも山ほどある。いいじゃないかそれで。知ったら傷つくよ」
「ラケル」

あたしは食い下がった。

「お願い、教えて」

頼むよギリス。

いなくなってくれ。

「ギリス」

ラケルの顔から表情が消えた。

「喜んでいた。嬉しそうだったよ。ギリス、君の父上はギリスがいなくなって本当に安心していた。あんなにほっとしたエイダス殿は見たことがなかった」

もちろん、あたしは知っていた。

いつの間にかラケルはいなくなり、あたしはぼんやりしていた。いつの間にか身体が冷えている。学問通りは夏でさえ日陰でじっとしていると寒い。

「ギリス」
「っつ、びっくりした!」

シュウにあたしは驚き取り乱した。あたしはそこにシュウがいたのを知っているはずなのに。我ながらおかしいの。

「あは、シュウ、話全部聞いていたよね」
「ああ」
「でもあれだけじゃ不足じゃない? 分からないところとか聞いてもいいよ、大丈夫」

例えば、母はしがない歌い手で、あたしを殺しかけた挙句家に火を放ってそのまま死んだとか。

外聞を気にした父に引き取られたのはいいけど、そこの正妻をはじめ全員に無視されて、透明になったように生きたとか。

その父に家出を勧められて、発作的に家の財宝いくつか盗んで後先考えず飛び出したとか。

でもシュウは、小さく「いい」と答えた。

「大体は分かった」
「そう?」

あたしは急に意地悪い気分になった。シュウを驚かしてみたかったし、もっともっと自分を貶めてみたかった。

「でもこれは分からないでしょう。あたしが魔道士になろうとしているのは父を意識しているからとか」
「ギリス」
「わざわざアドマンド公国から離れていない学問通りで暮らしているのも、いつかお父様が迎えにきてくれるかなと思って。ありえないってわかっていたけどね」

でも万が一信じるくらいいいと思って。期待せずにはいられなくて。

ゆっくりシュウの表情が変わっていくのを確認して、あたしはあわてた。いけない、調子にのっちゃった。

「でも誤解しないでね。あたしは運がいいよ」

早口でまくし立てる。この点だけは分かってほしい。

「あたしは恵まれているよ。なんだかんだ言っても生活の心配しないで安穏と養われていたし、ブロシアは金持ちだから金目の物盗んでも全然どってことなかった。もし普通の家だったら魔道士どころか即路頭に迷ってた。今頃シュウみたいに盗みをして生きるか、いかがわしい仕事しているかだった」

だからあたしは運がいい。なぜか打ちのめされているようなシュウへ断言する。

そう、あたしは運がよく恵まれている。人がうらやむ環境だ。

だから同情しないで。かわいそうと思わないで。憐れまれて甘やかされたら、あたしはもう起き上がれない。

シュウはなにも言わなかった。

「帰ろう」
「帰る? 家へ? 家ってどこの。あ」

言われるまで学問通りの狭い家を忘れていた。ことさらあたしは明るくふるまい、「うん、帰ろう」はしゃいでみる。あの寒くて隙間風差しこむ部屋があたしの家だ、そうだった。

「悪い」

シュウは自分が悲しい目にあったみたいな顔をしていた。

「え、逆だよシュウ。こういう場合あたしの方が謝るの」
「いや。俺が悪かった」
「変なの」

並んで歩きながら、あたしは雨の夜にシュウへ走った理由をようやく分かった。

捨てられたようなシュウはあたし自身でもあった。だからそのまま通りすぎられなかったんだ。