三つ首白鳥亭

−カーリキリト−

1. 赤毛の薬師

人は悪事をしなくても、時に人から追われ必死ににげることもある。

24年生きてはじめて理解しました。しかも直接身にしみて。

「とまれっ!」

後ろの革鎧と短弓で武装した兵士が叫びます。もちろんとまりません。もし彼らに捕まったらどうなるのか見当もつきませんが、きっとよいことはおこらないでしょう。職務を忠実に行おうとしている彼らには気の毒ですが、わたしだって十分不幸なのですから我慢してもらいます。

追っ手の気配を痛いほど感じながら、前へ前へと集中します。今は逃げることだけを考えないといけません。聞こえるのは愛馬の蹄とわたし自身の荒い呼吸のみです。風景がすばらしい速度で後ろへ流れます。よく晴れた空が目にまぶしく、夏の終わりをまだ感じさせない街道の緑が輝きます。こんな状況でなければ立ちどまってながめたでしょう。道の反対側で、同じく馬に乗った旅人と一瞬すれ違いました。

速度が速度です。顔はもちろん姿かたちもろくに見ることができません。それなのにわたしは思わず叫びました。

「ミサスッ!?」

相手がわたしの声を聞こえたのか分かりません。もちろんどう反応したのかさえも見れませんでした。すでに旅人ははるか遠くです。

真偽も疑念もあっという間に走りさってしまいます。のこるのはただはげしい鼓動音のみ。あせりと疑問で今にも破裂してしまいそうな心臓の音のみでした。


わたしはザリ・クロロロッド。水竜神神殿で薬草の研究をして生計を立てています。数年ほど前から薬草の分布を調査するため、愛馬黒海(くろうな)とともに根無し草の生活をしています。多少の山谷はあったものの今まで平穏にすごしてきました。

そんな人生の中で今最大の山場をむかえています。フォロー千年王国に入ってしばらくしたら、いつのまにか犯罪者扱いされて追いかけられるはめになりました。血沸き肉踊る面白い状況といえないこともありませんが、当人であるわたしはちっともうれしくありません。

実のところ、わたしに追われる心当たりはないわけではないのです。その時は悪いことをしているつもりはありませんでしたし、今でも悪いことだとは思っていません。それでも武器を持ち馬にのった兵士に追いかけられるのですから、世の中とはかくも非情です。

「っ!」

目の前に大地のさけ目と、かろうじてかかっている橋が見えました。橋は粗末で古く、大きな黒海がわたったら落ちてしまいそうです。さいわいに距離はありませんでした。わたしは手綱を引き、黒海は応じました。

こんな状況だというのに、空を飛んだかのような心地よさでした。視界がひろがり豊かな森が全視界に広がります。橋にたよることなく裂け目をこえます。

反対側に着地すると急いで黒海からおり、肩かけかばんから小刀を取りだします。

橋と地面をむすぶ古い縄を小刀で切ろうとしました。ふだん草木しか相手にしない小刀はさすがに縄を切るのは無理がありました。あきらめて背負い荷物の中から山刀をだします。普段使っていないので奥のほうから取りだすのは時間がかかりました。ふだんならたいして気にもしない時間なのですが、今ばかりは勝手が違います。全力で数回ふりおろすとようやく綱は切れ、橋は崖の反対側へとたたきつけられました。

「これから先、ここを通る人ごめんなさい」

先に謝っておきます。かなり距離はかせいだはずでしたが、橋を落とすのにてこずったせいか2頭のひずめが聞こえてきます。急いで黒海をひき、ともに岩陰にかくれました。今さらながらに立っていられなくなり、心臓を押さえながらしゃがみます。

ひずめはとまり、男たちが話しあう声が聞こえました。内容は小声でよく聞こえません。様子をうかがいたくても、ここにいることがばれるのではないはと怖くて身動きが取れません。数秒が何時間にも感じられます。もしうまくいかなかったら。わたしの考えている通りに動いてくれなかったら。

しばらくしてひずめの音が2つ遠ざかっていきました。わたしはしばらく動けずに、荷物を持ったまま硬直していました。今さらながらにどっと冷や汗がふきだし、前髪を額にはりつかせます。

うまく行きました。彼らはもういないものとあきらめて帰っていきました。大きく息をはいてのけぞり、目を閉じます。

彼らがいなくなったとはいえぐずぐずしている暇はありません。安全になったわけではないのです。動かないと、行かないと。はやくここから逃げて、それから。

まぶたの裏が暗くなりました。日が雲のかげにかくれたのかとわたしは目を開けます。

闇そのものであるかのような人影が、音もなく前にいました。

「あ……」

腰を落としたまま動けませんでした。逃げなくてはと思うものの身がすくみます。人影の背中からかげがはがれ落ちてわたしの前まできました。

手を伸ばしてつかみます。黒い、大きな羽根でした。からすにしては大きすぎる羽は手の中で消えもとけもせず、おとなしく存在していました。

やっと現実感が戻ってきました。冷静に事態を観察する余裕がわいてきます。

目の前の人物はずいぶん小柄でした。わたしは女性のわりに相当な長身なのですが、それをさしひいても小さいです。服も髪も目も黒く、そして背中には黒い羽根。

「黒翼族のミサス? さっき通りかかった」

返事はありませんでした。なにを考えているのかわからない無表情な目がわたしを見ています。

「傭兵魔道士のミサスよね?」

なにも答えてくれません。黒い羽根を背に持つ小柄な種族なんてそういないと思います。まちがいないとは思いますが、なんだか不安になってきました。

「手紙を。手紙をあずかっています」

かばんから封を厳重にした手紙をさしだすと、ようやく反応が返ってきました。なにも言わずに手紙を取り封をときます。表情はまったく変わりません。

この人は本当にミサスなのでしょうか。もしミサスだとしてもちゃんと理解しているのでしょうか。さっきのわたしの様子といい手紙といい、質問のひとつもでてもいいと思うのですが。

ミサスであろう人は手紙を閉じて返してよこしました。

「え? わたしに返されてもこまるわ」

かまわず無表情で行こうとします。思わず手をのばしました。

「待って、見てのとおりわたしは追われているの。カシュ−は、えっと手紙を渡した人からはあなたたちが守ってくれるって言っていたわ」

無視されました。途方にくれかけましたが、気を取りなおして黒海を引きミサスの後を歩きはじめました。わたしには行くところも追っ手から身を守る力もありませんし、まさかミサスも目の前で人が襲われているのを見たままということはないでしょう。楽観的な意見であるのは承知の上で、文句を言われないのをいいことにミサスについていきます。今のわたしにはそれ以上の手段は思いつきませんでした。

いつのまにかつかんでいた黒い羽根を、無意識に肩かけかばんの中へ放りこみました。


なぜわたしは追われているのか。ミサスという人物をどうして知っているのか。

そもそもの原因は、ある人物の頼みを聞いたからでした。

フォロー千年王国。世界一古い歴史と王朝をほこる古都です。もちろんわたしは仕事の一環としてこの国にきたのですが、それでもついでの観光を楽しみにしていました。

首都フォロゼスの一角にある情報屋で宿をとり一人で夕食を食べていると「厩につながれている黒馬の持ち主はあなたと聞いた」聞かれました。

「そうですけど」

口にふくんでいた根菜を飲みこみ、わたしは顔をあげました。

大きな男の人でした。背丈だけではなくがっしりした体格です。戦士か軍隊の人かと推理しました。

「実に見事な馬だ。あれだけ立派な馬は王城にもそうはいまい。それに毛並みといい目の輝きといい主の品格がうかがわれる。十分に愛し世話をしているのだろう」
「あら、やだ、そんな」

照れてしまいました。たしかに黒海は自慢の愛馬ですが、ここまで面と向かってほめられたことはありません。王城にもというのは大げさかもしれませんが、そう言われるのもそう無理はありません。

わたしの故郷草原国ファナーゼは馬の一大産地です。ある部族で冬を過ごした時、医師のまねごとをした礼としてもらった馬です。王族にすら売れるよい血統でしたが、あいにく身体が弱く成長できるかどうか分からなかったので与えられました。立派に成長した今となっては国王直属の騎士が持っている馬にだってはりあえます。もっとも調教師としてのわたしの腕が悪かったのか、わたし以外の人間は背に乗せませんしふれられることさえ嫌がります。

「そのすばらしい馬の持ち主に頼みがある」
「なんでしょうか」
「ある人に手紙を届けてほしい。礼は十分なものをする。あれほど立派な馬ならさぞかし速いだろう。どうか頼まれてくれないだろうか」

少し考えました。この人物は礼儀正しく誠意があります。服装も立派です。わたしとしてもフォロゼスに長居するつもりはありません。わたしの目的は薬草調査であって観光旅行ではありません。

しかし、なぜわたしなのでしょうか。黒海はよい馬ですが、わたしは情報屋ではありません。手紙をとどけることへの専門職ではないのです。絶対にとどけられるとは思いません。

それに、もしわたしが悪人で、手紙をよこどりしたり中を見たらどうするのでしょうか。わたしと彼は初対面です。彼が一目でわたしを見ぬいたとは思えません。大切な手紙をそのように気軽にたくせるのでしょうか。どうもおかしいです。

「いいですよ」

それにもかかわらずわたしがうけおったのは彼が必死だったからです。死に物狂いといってもいいでしょう。一見冷静にしている裏になにがなんでもという意思を見ました。わたしに頼むなんてなにか内緒にしていることがあるようですが、きっとそれは悪い理由ではない、どうしようもない事情があるのでしょう。

「ありがたい! 届けてほしい者たちは」
「ザリ」

途中でさえぎり、わたしは立ちあがりました。

「わたしはザリ・クロロロッドです。あなたの名前は?」

カシュ−と名乗るその人物の頼みを聞いたのはまちがいだったかもしれないと、わたしはフォロゼスの大通りを歩きながら後悔しました。

フォロゼスです。千年王国フォローの首都です。ミサスの後をついていったら再びこの長い歴史をほこる大都市に戻りました。

カシューに頼まれてフォロゼスを出発してからろくなことがありませんでした。兵に追われますし怖くてその日から宿もろくにとれません。とどける5人組は非常に印象深い組み合わせでした。黒翼族とエントなんてそこいらで見られるものではありません。それだというのにちっとも手がかりはありませんでしたし、ようやく見つけたミサスはわたしに対して見事に反応がありません。いまだにわたしはミサスの声を聞いたことがありません。しゃべれないのかとさえ思いましたが、言葉を使う魔道士に限ってそれはないでしょう。単に話しかけてくれないだけです。それはそれでさみしいですが。

「どうしてフォロゼスに戻るの。あの手紙にはなんてあったの?」

兵に見つからないかびくびくしながらわたしは聞きます。ミサスに同行してからというものの今のところいるだけで注目され追われることはありません。偶然探している兵にであわなかったのか、それとも一目はミサスに集中していてわたしまで気を配る暇がないのか。

案の定返事はありませんでした。ため息をついて周りを警戒します。この人にかわってなにかあったらすぐに対応しないと。なにせ大都市フォロゼスです。なにが起こるのか、だれに見られているのかまるで分かりません。

「ミサス?」

すんだ声にわたしは身体をふるわせます。

「だれっ!」

気負ってふりむいた、そこにいたのは子どもでした。

12歳くらいの女の子です。髪は黒く、動きやすそうな半そで半ズボンで人なつこそうににこにこ笑っています。肩には手のひらに乗るほどの小さなピクシーがのって興味深そうに、多少は警戒心を持ちながらわたしを見ています。

異様さに凝視しました。千年王国では妖精などは珍しくはないと聞きます。わたしも小さな妖精ピクシーを見たのはこれがはじめてではありません。おかしいのは女の子のほうです。どう見ても普通の元気のよい子どもですが、このミサスと知りあいで気さくに話しかけることがふに落ちません。ごく普通の女の子がどうして黒翼族の青年と知り合いなのでしょうか。

「ミサス!? 本当に? なんでここにいるの?」
「いいじゃんシェシェイ。私もここで会えるなんて思わなかった。ミサスもアットくんを助けにきたの?」

助ける? おだやかではありません。女の子はミサスの手を取ろうとしましたが、ミサスは無表情のまま避けました。シェシェイと呼ばれたピクシーはあんぐり口をあけますが、女の子はたいして気にもせずにわたしへ向きます。

「こんにちは、私はアル・グラッセ。ミサスのお友だち?」
「え」

友人といえるのでしょうか。いえないと思います。まだ一回も声を聞いたことさえないのに。

「わたしはザリ・クロロロッド、薬師よ。ミサスとは、仲間かな」

とてもあいまいな表現でした。いいのでしょうか。ミサス本人が否定も肯定もしなかったのでよしとします。

「そっか、それじゃあ一緒にやろう! こんなところでミサスに会えるなんてすごく運がよかった、絶対にアットくんを助けようね!」

なんだか赤の他人ですと言った方がよかった気がしてきました。

「アットくんってだれ? 助けるってどういうこと?」

やだなぁとアルはわたしを軽くたたきました。

「フォロー千年王国のアティウス殿下だよ。ラディーン現フォロー王国国王の反逆罪で今お城に幽閉されているからなんとかするの」

なるほど、それでアットくんですか。

などと思っている場合ではありません。今とんでもないことを聞いてしまいました。血の気がひく音を聞きました。


これ以上のこみいった話はとても公道ではできませんでした。わたしたちは情報屋へかけこみ、だれにも聞かれないように個室を取りました。

まずわたしからです。わたしの話をするとアルは目に見えて失望しました。当たり前でしょう、わたしだって大それた問題にまきこまれているなんて思いませんでした。

「どーするのさ、アル! みんな話しちゃったよ、国家反逆のこと話しちゃったよ!」

ピクシーは慌てふためいたようにアルの周りを飛びまわります。可憐な妖精のはずなのに旅人のような簡素で実用的な服装のせいでとても幻想的には見えません。ただただ子どもが慌てふためいているだけに見えます。

「落ちついてよシェシェイ、どうしようもないじゃん。話したものはさ」

それはそうです。今さらここで逃げるわけにもいきません、すでにあらましは聞いてしまっているのですから。それにしても子どもとは思えない態度です。

「落ちつけないよっ、どうしよどうしよ」
「いいから飛ぶのやめてってばぁ。じゃ、今度は私の話ね」

果汁を混ぜた飲み物を一口すすってからアルは切りだしました。

「私はアル・グラッセ。アティウス殿下の友人だよ」
「シェシェイ、ピクシーでアルの友だち」
「アティウス殿下や、ミサスとどこで知り合ったの?」

一番のなぞです。アルと名のる女の子はいささか平然としすぎている風ではありますが、ごく普通の子どもに見えます。どこで王族や異種族と知りあえるのでしょうか。

「アットくんは王弟になる前にあった。アットくんとお兄さんのラディーンはもとはただの貧乏貴族だったの。裏路地でごろつきにからまれているアットくんを通りかかった私が助けたのがきっかけ」

ずいぶん勇ましい女の子のようです。今よりもっと幼いときからそんな武勇伝を持っているなんて。よほどの怖いものしらずか、それとも嘘をついてからかっているのかのどちらかでしょう。

「冒険者見たいなことをしたり色々なところへ一緒に行った。その後王位のごたごたでラディーンが王になって、アットくんも今は殿下だけど友情は変わらないよ。アットくんもそうしてって言っている」
「それ、人間の特徴としてはまずいんじゃない? 身分を大切にしないと社会をわたっていけないよ。ぼくはピクシーだからいいけど」

シェシェイが肩からもっともそうに説教しますが、アルは聞いてさえいません。

千年王国フォローの最近の王位に関するごたごたはわたしも聞きおよんでいます。普通なら考えられないほど遠い親戚が選ばれたそうです。

その知識からするに、説明がまるきり嘘だとは思えません。しかしそれにしても国王陛下をよびすてとはあんまりではないでしょうか。

「そのとき一緒にいた仲間のひとりが今アットくんに頼まれて探しものをしているの。イーザー・ハルクっていう剣士。もちろんイーザーだけじゃなくて何人かの友達と一緒。ミサスはそのひとり。ねぇミサス、イーザーは? アキトとかキャロルはどこ?」
「そうそう、ウィロウも」

ミサスは黙っていました。アルなんていないかのようにふるまっています。わたしは不快になりましたが、アルもまたなにもたずねなかったかのように「それでね」と続けます。

「6日前くらいかな。アット君が反逆罪で拘束されたってうわさで聞いたの。すごく驚いた。私の家は首都から少しはなれた街なんだけど、一目散にきてなにがあったか調べたの。あ、シェシェイは興味半分おめつけ役半分でついてきた」
「アルのお母さんの頼みで」

強調するように身をのりだします。シェシェイの決意は立派ですが、率直にいって当てにできそうには見えません。アルより小さいピクシーにできることは多くなさそうです。

「詳しいことはふせられているけど、王位奪回の手紙をほめのかした手紙が告発されたの。言いだした人はアットくんが信頼していた学者でね、もう間違いないってことになった」

乱暴にマグカップをおきます。驚いたシェシェイが軽く飛びあがりました。

「信じない。アットくんははめられたんだ。絶対にアットくんはそんなことをしない。そのうち裁判が開かれるだろうけど、その前にアットくんじゃないって証拠を見つけだす。どうしてもだめっていうなら忍びこんで逃がす」
「アル!

それって危ないよ」
「分かっているけどでもやる。友だちだもん。シェシェイも協力してね」
目がすわっていました。本気にしか見えません。「うへ」シェシェイがうんざりしたように舌をだしました。もっとこまったほうがいいと思います。

「友だちを、助けるためね」

アルのやさしさに心から感動しました。友だちのために国家反逆の大罪にいどむだなんて普通ではとてもできません。

思わずほほえみながら、内心暗い気持ちになりました。

人は変わるものです。アルよりざっと10年以上生きているわたしとしては、アティウス殿下が本当にはめられたのならいいと思いました。もしも本当に謀反をおこそうとしたのなら、そしてそのことが分かったならアルは深く傷つくでしょう。

「ザリ、疑っているでしょう」
「げほっ」ふきだしました。
「アットくんが本当に謀反起こしたって思っているでしょう」
「よく分かったわね」

わたしはかくしごとが苦手のようです。分かっていることですがこんな子にまで見ぬかれるなんて。

「顔に書いてある。言っておくけどそんなことないからね」
「でも、万が一」
「ない。だっておかしいもん。

もしアットくんが権力をほしいんだったら王位を狙わずにフォロー議会に立候補すればいいんだよ。この国で行政を行うのは議会だよ、もう王様なんて張りぼて、かざりにすぎない。決まりでは王は議員になれないけど、王子なら議員になれる。アットくんは魔法や学問にずいぶん保護と援助をしてきた。立候補するなら学者と学問の水神殿が支持する。アットくんが議員になるなら、王とも深いつながりがある強力な若手議員になれる。20年くらいもすればフォロー政治の中心にだってなれる。20年だよ、その時アットくんは30代、信じられないくらい若い。こんな速い権力の道があるのに、どうしてわざわざ傀儡の王にならなきゃいけないのさ」

わたしはアルを甘く見ていたようです。この背の低い女の子はわたしより鋭く、情に流されずに世間を見ていました。

「ごめんなさい」素直に降伏しました。「なら殿下が王位を狙うことはないのね。どうやって疑いをはらすの?」
「実はね、とびっきり強力な味方がいるから、協力してお城に行って探す」
「どうやってお城にしのびこむの? 勝手に入りこめないでしょうし厳重な警備がしているのでしょう」
「前にアットくんに城の抜け道について教わったの。そこからしのびこむ。ミサスもついてきてよ。ミサスの強力な魔法があれば百人力、だれにも負けないからさ」

無言でミサスは立ちあがり、部屋からでて行こうとしました。

「ちょっと待って。ミサス、返事をしなさい。どこへ行くの?」

無礼がすぎます。いかにもつかみやすそうな羽根をつかもうとし、流されるようにかわされました。扉が閉まります。

「アル、急ぎすぎたんじゃない。もっと丁寧に頼まないと」
「しょうがないか。いきなり協力なんて虫がよすぎるしね」

座ったままマグカップをかたむけました。去るものは追わない主義のようです。

「予想してたの?」
「なんとなく。前会った時もミサスは話さず関わらずだったし。私まだミサスの声聞いていないんだよ、信じられる?」

だれにでもあの態度のようです。一体なにを考えているのでしょうか。

「もともと偶然会ったんだし、いいか。一緒がいやなら計画通りにやるよ」
「なにか手伝えることはない?」

はっきり行ってわたしは無関係です。それでもここまで話を聞いた以上なにもなかったことにして帰るのは薄情というものでしょう。この見かけよりずっと大人びたアルのためになにかしてあげたくなったのです。

「本当!」

アルは顔を輝かせました。

「ならお願いがあるの。えっと、まず待っていて。城に入らないと分からないことがあるし、情報屋で私の名前で待機していて。1日したら連絡をよこすから、その通りにして。いつでも動けるように支度してね」
「ええ、分かった」

不安と緊張で口の中が乾いてきました。鼓動がはやくなります。アルは「大丈夫だよ!」邪気のない笑いを向け、シェシェイは複雑そうな顔でわたしとアルを交互に見ていました。

ひょっとしてわたしは厄介払いされたのかもしれない。

一人情報屋で半日すごしてようやく思いあたりました。ピクシーのなにかいいたそうな顔は暗に悟っていたのかもしれません。

だれに指摘されるまでもなく、わたしは自分が戦いや隠密調査といった経験がないことは分かっています。それらが得意な人々の中に混ざったら足手まといになるでしょう。

ならばアルがわたしを暗にどけたことについて理解はできます。ですがそのような気づかいをしなくても。ずっと年下の女の子にそんな扱いをされたらやさぐれてしまいそうです。せめてはっきり「なにもしなくてもいい」と言ってくれればいいのにと、明るくない気分で夜をすごしました。

翌朝になっても昼がむなしくすぎてもアルからもシェシェイからも連絡はきません。いじけるのをやめてアルのことを気にしてすごしました。夜になってもこないので本格的に心配しはじめました。

いくら幼い外見に不相当な、しっかりしているとはいえまだ子どもです。国家や王位をめぐる陰謀の中に飛びこむのには幼すぎます。そもそもアルは調査や捜査などをできるのでしょうか。わたしとにたりよったりの素人さんだけど、友人を心配するあまり行ってしまったのならどうしましょう。

無事でしょうか。ちゃんとご飯は食べているのでしょうか。つかまったりひどい目にあっていないでしょうか。心配はとどまるところをしらず、わたしはいても立ってもいられませんでした。

翌朝になってもなんの音沙汰がありませんでした。

なにかあったにちがいありません。わたしは覚悟を決めました。

わたしも行きましょう。こっそり城に潜入して、危機的状況にあろうアルとシェシェイを助けます。


腹はくくったものの、実際にどうすればいいのかとなるとさっぱり分からないのが素人の悲しさです。

まず強制突破は絶対にだめです。命がおしいので却下しました。

秘密の抜け道もいけません。わたしは知りません。こんなことなら聞いておけばよかった。後悔するもののどうしようもないことです。

荷馬車の荷の中にまぎれこむのはどうでしょうか。残念ですが商人が即座に通報して終わりでしょう。

外へ買い物などをしているお城の侍女を脅して衣装を入手し、着て城にもぐりこむ。なんの罪もない人を誘拐や追いはぎなどしたくありません。

お金で密偵をやとって侵入。わたしは優秀な密偵の知りあいはいませんし、大金にも縁がありません。

あれこれ考え、わたしは単純な方法に頼ることにしました。

水神殿に行って城つきの薬草師について聞き、彼と会うため紹介状を書いてもらいました。これで堂々と城に入ることができます。

水竜神は学問の守護者。もともとわたしの直接の指導者ブロウ先生もまた水巫女で、神殿関係者から便宜をはかってもらえるよう紹介状を書いてもらっています。それを見せて調査のためにどうしても必要だと主張しました。先生の名前をだいなしにしないといいのですが。

城に行って紹介状をだし、入れてもらうよう頼みました。手配がまわっていないか不安で胸が痛くなりましたが、命令はそこまでいっていないようで不満そうに案内されました。反逆劇が起こっているのにそれ以上面倒なことはごめんといいたそうです。もっともです。その上実はさらに面倒を起こそうとしています。真面目に働いている人々に対し申し訳なく思います。

粗末な一室に通されて待つよう命じられました。おとなしく待つつもりはありません。人の気配が遠ざかるとすぐにこっそり部屋を出ました。

さて、どこを探しましょうか。幅も天井も広く、堂々とした廊下を歩きます。巨大すぎるせいか人気はそうありません。

これから使用人や下男一人一人にこんな女の子は知りませんかと聞いてまわらないといけないのでしょうか。大変そうです。アルはたしか味方がいるといいました。その味方と接触するのもいい考えでしょう。しかしわたしはそれがだれなのか知りません。

勇みあまって城へきたのは短慮だったのかもしれません。わたしがひときわ大きな、鉄格子がついた扉を横切りながら反省します。今からでも部屋に戻ってなにごともないかのように学者を待ったほうがいいかもしれません。

いえ、まだなにもしていません。せっかくここまできたのです、なにかしないと。

考えてふと立ちどまります。遠くのほうで騒いでいる声がします。

ひょっとしてわたしがばれたのでしょうか。だとしたらまずいです。あわてふためきどこかへ逃げようときびすを返しました。

「そこの人間の女」

凍りついたかのように動けなくなりました。全身が彫刻になったかのようにすくみます。

「ザリ・クロロロッドだな」
「え」

わたしの名前です、心臓がはじけました。追っ手。フォロー市街地でも城門でもとがめられなかったのにどうして今になって。逃げないと、そうは思うものの足はまったく動きませんでした。ぎこちなく首を動かします。

小柄な青年でした。人間ではありません。耳の先端はとがり、背中にとんぼのような羽を持っていますので一目瞭然です。妖精の一種、フェアリーでした。最近は有翼種によく出会います。

自分のことを棚に上げて、どうしてフェアリーがここにいるのか疑問に思いました。この世は人間だけのものではありませんし、人間と非人間、どちらが多いかというと後者です。それでも人間の国、千年王国の王城にフェアリーがいるのは珍しいことです。

「あ」

疑問に思っている場合ではありません。せきを切ったようにわたしは走りだします。行くあてなどまったくありませんが、ここにいるよりはいいことが起こるでしょう。

「だぁ、待って待って、フィルは味方だよ、味方!」

わたしを通せんぼするかのように小さな人影が飛びだし両手を広げました。

「シェシェイ!?」
「静かにぃ!」

あわてふためいたようにわたしの手をつかみ、フィルまでもどるように引っぱります。小さなピクシーの力なんてないも同然、シェシェイがどんなにがんばろうと腕を持ちあげることなんて到底できないのですが、必死さにわたしはつい引っぱられてしまいます。

「僕はフィル、アルの味方だ。とにかくこっちへ。ごたごたは望むところじゃないだろ」
「でもフィル、なにか聞こえるよ。騒いでいる。ねぇザリ、見つかったの?」
「見つかっていない。でもわたし、堂々と正面から入ったから、いないのが分かったのかも」
「なに、それ。どういうこと?」
「後にするぞ。とりあえずどこかにかくれて」

フィルは先ほど通りかかった鉄格子つきの扉までくると、「シェシェイ」鋭く呼びかけます。

「まっかせて」

フィルの手から耳かきのような器械をつかみ、鍵口にさしこみました。シェシェイの両手を広げたほどもある棒を飛びながら数回動かします。あっけなく鍵が開く音がしました。何年も何十年も動かされていなかったようなきしんだ音をさせて扉は開きました。

「なにがあってもでないように! いいね!」

ぴしゃりと言い捨てて、わたしとシェシェイを入れると扉を閉めました。わたしはなにが起きたのか理解が間にあわず、ぼんやり立ちすくみます。

「危なかったねザリ。フィルなら大丈夫、なんとかしてくれるよ」
「わたし、助かったの?」
「うん。あ、でも奥いこ、奥。ここにいたらまずいかもよ」

ピクシーに髪を引っぱられ、わたしは部屋を見上げて歩きだします。

忘れられた武器庫のようでした。戦争に使うような小型の投石器、大きな剣や盾。その昔はぴかぴかに輝いていたであろう鎧はさびだらけでした。振りまわせるかも分からないようなメイスの横にはわたしが知っているものよりはるかに大きいクロスボウまでありました。平穏な今では必要がなくなった武器の墓地でした。

「うっわぁ、物騒だね。人間ってば武器が好きなんだね」
「わたしも人間なのだけど」
「うん、知っているよ。ザリはこういうの使わないよね」
「わたしの先祖なら使ったのかもね。わたしの祖国ファナーゼ草原国は千年王国フォローの支配下だったものの、戦争をして独自の国を立ちあげたから」
「それ知らなかった」

迷路のように散乱した倉庫をおぼつかなく歩きます。奥には外へ通じる小さな窓がひとつあり、のぞいてみると申し訳ないほど小さな中庭が見えました。ひなたぼっこでしょうか、青白い顔をした男が見えます。

「見つかっちゃうよ」
「ああ、ごめん」

緊張の後、このような時が逆行した空間へつれてこられたせいでしょうか。気がぬけて座りこんでしまいました。小さな窓から太陽の光がさしこみ、長い間人通りがなかったせいでつもったほこりが舞うのが見えます。

「でも信じられない、なんでザリここにいるの?」
「なにが、どうなっているの?」

心からの疑問です。「それ聞きたいのはぼくなんだけど」わたしの目の前まで飛びふくれっつらをしながらも、思いだすように話します。

「あのフェアリーな人はフィル。アルの協力者で、情報屋だよ」

情報屋。世界中に支部を持ち、情報収集、金融事業、馬借を行っている巨大組織。旅人や冒険者の頼もしい味方であり、人々のいこいの場であり、そして下手な小国よりも上回る力を持つ組織。しかし中立を基本とする情報屋が千年王国の王位騒動に首をつっこむ理由がわかりません。

「フィルは情報屋とは関係なくわたしたちを助けてくれるの」
「まっさか。アットは日ごろから情報屋となかよしさんだったの。大きな仕事をいくつも回したし金払いもよかったんだって。だから建前はともかく真相の調査はしないといけないし、陰謀だったらはらして借りを作ったほうが今後有利。そういうわけで情報屋の本部がフィルとかほか数人を派遣したんだって。内部の事情に詳しいアルにちかよったのもあっちからだった」
「中立はどうしたの」
「それはそれ、これとは別。いちいち中立つらぬいていたら滅んじゃうよ、その辺はとろけるように柔軟にしないと」

いいのでしょうか。よくないと思うのですが。

「ザリやミサスのことも話しちゃった。だから名前知っていたの。でもここまでくるとは思わなかった。ミサスはともかく、ザリ素人なんだし」
「アルは無事なの? 連絡がないから心配してきたのよ」
「ええっと。うん、無事。問題ないよ」

困ったようにわたしの周りを飛びまわります。

「実は、連絡するって言ったけどさ、だんだん面倒になったし、やることとか確認することたくさんあるし、少しだけ放っておいても大丈夫だと思ってなにもしなかったの。ごめんね、まさかここまでくるなんて思わなくって」

やはり子どもと妖精です。わたしの立場がまったくないではないですか。

「シェシェイ、実はわたしに協力してほしいことなんてなかったでしょう」
「あ、なんだ分かっていたの?

ごめん、実はそう。だってさ、なにをしてもらうっていうのさぁ。戦えないし、魔法も使えそうにないし、よその国の人だから城に入ることさえ一苦労だし。でもそういったら悲しむと思って」
「ほっとかれるのも悲しいのよ」泣きますよ。

「ごめんごめんってば。許して、機嫌なおして」

猫のようにわたしにすりよってきます。われながらちょろいもので「もう」ふくれるだけにしておきました。

「今どこまで分かったの?」
「人に聞きこみしたりアット君の周りを調べているうちにね、情報屋の人たちもアットが謀反を起こしたより罠にかけられたのだろうと思うようになった。でも証拠がないの。情報屋とアルが話しあってその人たちを逆に引っかけてやることにした」
「引っかける?」
「いかにもそれらしい状況を作って、犯人がのこのこ出てくるのを待つの」
「危なくない?」
「危ないけどてっとりばやいよ。情報屋の人も賛成してくれて色々協力してくれるって。損はないし、中立といっている以上表立って動きたくないみたいだから都合がいいの」

あまりいい気はしません。情報屋がたかだか子どもと妖精をかくれみのにしている気がします。「あ、これ他言無用ね」釘をさされましたがいまさらだれに言えというのでしょう。

「アルが主張している通り、アットの部下の法学者が罠にはめた。まちがいないとは思うけど理由がわからないんだよね。まさか個人的にうらみがあったわけじゃないと思う。アットはそこまで憎まれる性格じゃないし、ただ虫が好かないだけで王子様殺そうとする人はいないだろうしね。人間の王制よく分からないけど、それなりには大切にされているよね?」

実のところわたしも王制にはなじみがありません。ファナーゼでは土地ごとに部族や豪族がいて、彼らが政治を行っています。国全体の方針は族長が話しあって決めるので、中央集権の王という考えはわたしには縁がうすいのです。でもシェシェイが思っているよりは重要な存在でしょう。

「変なんだよね。王宮内の争いか、他国の介入かでアルと情報屋の人たちは長く話しあった。国を混乱させようというのならもっといい方法があるだろうし、だれがなんのために行ったのかまるで分からない。アルはアットの疑いを晴らすのが第一だろうけど、情報屋は背後関係のほうをずっと知りたがっている」

ずいぶん難航しているようです。だんだんシェシェイはわたしに話しているのではなく、自分の疑問点を整理するために口を開きました。

「なにかわたしにできることはない」

つい声をかけてしまいました。われながら相当なお人よしです。なお協力しようと考えるなんて。

「なにもしないで」

こっちを見さえしませんでした。

「調べ者はたくさんあるし、情報屋の人は心底信用できるかというとそうじゃないし、もうピクシーの単純明快な頭じゃさばききれないほど考えることがあるの。これ以上変なことが起きてほしくない、なにも引っかきまわさすにじっとしていて」

ひどい言われようです。結果的にはそうですが、わたしだって迷惑をかけようと思ってしたことではありません。

扉が重い音を立てて開きます。わたしはぎょっと固まり、シェシェイはわたしの頭にこしかけました。

「フィル、終わった?」
「うん。ごまかしてきた」

だれも見ていないのを確認してから入ります。

「言ったじゃないか、シェシェイ。ほったらかしにするのはまずいって」
「だって、まさか1日ほうっておいただけでここまでするなんて思わなかったんだもん」
「まったく、どうやって城から逃がそう。もう時間だっていうのに」
「どうせここから見物するつもりだったしいいじゃん。夜までここにいてもらって、それからこっそり逃がしたら」
「それが無難だよな。もう」

本来世俗とは無縁なはずの妖精は、大変俗っぽい内容を話し頭をかかえます。

「時間って、なんのこと?」
「シェシェイから話を聞いた? そこの窓から中庭が見えるだろ、茶番劇がはじまるよ」
「そうそう、ぼくたちそれ見にきたの。万が一なにか会ったらぼくが助けにはいるんだよ」

シェシェイは無邪気に小さな窓を指さしました。なんのことか分からずにのぞきこみます。無人の中庭にいくつか人影が出てくるところでした。大きい影と小さい影、2つは対立しているようでなにかを言いあっています。小さいのが優位でしょうか。

「あれは」
「法学者とアル」
「えっ?」
「見えないの? そりゃ遠いけど」
「うん、見えない。目が悪いの」

わたしの目は悪いです。ひどい近視と乱視で、裸眼だと足のつめさえ切れません。以前もらっためがねをかけてやっとものが見えますが、それでも普通の人より視力は悪いです。確かにいわれると小さい人影はアルに見えます。青いですから。

「目の前にそんなガラス置いているから悪いんじゃないの? それがあると目立つし、取っちゃえば」
「だめ、これで視力補正をしているの。ないとシェシェイの顔も見えないのよ」
「なんでなんで。魔法の道具なの」
「そんなもの」
「ちょっと黙っていて、静かにして」

フィルがきっぱりとめました。う、すみません。

「なにをやっているのかしら」
「はったりと引っかけ。ゆさぶりをかけてなんとか証拠になるようなことを引きだしたいんだ」
「アルひとりで?」
「いざとなったらぼくでるって。ピクシーだもん。それにアルは風使いとしてなかなかだよ。なにかあっても逃げられる」
「そうだったの」

風使い、つまり風の精霊使いだったのですか。

なるほど、精霊使いとしての能力の半分は生まれ、両親の精霊使いの能力によって決まります。たとえ扱う技術が未熟でもおぎなえます。あの年でも大人と肩を並べて行動できる理由のひとつが分かりました。精霊使いの力は年齢に左右されません。

大きい人影は懐から球状のものを取りだしました。

「なんだか、ぼくが見ていなくても大丈夫みたいね」
「シェシェイ待て、あれはなんだ」

アルらしい影は驚いたように身を引きます。お互いの表情までとても見えないのが残念です。シェシェイが俊敏に鉄格子をつかみ身を乗りだしました。

「シェシェイ、姿が見える」
「それどころじゃない、なにあれっ」
「あれ?」

にぶい反応をするわたしの前で、球体が突如ふくらみ巨大化しました。まるで血のように毒々しい赤で、人の内臓によく似ていました。それは持ち主をたやすく飲みこみ、見る見るうちに中庭全体を飲みこみます。青い芝生も丁寧にかりこまれた樹木もへし折られおおわれました。

「アル!」

驚いているアルの前に、シェシェイが落下するよりも速く飛びつきました。顔に体当たりをし、ようやく正気づかせます。

肉片がうごめき、ひとつひとつがわたしの腕ほどもある触手がはえてアルへ襲いかかりました。アルはなにかをさけび、触手は剣などどこにもないのに鋭敏な刃物で切られたように落ちました。きっとかまいたちです。はじけるようにきびすを返し逃げだしました。さいわいにアルとシェシェイのほうがまだはやいです。

「あれはなに!?」
「知るかっ。いや、待て、聞いたことがある。与太話でだけど」

そこまででした。急にふくれあがった肉片はここの窓までたっしました。2階の、地上からはるか遠いここまできてこの古い武器庫へ窓から雪崩のようにあふれきました。

「きゃああぁ!」
「ディスポーザー!」

わたしは悲鳴をあげて逃げようとしました。フィルはとっさに手を合わせて共通語でない言語を叫びます。手から光線が一直線に飛びます。肉の焼け血が煮えるいやなにおいがします。

「ディスポーザー!?」
「召喚士がよぶ異界の怪物。はてしなくふくれあがり周囲を全部吸収する」
「それで、どうすればいいの?」
「分からない。倒し方も元の世界にもどす方法も知らない」

それではどうしようもありません。

「とにかく逃げよう。ここからでて外へ」
「そうね、それしか思いつかない」

油断してはいけませんでした。フィルの魔法は魔物を焼き打撃を与えましたが、それで満足してはいけなかったのです。

ディスポーザーが動きをとめたのはほんの数秒でした。臓器のように脈打ちうごめくと、急激に窓をつきやぶり壁一面を侵食します。触手が何本ものびわたしたちへむかいます。

「なっ」

わたしはもともと逃げようとしていたので、ディスポーザーからかなり離れたところにいました。ですから触手は見当違いの方向を走り、つんであった武器の山をくずしただけです。

フィルはちがいました。せまりくる無数の触手に近すぎました。とっさに避けようとレイピアをぬき後ろへ飛びます。1本2本でしたらフィルも回避したと思います。荒事に関わる情報屋らしい、無駄のない動きでした。しかし触手は無限でした。左胸、右の頭、腹を同時に打たれ、声にならない悲鳴をあげてふきとびました。まるで人形を壁にたたきつけたかのようなあっけなさでした。

「フィル!」

とっさにフィルへかけより、その細い二の腕をつかんで肩に回しました。

「大丈夫!?」

大丈夫でないことは分かります。自力で立って逃げることもできないでしょう。せきこもうとしてせきこむ力がないフィルをかつぎ、引きずるように走って扉を力任せに開けました。扉は重く、フィルを担いでいないほうの肩でぶつからないと開けることができません。肩が痛みましたが、恐怖と混乱でとてもかまってはいられません。

廊下は、おそらく城全体がそうであるように恐慌状態でした。悲鳴が聞こえ下働きや使用人、さらに本当なら戦うはずの兵士までもがやみくもに走り逃げようとします。

わたしも逃げないと。でも、どこへ。わたしはこの城についてなにも知りません。どこに逃げれば安全なのかさっぱり分かりません。

目的地もろくに分からないまま歩きます。右肩には肩かけかばん、左肩にはフィルを支えやみくもに歩きます。たった今までわたしが立っていた武器倉庫の入り口からディスポーザーがあふれ肉片がべちゃりと座りました。

「フィル、どこに行けば知っている? どうすれば安全なの? 答えて!」

あれくるう悲鳴の中、フィルの返事はありません。あったのかもしれませんがわたしには聞こえませんでした。

悲鳴をあげる女中に足をふまれます。押され倒れかけます。気がつくとすぐ後ろにディスポーザーがせまっていました。恐怖でわたしは筋道立った考えができず、ただただ魔物から逃げようと走りました。目に熱い涙が浮いてきます。なぜこのようなことになったのでしょうか、どうしてわたしはこんなところにいるのでしょうか。

無意識のうちに、わたしは人気のない方向へない方向へと進んでいたようです。いつのまにか悲鳴が聞こえなくなり、せまい廊下を一人で走っていました。振りかえるともうあれは見えませんでした。その瞬間足から力がぬけて転びました。ディスポーザーは消えたわけではない、はやく逃げないとまたくるというのは分かっているのに、足がどうしようもなく震えて立つことができません。壁に爪をたててしがみつき、ようやく立つことができました。

ここはどこでしょうか。涙をぬぐいふるえをなんとか押しとどめようとします。何回のまばたきの後ようやく周囲が見えるようになりました。窓も扉もない通路で、床にぶあついほこりがつもっていました。ずいぶん使われずにいた道のようです。曲がり角へ身体をひきずるように進みます。

顔をあげて角の向こうを見ます。古い、もう何十年も使われていないような石の扉がありました。手がかりがまったくない、こちらからは開けられない扉です。一目で一方通行の道だと分かります。

「いけない」

道を間違えたのでしょう。ここからは入れません。歯がみする思いでわたしは後ろをふりむきます。もどらないと。

そこにいます。さっきまでいなかったはずなのに。

廊下一杯にそれはあふれ、ゆっくりとこちらへ侵食してきます。ちと肉のむきだしの怪物は、音もなくわたしたちへ迫っていました。

立とう。わたしはしました。自分が重すぎてとても立てません。壁に爪をたてて起きようとします。転んであごを打ちました。見ると中指の爪がありません、はがれてしまったようです。あらためてよく見ると10の指すべてに血がにじんでいました。気づくととたんに激痛が走りました。

「痛い」

はいつくばって奥へと逃げます。怖くて痛くてろくに呼吸もできません。うんざりするほど遅いです。

遅いのはフィルを支えているからです。おいていけばもっとはやくなる。一瞬思った自分を恥じました。

後ろからディスポーザーがせまります。飲みこまれたら、追いつかれたらどうなるのでしょう。考えるだけで不自然なほど身体が震えます。

扉まで永遠のように長い距離でした。まだ爪が残っているほうの指で身体を支え、扉を横へと力をこめます。開きません。

「っ」

わかっています、手がかりがないということはこっちから開けることを想定していないということです。それでも唯一の希望を持たざるをえませんでした。恐怖にかられて後ろを向きます。肉片はすぐそこまでせまっていました。指先が痛く、これ以上立っていられずに腰を抜かしました。

後ろへ下がります。すぐに背がつきました。石造りの扉が、けしてこちら側から開けられない扉がわたしたちを通してくれません。

「開けて……」

扉にすがりつきます。肩で支えているフィルはまったく反応しません。完全に気絶したのか、それとも。

「開けてっ」

にぎりこぶしで開かない扉をたたきます。力をこめ過ぎて手が赤くはれます。爪からの痛みが噴出しうめきます。それでもたたきます。ほかにどうすることもできません。

「助けて」

なぜわたしはここにいるのでしょうか。どうしてわたしはこのような目に会っているのでしょうか。

数日前まではちがいました。のんびり植生についてしらべ、珍しい薬草に目を輝かせていました。それなのにどうして。

「お願い、扉を開けて。フィルとわたしを助けて」

怖いです、恐ろしいです。涙があふれ震えがとまりません。死の幻をわたしは見ました。こんな、故郷から遠くはなれた見知らぬ地で、怪物に飲みこまれて死んでしまうのでしょうか。いやです。わたしはもっと生きていたいのです。

「開けてぇ!」

寄りかかっていた扉がきえ転びました。すさまじい力で腕を取られ引きずりこまれます。

「!」

同時におとなしく迫っていた触手もわたしへなだれうってきました。光かがやく魔法の矢と火球がわたしをかすめて飛び触手を焼きはらいます。すかさず扉は閉まりました。