俺は自分が不運なのか幸運なのか分からなくなる。
今まで身に降りかかった災厄からすれば文句なしに不幸だろう。でも多少の怪我あれど五体満足で乗りきっているのだから運がいい。少なくとも自力で乗りきっていない。
うずくまって瓦礫が大人しくなるのを待って、ようやく顔を上げた時にも俺は塞翁が馬について考えをめぐらせていた。
無傷だった。埋もれて死んでもおかしくなかったのに俺はほこりを被っただけ。目を開けて身体のどこにも痛みがないのを確認する。
真っ暗だった。懐中電灯を落としたみたいで自分の爪も見えない。目を傷めた訳じゃないよな。触ってみたけどまぶたも眼球も大丈夫そうだ。正真正銘の闇。きっとキャロルでさえ周りが見えないだろうな。明かりを探そうとして手さぐりで懐中電灯を探した。
ない。手に振れるのはもろい石ばかりで円柱形の金属がどこにもない。探っている内に瓦礫の山に触れた。石が崩れて頭を打ち、あわてて離れる。
あぐらをかいて考えた。懐中電灯は見つからない。崩れた場所のすぐそばにいるみたいで下手に動くと今からでも下敷きになりそうだ。すぐにここを離れたほうがいい、でも明かりがないとうっかり変なところへ突っこみかねない。
懐中電灯はスイッチを入れていたのに見つからない。ということはどこかに埋もれたんだな。手さぐりで掘り出すのは危ないし見込みがなさそうだ。慎重にここから離れて明るいところまで行こう。たどり着けなくてもイーザーたちなら俺を探してくれる。
はっとした。そうだ、みんなは。俺みたいに巻きこまれていないか?
みんなは固まって動いていた。巻きこまれるのも巻きこまれないのもみんな一緒だ。ミリザムに慣れているイクオンジュルトもいるし大丈夫か? 俺がこうして生きているのだからみんなも平気そうだけど、でもこんなの運不運だ。どんな人だって瓦礫の下敷きになれば死ぬ。俺は思わず立ち上がり、舞い上がる土煙にまた背を低くした。
落ち着け俺、ここで騒いでもなんにもならない。なにをしたって遠くにいるはずのイーザーには届かないんだ。むしろ暴れたら俺が危ない。
心配だけどなにもできない。俺ができることはひとつ、安全に逃げることだ。はいつくばり手さぐりで動いた。
俺は動いていないのに石が崩れる音がした。せきこみながらだれかが動いている。
瓦礫の向こうにいる。よかった、みんなだ。すごく近かったんだな。
「そこにいるのはだれだ? よかった、無事だったのか」向こうのだれかが鋭く息を飲む。
「大谷くん?」声は明瞭だった。きっとどこかと繋がっているのだろう。すぐ横で話しかけられた気がして俺はへたりこんだ。
「ひとりか?」いかにも信じられなく意外だというようだった。外見とは違い声は日本とほとんど変わっていない。俺はなぜか救いを見た。
「そうです、先輩」なんとかまともに答えられた。動揺を抑えようと深呼吸をする。恐怖に立ち竦みそうになったが自分に言い聞かせた。大丈夫、響さんは俺に傷ひとつつけられない。煉瓦の山が俺たちを隔てている。
やっと安心するとさっそく分からないことがひとつ。どうして俺がひとりなのがそんなに意外そうなのだろう。
響さんの立場で考えてみた。俺を見かけてすぐ逃げて、揺れに巻きこまれてまた出会った。
そうか、響さんは俺がひとりできたのを知らないのか。いつも俺はだれかと一緒にいる。一対一なんて珍しい。
「どうして大谷くんがここにいるんだ」「ここに知りあいがいるかもしれないって聞いてきました。結局嘘でしたけど」
夢を見たからですなんて言えない。頭を疑われてしまう。相手がキャロルだろうと響さんだろうと、脳みそが腐ったのと言われるのはごめんだ。
「先輩こそどうして」思いがけなくも話は進んだ。お互い顔が見えない手出しができない環境だからだろう。俺は落ち着きを維持できたし、響さんもどこかに行ったりはしなかった。
「ラスティアの命令」吐き捨てるようだった。「念入りに精霊石の設置場所を指示するからおかしいと思っていたが、そうか、ラスティアは大谷くんがくるのを知っていたのか」
響さんの言い方はラスティアを目上として扱っていない。嘲りと憎しみをこめている。気になったがそれより先に聞くことがある。言いたいことが多すぎて口でしゃべるのがじれったい。頼む、全部語るまでそこにいてくれ。
「知っていたって、俺が今日ここにきたのは偶然ですよ」夢を見てジェズモさんに聞いてきた。今日の朝急に決まった探索。
「なんでラスティアがそんなこと分かるんですか」「知らない。ラスティアは予言者なんじゃないか。ラスティアの命令の先にはいつも大谷くんがいる」
行動を読まれているとか間諜がいるとかより、ラスティアは予知能力者でもあるといった方がしっくりきた。響さんが俺たちより先にミリザムにくるには、遅くても昨日の夜のうちに命じないといけない。魔道士と精霊使いをかねているんだ、もうひとつ兼業してもおかしくない。
「精霊石をしかけたって言いましたね。この地震を引き起こしたのは響先輩ですか、先輩がミリザムを壊したのですか」「そうだ」
分かっていたのに聞いてぞっとした。
「レイドにもいたって聞きました。図書館でラスティアの記録を切りとった」「ああ」
「暴動を起こしたのも先輩ですか」
「それは知らない。ラスティアがやったのかどうかは分からないけど、俺は手出ししていない」
「……なんで、ラスティアなんかと」
瓦礫に向かって声をあげた。
「先輩はラスティアがどんな奴だか知っているのか!? とんでもない奴だ、街を魔法で沈めて人をだまして城を破壊して、ラスティアのやった悪いことをあげれば両手両足の指じゃ足りないくらいだ」敬語が飛んだけどかまうものか。響さんだって気にしないさ。
「なんでラスティアの言うこと聞いているのか知らないけど、響先輩はだまされているんだよ。手下になれば日本に帰すって言われているのか? ラスティアは平気で嘘をつくぞ、今からでも遅くない、裏切った方がいい」「大谷くん。俺はラスティアに賛同して協力しているわけじゃない。俺はだれよりもラスティアを憎んでいる」
「えっ」
俺をなだめて落ちつかせるような声だったが、最後だけは違った。触れれば切れるような殺意に満ちていた。こんなに暗く憎しみに満ちた声を俺は初めて聞いた。
「だったら、どうして」「ギリスのためだ」
ギリス? 知らない名前だった。
「だれ」「大谷くんの知らない女の子。俺に初めてここがどこかを教えて、ここで生きるための知識をくれた。俺にとって保護者で、教師で、ただひとりの友人だった」
俺にとってのイーザー兼キャロル兼ウィロウといったところかな。
ギリスを語る声は俺が知っている、響さんのどの声とも違っていた。溢れる殺気を押さえるでもなく、一歩引いたような暖かさに満ちていた。聞いていて胸が苦しくなった。
「ギリスは弱くて貧しかった。それなのに俺に声をかけた。だから俺もギリスを守りたかった。ギリスを助けて、彼女の苦しみをなくして、ギリスが幸せになるのを見たかった」動悸が早くなる。嫌な予感がする。
「このカーリキリトなんていう世界で、非常識で理不尽に厳しいこの世界で、苦しいことしかなかったここでのひとつだけの望みだ」やめろ。
「笑ってほしかった」俺は顔を覆った。
それ以上言うな。お願いだ、やめろ!
「ギリスは今ラスティアの手にある」響さんは言った。
「雷の精霊術で封印されている。大谷くんのウィロウが異界の道士にしたことと同じだ。雷の精霊術は相手を木にはしない。凍りつかせる。俺の前でギリスは封印された、身体の動きも表情もとまって動かなくなって、そのままさらわれた」「だからラスティアに従っているのか」
「当たり前だろ」
声が荒くなった。
「大谷くんは知らないだろうけど、俺は今前ラスティアを殺そうとしていたんだ、何回も! ラスティアは俺にフォローへ行けレイドへ行けと姿を見せて命じる。そのたびに俺はした、突き刺す、切る、でも殺せないんだ! 魔法使いを雇ったらあっという間に炭にされた、大口叩いた精霊使いはラスティアを見るなり逃げだした。『無理を言うな、俺は精霊使いだがあいつは神子、さらにその上の神竜だ。敵う訳がない!』そいつのたわ言だよ。悔しい、悔しいが悔しいが、でも俺はラスティアを殺せない、殺せない以上従わないといけない!」「……ギリスさんのために」
「ギリスを守るために」
声が落ちついた。
「大谷くん、でも完全にそれだけじゃない」「響さん?」
「大谷くんが憎い」
なにげない言い方だった、きっとずっとそう思っていたのだろう。
「俺がいきなりここにきて、言葉も通じず怪しまれて追われて。食べるものにも寝る場所にも苦労していた時大谷くんはなにをしていた。なにも考えずに、周りの人に無条件に助けられていた。俺がギリスと会うのに一年かかったのに大谷くんはその日のうちに会った。なんでだ。俺と大谷くんとどこが違うんだ? 俺のどこが悪かった? どうして俺なんだ!?」響さんは自嘲した。
「分かっている、逆恨みだ。悪いのはラスティアで大谷くんじゃない。でも憎まずにはいられない。仲間に囲まれて今日食べるものにも寝る場所にも困らない大谷くんが憎い」瓦礫の向こうで動きがあった。
「もう行く」「待ってくれ」
「待たない。大丈夫だ、大谷くんには助けがくる。また会うよ、大谷くん。次で最後だ」
「響さん」
「さよなら」
「やめろ!」
俺は瓦礫に向かった。手を伸ばして煉瓦をつかみ、掘る。手がつぶされ瓦礫が崩れた。上半身埋まりそうになって手で頭をかばう。土煙が舞って涙が止まらない。
「響さん!」叫んでもとまるとは思わなかった。それでも俺は大声をあげて、素手で山を進もうとした。せずにはいられなかった。
膝を抱えてうずくまる。
暗くてなにも見えない。どれくらい時間がたったのか見当もつかなかった。手が痛い、さっき瓦礫の山に突っこんだからだ。
帰らないと。思うけど動かない。座ったままではなにもできない、分かっているけど起き上がれない。
息がつまって苦しい。俺は窒息しかけているのか? そんなはずがない、さっきまで壁の向こうにいる人と会話したじゃないか。あっちこっちで繋がっているなら空気は十分にある、死にはしない。
死にはしない。俺はそのことをほんの少しだけでも残念に思っていることに気づいた。愕然とする。
自殺願望があるのか? 自分に問いかける。今に限ってならそうかもしれない。泣きわめく気力もなくだらけている。
苦しい。苦しくて苦しくてたまらない。なぜだろう。
憎まれたからか。憎まれている相手が知っている人だったからか。俺のせいじゃない。きっとそれは正しい。手を下したのはラスティアだ。でも俺のせいだ。それもまた正しい。俺がいなければなにも起こらなかった。
そうだよ、俺のせいだ。でもだったらどうすればいいんだ。謝ればいいのか。なににすまなく思えって言うんだよ。
なんで。どうして。これからどうすれば。頭に浮かぶあらゆる考えが苦しく、俺はひとりだけで座っている。
みんなどうしているかな。円を描く思考が規則正しく元に戻る。
心配しているかな。勝手な行動を取ってと怒っているかもしれない。俺のせいでだれかが泣いたらどうしよう。ため息をつく。
「……と」声が聞こえた。顔を上げる。
今までなかったはずの明かりが揺らめいて近づいてきた。その向こうには安心している、晴れやかな笑い顔がある。ほおは泥で汚れていて灰色の髪はもつれていた。
「見つけた」「キャロル」
たいまつをかかげる地下道の女の子は、たどり着くまでにたっぷり味わったであろう苦労を少しも見せずにいたずらっぽく笑った。
「街だけじゃなく遺跡でも迷子になるなんて、全く困りものね」「どうやってここにきたんだ」
「すっごく簡単、イクオンジュルトに地理を聞いてしらみつぶしに探したの。エアーム調査隊を含めて一番小さくなれるのはあたしだから、崩れて通れない所ばかり行って今こうして発見したのよ。完全に崩れたところにいなくてよかったわ。
かなり崩れたけど調査隊はあらかじめ危険なところは避けていたからだれも怪我をしていない。行方不明者はアキトひとり。見つかってめでたいめでたい」
「探してくれたのか」「当たり前でしょう。あたしがそんなに薄情に見えた? ……アキト?」
たいまつがゆがんでキャロルの顔が遠のいた。涙が流れ落ちて嗚咽がもれる。
「アキト、どうしたのよ。なにがあったの」「探し…… て」
響さんは正しかった。俺は待っているだけで助けがきた。
響さんはこない。響さんはひとり、広大なこの世界でひとりだけだ。俺が助けられ守られている間にも、響さんはひとりぼっちで、唯一の大切な人のために俺を狙ってラスティアを狙う。
なんて絶望的で孤独なのだろう。どうしてそこまでできるのだろう。
不思議そうに首をかしげるキャロルの前で、俺はやっと苦しみについて理解した。俺には助けてくれる人がいるけど、響さんにはいないんだ……
どうやってバイザリムに戻ったのか覚えていない。
遺跡から脱出するためにどんな騒ぎがあったのかきちんと言えない。イーザーたちとの涙ながらの再会もあったはずなのにすっぽ抜けている。
気がつけば城内の部屋で寝ていた。外は暗い、夜中みたいだ。重い頭を振って寝台から起きあがる。乾いた空気が首筋に触れ、俺は寒さに鳥肌を走らせた。
真冬の夜に起きたら寒いに決まっている。ぶ厚いカーテンが風にゆれる。こんなに寒いのに窓は開けっぱなしになっている。俺は緩慢な動作で寝台から降りる。いくらじゅうたんが敷いてあるとはいえ裸足は厳しかった。
「おはよう、アキト」場違いに軽やかな挨拶だった。立ちどまって顔を向ける。ミリザムから戻っても着替えていないのだろう。服は動きやすい旅装束で薄汚れていた。
「寒かった? 悪いわね、でも閉める元気があるようでよかったわ」「キャロル、窓から入ってきたのか?」
「冗談。ドアから入ったに決まっているでしょ」
「……あの後、なにがあったっけ。覚えていないんだ」
じゅうたんの上にあぐらをかく。寒いけど我慢ができるからいい。
「無理もない。ザリが薬を飲ませたのよ」「記憶喪失の薬?」
「そんな便利な薬があるならあたしが欲しいわ。ただの睡眠薬よ、昏睡させて持ち帰ったの。ザリの判断は速かったわ。慣れているのかもね」
キャロルはいらだたしそうに舌打ちをした。
「ヒビキがきていたなんて。ひとりにして悪かったわね。あたしの失態よ。こんなことならイクオンジュルトに構うのはイーザーに任せればよかった」「イーザーたちは」
「部屋に戻したわ。イーザーは残るって聞かなかったけど、あたしが2人きりになりたいからって引っこめた。ミサスはまだ帰らない」
「俺は心配されていたか?」
「なに言っているの。あたしたちがどれだけ気をもんだか。ザリなんか半泣きでなだめるの大変だったわよ」
「そうか」
空虚な涙がわき出てきた。
「そうか……」キャロルは話すのをやめ、困ったように、でも嬉しそうにじっとする。まるで俺が手のかかる弟で、苦労をかけられるのが楽しいように。
「俺のせいだ」これ以上ひとりで抱えられない。
「俺が響さんを巻きこんだんだ。響さんは両親もいる友だちもいる普通の高校生だったのに。響さんはひとりだ、助けてくれる人も心配してくれる人もいない。それなのにラスティアに挑もうとしている。俺のせいだ」「アキト。ヒビキやギリスのことはアキトには責任はない」
「でも! 俺のせいだ、たまたま俺が近くにいたから、俺が同じ高校に通っていたから。響さんも桜木も巻きこまれてひどい目に会って、俺がいたから!」
「アキト!」
「俺のせいで、俺がそばにいたから! だから俺は日本と別れて、それで」
半ば立ち上がりかけた俺をキャロルが抑える。俺はキャロルの手首をつかんだ。
「キャロル、一緒に逃げよう」キャロルの表情は読めない。
「このままだったらイーザーやザリまで同じ目に会わされる。もう嫌だ、ラスティアの敵なのは俺ひとりで十分だ。もうこれ以上迷惑をかけたくない。2人で逃げよう」「あたしは巻きこんでいいの?」
痛いところをつかれた。
「俺ひとりじゃなにもできない、後をつけられても気づかないしたくらみがあっても見抜けない。戦ったり話を聞くのも無理だ。だからその、キャロルには悪いけど、一緒にきてほしい」我ながらなんて虫のいい願いだろう。イーザーを巻きこみたくないと言ったその口でひとりじゃなにもできないから助けてほしいなんて。きっとおかしさを指摘されて甘い考えを怒られる。俺は目を閉じて、厳しい舌鋒に備えた。
キャロルは怒鳴る代わりに、両腕を首へ伸ばし俺を抱きしめた。
「素敵」驚いた。言葉が出ない。
「早く準備をしよう。脱出の手配をしないと。任せてアキト、明日の夜にはバイザリムとさよならしているわ」うきうきとキャロルらしからぬ軽薄さで逃亡について指を折った。俺の方が不安になる。
「キャロル、念のために言うけど意味分かっているよな」「理解しているわよ。あたしにイーザーを裏切らせて、2人ぼっちでラスティアと戦えといっているのでしょう」
「なんで喜ぶんだよ、普通は怒るだろ」
「理由があるのよ、アキトには分からないあたしだけの」
キャロルはいたずらっぽく笑い、古めかしく直立した。
「全ては主の意のままに。あたしだけの主のために」朝、ジェズモさんは伝言を持ってきた。
「昨日はずいぶんお忙しゅうございましたね。イーザー様がたいそう心配しておられました。起き上がれるのでしたらすぐにでもくるようにとのことです」「はあ」
空返事をした。少し考えて、会わない方がいいと決断する。
心配をかけたのは悪いが今はだれとも会いたくない。それに会って俺が近々逃げるとばれたら困る。イーザーは純粋に俺を案じているのだろうが、気持ちが今だけは重たい。
行かないとしたら逆にイーザーの方がくるだろうし、会いたくないといったら詰め寄られる。自室にいない方がよさそうだ。着替えたら俺は部屋を出た。
行くあてはないけど、広大な城を適当に歩いてもイーザーには会わないだろう。窓から見上げる空は雲が多いけど日は出ていた。シーツの山をもった洗濯女があわただしく走る。平和な日常だった。昨日遺跡の地下でうずくまっていたのが嘘みたいだ。
嘘じゃない。
ミリザムのことは本当にあった。この胸に座る空虚さがはっきり示している。
なにも感じない。キャロルと一緒に逃げ出すのだと思っても、自分で驚くほどなんとも思わなかった。みんなはどう思うだろう。追いかけないでほしい。でもそういう訳にはいかないかな。逃げきれるだろうか。
俺にはキャロルがついている。巻くなんて簡単だろう。その後は? なにも思いつかない。逃げる方が先だ、後で考えよう。
キャロルか。俺は考える。昨日のキャロルは純粋に喜んでいた。なんでだろう。普段のキャロルだったらそんな危険なことできないと突っぱねそうなのに。
前に言っていた。キャロルは一族の長に影から仕える地位になる予定で、一族から離れた後は俺を主として考えていると。主とか仕えるという考え方は俺にはなじみが薄く、実感がないままいつの間にか忘れていた。俺を主としているから素直に受け入れたのか。でもいつものキャロルは俺に尊敬の念はこれっぽちも抱いていなさそうだ。家来らしくない。家来らしかったら俺はすごく困るぞ。
マドリームについてイーザーについて、キャロルや響さんやラスティアについて、考えはまとまらず俺はぼんやり歩いていた。ふと気がついたら図書館を通りすぎかけていた。
「そういえば、ミサスまだいないのかな」非読書家なのにも関わらず、俺は誘いこまれるように入った。暗い室内は司書さんも含めてだれもいない。司書がいないのは問題じゃないか? 俺が泥棒だったらどうするんだろう。
ミサスが散らかした机は今もそのままだった。司書の人は放っておいているのか。危なっかしく積まれている塔の中に座る。ミサスが何日もかけて調査したものは結局無駄になったな。
「なにに気づいて飛び出したのだろ」机に突っ伏してつぶやいてみるも、無気力感につつまれて追求する気がうせた。
もう終わったことだ、陰謀も友だちも、俺の逃亡で全てお終い。
夜遅くなってから部屋に戻った。ジェズモさんは俺をしかって、イーザーが何回も訪れたことを伝えた。
ひとりきりになりすぐに荷物をまとめる。大して量はないはずだったのに、長く滞在したせいか思いがけず時間がかかった。
まとめるともうやることがない。俺は思いついて紙とシャーペンを取り出し、大きなランプを持って机に向かった。いきなりいなくなると誘拐されたんじゃないかって騒ぎになる。誤解のないようにしないと。
ウィロウとジェズモさんの長い長い努力のおかげでようやくなんとか書けるようになった共通語を駆使し、たどたどしい手紙を書く。言いたいことはたくさんあるけど語彙が貧しくてなにも出ない。
最初の一言に10分は悩み、なんで謝ったらいいのかじっくり検討して、事情をさりげなく書き、閉めの挨拶はどうしようとほおづえをついたところで扉が開いた。
「行こ」「キャロル」
まだ書いていないのに。紙を引っくり返して適当に重しを乗せる。すぐ横においていたかばんを持ち上げた。
「速く」「待ってくれ」
キャロルの用意は完璧だった。灰色の外衣を着て小さくまとめた荷物を肩から下げている。まるで散歩に誘うような気楽な様子で、目はいたずらっぽくきらめいていた。
「馬を盗む、目星はもうついたわ」足元さえおぼつかない廊下を歩きながら小声で伝える。
「食料やかさばる荷物も、馬小屋の側に隠したわ」「俺たちがいなくなったのが分かったら追われないか」
「追われるでしょうね。東へ行くわ。魔荒野を抜けて山を越えて、しばらく行くと天幕市と呼ばれる町があるの。大きくてかなりごちゃごちゃしている。紛れこむわよ」
色々調べたらしい。たてつけの悪い裏口を勝手に開けると顔に冷たい風が吹きつけた。空に星はなく闇が広がる。キャロルの持つ角灯だけが光源で、頼りない明かりが届く範囲しか見えない。
目をこらすとなるほど、ついこの前ザリと一緒にきた馬小屋だった。おじいさんはいず、馬の吐息しか聞こえない。
「盗む馬って黒海じゃないだろうな」「違うわよ。乗ろうとしたら振り落とす馬を選んでどうするの」
小屋の隅、わら山の中から重そうな麻袋を引きずり出した。ぼんやりしている俺を見、袋を俺の足元へ投げ出す。袋の中は食料がたっぷり詰まっていた。顔をあげるとキャロルはまっすぐ俺を見て、手を差し伸べている。
「行こう」俺は手をつかまなかった。
「アキト」「悪い、キャロル」
俺は今まで負っていた重荷を、ため息と共に吐きだした。
「俺は行けない」キャロルは動かない。
「ここから出て行ったらイーザーやアット、今まで助けてくれたみんなを裏切ることになる。だから行っちゃいけない」色々考えたけど、すごく苦しいけど、でも俺だけ行ってはいけない。なにもかも捨てて遠くにいけるほど、俺が持っているものは軽くなかった。分かったのは遅かったけど間に合った。
「用意してくれたキャロルには悪いけど、でもやめよう。こっそり戻って荷物を片付けて、なにもなかったことにしよう」「分かったわ」
「怒らないのか」
キャロルが今日丸一日費やしたことが無駄になるのに。キャロルは首を横に振った。
「アキト、あたしがとめることを期待していた?」「いいや」
反射的に答えてから考え、やっぱりついさっきまでは逃げるつもりだったのを確かめた。キャロルしか一緒に逃げてくれそうな人はいなかった。イーザーは問題外、ザリもきっぱり断るだろう。今ここにいないミサスは問いかけの対象にさえならない。キャロルしかいなかった。
「そう」キャロルは振り返った。
「寒いでしょ、出てきたら?」「え?」
驚く俺の前で、角灯の貧弱な光に照らされてイーザーとザリが小屋の影から出てきた。手足をこすり合わせて顔は青く、どれだけこの寒い中待っていたのか想像もつかない。
「なんでここにいるんだ。どうして分かったんだよ」「なんで分からないって思うんだよ」
イーザーは歯の間から喰いしばるように言う。まずい、予想通りすごく怒っている。
「昨日キャロルとだけ話して、今日は一日中俺から逃げ回っている。キャロルはキャロルでやけに落ち着いて幸せそうだ。2人でなにか悪巧み考えているのに決まっている。ラスティアの手がマドリームに深く及んでいること、昨日ヒビキと会ったこと、そこからアキトがどう思うか、キャロルを巻きこんでなにをするかザリと相談したんだよ」「イーザーにばれるなんて、不覚」キャロルは腕を後ろ手に組んだ。
「マドリーム城の人々には分からなかったと思うけど、わたしもキャロルのことは知っているからね」
ザリは安心したように小屋にもたれかかり、イーザーは俺へ詰め寄ると問答無用で殴った。勢いに腰をつく。口の中に鉄の味が広がった。
「情けない」「悪い、もうしない」
「当たり前だ!」
怒っているというより悔しそうで、俺は改めて後悔した。ザリがイーザーの腕をつかむ。「イーザー、暴力だけはしないって約束したでしょう」
「したよ。だから一発だけだ。本当だったら足腰立たなくなるまで殴るつもりだった」「まあ」
「これくらい当然だろ!」
しょうがないわね、とザリは俺へかがみこんだ。
「帰ろう」「うん」
――4人で戻ると、俺の部屋には待ち人がいた。
扉を開けると冷たい空気が室内なのにうずくまっていた。大きくカーテンが揺れ机のランプがまだらな動きを投げかける。光に照らされた人影は俺へ視線を移した。
「どこに行っていたんだ。心配した」ミサスだった。
「こっちが言いたいわよ」すかさずザリが言い返す。全くだ。なにも言わず姿を消して、これまた突然出現した人の言葉だとは思えない。完全に自分を棚に上げている。
でもなにも言えなかった。耳を疑うのに忙しくてそれどころじゃない。
今心配したって言わなかったか?
ミサスは机の前で紙を持って立っていた。俺を見るなり目を少し見開いて顔の筋力がゆるみ、背中の黒々とした羽根が張りつめた力を失ったように下がった。ミサスが言うとおり、心配していたけど俺を見て安心したらしい。
「ミサスどうした? なんで今に限ってそんな普通の人みたいなことを言うんだよ」俺がいないことに心配して、帰ってきたのであからさまにほっとする。そんなミサスを見るなんて珍しい。初めてじゃないのか。
答える代わりに机に乗せていた荷を床へ投げ出した。手紙、それもかなり大量だ。俺が出る前に書いた手紙とは違う。ザリがかき集めて拾った。
「これはなに?」「ラスティアにしたがっているものがだれなのか分かった」
直接的に答えず、落ち着いた口調で切り出した。キャロルが色めき立つ。真夜中なので騒がないのを自制しているのが横からでも分かった。
「今まで調べていたの? だれ。三大貴族のだれ。神殿は、クペルマームは、宮廷魔道士は」「オキシスマーム・ポラム・アクレモ・マドリーム四世」
断言した。
「マドリーム国王がラスティアに協力し、王の名において貴族と神殿を動かしている。マドリームそのものがラスティアの支配下だ」反論や質問を生じさせない、てきぱきとした口調でミサスは説明した。
「影踊りは古代マドリームを支配していた豪族に負けて永遠の忠誠を強制された。豪族はエアームから逃げてきた貴族に負け娘を差し出し今のマドリーム王家に連なる。忠誠の対象はマドリーム国王と王家だ。以外の命令は聞かない。古文章で確認してからすぐに王城に押入って文章を奪った。過程でリタはじめ影踊りが手出ししようとしたので、話を聞いて追いはらった」
「おい待ってくれ、早すぎる! それが本当だとしたらマドリーム自身が俺たちをつけ狙っているんだぞ、なんでだ!」「見返りはマドリームの繁栄。人間がとうに忘れていた影踊りの支配を伝え異界の文明と技術を教える。成功すればマドリームの地は草木が覆い、異界の武器を持つ軍隊は世界最強となる」
俺の頭に農園がひらめいた。日本の最先端農業と同じことをしている畑。国から任されたって言っていたっけ。
「命令は足止め。春になるまでなんとしてもエアーム帝国へ行かせないこと」「全部嘘だったと言うの? クペルマームも国王も、なにもかもが」
なんで俺たちをとっ捕まえて牢屋に閉じこめる代わりにそんなまどろっこしいことをしたのか。
今のミサスを見れば分かった。キャロルならどんな牢屋でも脱出するし、無理だとしてもミサスが逃亡でも城ごと破壊して逃げ出すでも、好きなようにできる。力づくは駄目だ。にこやかにようこそと言われたら反撃ができない。見ろ、秋から今まで長居し続けていた。ラスティアの狙い通り春までぼんやりしていたかもしれない。
「信じられない。ミサス本当なのね」ミサスは床に落とした紙の山へ屈み、大きな布を広げて見せた。共通語がびっしり書き並んだ布は俺以外には効果絶大だった。みんなうめいた。なんて読むのか身構えていた俺へ、イーザーが親切にも手間を省いてくれた。
「署名…… マドリーム国王、国中の貴族と十神殿全部が王に忠誠を誓い、ラスティアのために全てを投げいって働くのを約束する、署名だ!」きっとミサスは分かっていた。
嘘だろと叫ぶイーザーがもう信じているように、ここまで明確な証拠を持ってこない限り俺たちがすぐに信用しないこと。今すぐ行動しないと命取りになること。だから容赦なく分かったことを突きつける。
黒翼族の足元にうず高く重なっている紙の山は、悪意を飲みこんでおとなしく座っていた。