冬華の朝の一連の行動は、朝食を食べることで終わる。
白いご飯に卵とたまねぎの味噌汁。菜っ葉と昨日の残りのおから、切り身の魚を焼いたもの。米と野菜は無農薬、卵も放し飼いの健康な鶏を飼っている農家の方と仲良くなって購入したものを、いかにもおいしそうに食す。純和風の朝ごはんはこの時代にはかなりの贅沢だった。冬華が今座っている居間から察するに経済状況は裕福と言うわけではなさそうだから、何かこだわりがあるのだろう。
冬華がいかにも幸福そうに食事を頂いていると、そこいらに放っておいたすすけたロングコートのポケットから発信音がした。冬華は箸を置いて端末を取り、耳に当てる。
「はい。だれ?」「よう、冬華。俺だ」
端末から聞き慣れた低い男の声がする。冬華の仕事場の相棒の声だった。
「アセスか。何?」「仕事だ。今日の昼1時、いつもの喫茶店で依頼人と会わせる」
「どんな仕事?」
「今までのよりははるかにましだ。でも悪いが、そう大したこともなさそうだな。詳しい話は後だ」
冬華の長い前髪の向こうの瞳が軽く細められた。
「了解」冬華は端末を切って、朝食に戻りつつ部屋の片隅へ目を走らせた。前日手入れをしていた愛用のライフル、ソーサラーズ社のライトニング15が無造作に置いてある。
冬華は唇を笑みの形に歪めた。
2093年、戦争は終了した。生物・化学兵器や核兵器、オーパーツを含む超兵器の使用により北米、オーストラリア、地中海沿岸が消失して、地球最大の規模の第四次世界大戦が終わった。
そしてふと気がついたら、世界はとても生き物が住めない状況になっていた。主な原因は核、反物質による攻撃で大量の塵が成層圏にまで運ばれて、いわゆる核の冬が訪れたことだが、副要因として異常気象や突然変異の化け物の出現、人工変異のバイオウエポンの野生化、土壌・水源の汚染、食糧不足、テロ活動等などが挙げられる。
人類はその数を数千万の単位に減らした。冬華を代表する戦争後に生まれた者としては、全滅しなかっただけでも凄いものだと思っている。
現在人間が住める所は、世界に13ある100万人収容規模の大型シェルターのみ。
人が空を見捨てて、100年は経とうとしていた。
愛用のすすけた薄手のロングコートを羽織り、冬華はアセスと待ち合わせているコーヒー専門店へのんびり歩いていた。肩に大きなかばんの重みが食いこむ。猫毛の柔らかい髪が速めの歩調に合わせて揺れた。空を見上げると、青く塗られた天井が見える。空らしく見せ開放感を高めるための効果だそうだが、これしか見たことのない冬華にはなんともいえない。
双琉冬華は日本富士シェルター第9階層の住人で、何でも屋を職業として選んでいた。
何でも屋というのは、文字通り何でもする職業のことだ。それこそ掃除から探偵もどき、ひどい時には軍人の真似事まで。危険な職だし、安定した収入や平和な暮らしというものからははるかに遠いが、それでも冬華はこの職業の転職を考えてはいない。
にぎやかな街のある曲がり角を曲がり、奥ゆかしく古ぼけた木の扉…… に苦労して見せかけた合成樹脂の扉を開けると、コーヒーの芳醇な香りが漂う薄暗い店内が見える。その奥で気配に気づいたのか、白い手が上がった。
「よう」「アセス」
富士シェルターの住民には珍しい白い肌と緑の瞳の、斜に構えた青年が冬華を待っていた。冬華は迷わずに彼の向かい側の席につく。
「マスター、いつものコーヒーを。それで、仕事って?」冬華は手早く注文し、アセスに向かい合う。この西洋人について、冬華は仕事上の相棒でありながら、過去をよくは知らない。せいぜいアセスはライプチヒシェルターの出身者、としか理解していなかった。どうしてここに着たのか、なぜ何でも屋をやっているかについては全く冬華は理解していないし、するつもりもない。それぞれ事情があるものだ、ぐらいの認識だった。
もっともその代わり、現在のアセスについては深く知っている自信もまたある。冬華にとって1年以上にわたって付き合ってきた相棒だった。
「人探し、だよ。行方不明になった兄貴を探してくれだとさ」アセスはそう言って、タバコに火をつけた。紫苑の煙が薄暗い店内に漂い…… すぐに冬華によって没収される。冬華は皿にタバコを押し付けて消し、アセスを冷たい目で見る。
「わたしの前で、タバコはすわないでって言っているでしょう?」「ちっ、固い奴だな、んなつまらない事を言っている奴は2流だぜ?」
「アセスこそ、タバコは身体に悪いって言っているでしょう。鼻や舌の感覚が鈍り注意力や知覚力が落ちる、食事もおいしくいただけない、いい事なしだ」
「飯なんて、食えればいいんだ」
「食事は全ての命の根源、それを軽視する事は命そのものを軽視することになる。第一、アセスがどう思おうと勝手だけど、私も巻き込むな。タバコの煙は広がるんだ、隣で吸われたら、おいしいコーヒーが台無しになる」
「うっせぇな、ったく」
2人がそんな事を話しているうちに、冬華の前に水出しコーヒーが運ばれた。冬華は香りをかいで、ゆっくりすすり、「それで?」と続ける。
「それで、とは?」「話の続きだって」
「ああ、そうだったな。2年ほど前に兄貴が失踪をしたから、それを探してほしいんだとよ」
「2年? そんなに時間がたっていたら、探すのは難しいんだけど」
シェルターに覆われたこの世界は、過去のように進歩しない。ゆっくり時が進んでいく。しかしそれでも、2年はそれなりの月日だった。消えた人間が人々の記憶にとどまるには、いささか危うい時間。
「まぁ詳しい事情は依頼人さんに聞いてくれや。待ち合わせているから、そろそろ来るぜ」アセスの言う通りだった。しばらく、つまり冬華の手の中のコーヒーカップの中身が半分ぐらいになるところで、依頼人らしい女性が店に入ってきた。
きちんと紺のスーツを着込み、綺麗に髪をまとめているその女性は、いささか崩れたロングコートの冬華と対照的だった。年は冬華より少々下、と言ったところだろう。丁寧にお辞儀をして、冬華とアセスの前に腰掛ける。
「近藤栄子です。あの、貴方方が何でも屋さんですね」「ええ。わたしは双琉冬華、こっちはアセス。よろしく」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
冬華は近藤がコーヒーの注文をしてから、おもむろに口を開いた。
「早速だけど、仕事の話に移るね。失踪とだけ聞いたけど」
「はい」
近藤嬢は落ち着いた―言い換えれば生気のなかった表情を硬くして、1つ頷いた。
「兄の失踪の原因を調べてほしいんです」「兄は近藤正治。富士大学卒業後、バイオテクノロジーのクリエイト会社という所に勤めていましたが、2年前に失踪しました。死んだ、と警察は判断しています」
「失踪? どういう状況で?」
冬華はコーヒーを1口すすりながら聞き返した。
「兄は同僚2人とともに会社で突然姿を消しました。最後にいた研究室は滅茶苦茶に荒れていて、血痕が床一面にべっとり残っていました。警察では強盗と判断しました。まだ犯人は見つかっていません」「話を聞いた限り、なんも変な所はないな。で、俺たちにその強盗を捕まえてくれって言うのか?」
アセスは流暢な日本語を披露した。俗語まで使えるほどアセスは日本語がうまい。
いえ、と近藤は首を振った。
「その失踪の真実を突き止めてほしいのです。何が原因で、このようになったか、誰がこの事件を引き起こしたのか」その口調に冬華は不審と疑惑を感じた。明らかに、近藤栄子は警察の見解を疑っている。
「何がおかしいと感じているの? 警察の調査が不満?」そう言ってから、冬華は満足していたらわたしたちの所には来ないよな、と苦笑した。そもそも警察は忙しい。閉鎖されているシェルターでは、治安の安定が重要な意味を持つ。些細な事件でもすぐに解決しなくてはいけない。そのため、どうしても拙速の気がある。
「3人とも遺体すら残らなかったんです。強盗犯が死体を持ち帰るわけはないじゃないですか」「死体愛好家だったんじゃねぇのか?」
「そんな訳ないでしょうが」アセスに冬華は正確な突っ込みを入れて考え込んだ。確かにそれはおかしい。
「死体もなく、後からそんな説明だけされても、納得できません。何かがおかしいんです。その何かを突き止めてほしいのです。そのために2年かかって、何でも屋を雇える分のお金を稼ぎました。出来ますか?」
「いくつか質問してもいい? 近藤さんは、正治氏の失踪の真相を知りたいんだね?」
「はい」
「もしそれが誰かの陰謀で、正治氏が殺されたのだとしたら、どうする?」
「それは…… 警察に届けます」
「そうか」敵討ちには参加せずに済みそうで、少し冬華は安心した。戦闘の腕には自信があるが、積極的に参加したいとは思わない。戦いとは命を消費する場だし、冬華はまだまだ人生が惜しかった。
「ですから、兄が死んでいるとしたら、その証拠を持ってきてほしいのですが」
「妥当だな」
アセスは偉そうにふんぞり返った。
「依頼内容は分かった。今日の夜、引き受けるかどうかを伝えるから、連絡が取れるようにしておいてください。近藤さんの連絡先と勤め先をここに書いてください」「はい。……よろしくお願いします」
冬華の藤色の手帳に書き止めから、近藤は一礼をして立ち去った。口をほとんどつけていないコーヒーはもう冷めていた。
―近藤が立ち去った後、アセスは冷たい笑みを唇に浮かべて冬華を見る。
「さて、どうする、相棒」「引き受けてもいいと思うよ、わたしは。でもその前に、裏を取らないと」
いざという時の保険も頼るべき企業もない何でも屋には慎重さが求められる。企業が自分の不始末を何でも屋に押し付けて消す、と言う事もありえるのだ。足をすくわれないため、危険が想定される依頼は慎重に吟味する。
そのために何を使うか。人と人のつながり、コネクションだった。
「私は全の所へ行く。アセスは警察のフローレンスへこの事を聞いてみて」
「おいおい、俺だけ大変じゃねぇか」
「全は最近、またバイトが変わったから、それを探すことから始まるんだよ、こっちの方が大変だ」
「へいへい、分かりましたよ相棒」
「それじゃ」
冬華はコートの端をつかんで立ち上がり、さっさと店を出た。
コネという物は日本語で縁故関係を意味する。平たく言うと、お友達の輪を利用して必要な情報や権利を得ることだ。後ろ盾がない一匹狼の何でも屋にとって、このお友達の輪は大変重要となる。
そして冬華のお友達は多かった。ハッカー、警察官、軍事関連、武器屋などなど、何でも屋をする分において完璧である。もちろん友達同士、こちらからも色々面倒をかけられる事もあるが、お互い様だった。
「えっと」連絡を取るために人気のない寂しい通りに移動し、端末で全の足取りを追いながら、冬華はつれづれとそんな事を思っていた。
全は冬華の2番目に仲の良い友人である。ふらふら職場を変えるフリーターの青年で、しかもその事を冬華に全く連絡しないので、会いたくなる度冬華に職場に連絡をして足取りを追う。面倒といえばこれ以上面倒なことはないが、そうまでして会う価値はあった。色々な職業をしているせいか、全は異様なまでに情報通なのである。
「今回のクリエイト会社とやらを調べるには、まさに最適…… あ、もしもし? こんにちは、お聞きしたいことがあるのですが。はい、そちらで働いていた全さんの事で…… いえ、これは下の名前ですけど」電話をあちこちにすること数回、ようやく冬華の古くて大きい端末から聞き覚えのある声がした。
『こんにちは、冬華』「探したぞ、全…… 早速だけど、聞きたいことがあるんだ。食事でもどう?」
『乗った』
ついでにもう1つ、全は情報提供代が安かった。食事一回分で何でも話してくれる。
「よし。なら、夕方にそっちに行くよ。待っていてね」『分かった』
冬華は電源を切った。現在の時間は3時。時間は余っていた。
ここで仲間思いの心優しい何でも屋ならばアセスを手伝うために連絡を取るだろうが、冬華はそれほど心優しくはなかったし、1回任せた仕事にちょっかい出す気もなかった。街をふらふらしても面白いとは思えなかったし、1回自宅に戻るか、と冬華は思いかけて、ふと歩みを止めた。
(囲まれている)
いつの間にか、冬華の手はロングコートのポケットの中にもぐりこんでいた。中にはソーサラー社の携帯用拳銃『エネルギーボルト05』が無造作に放りこまれている。威力よりも形態性、隠密製に優れたそれを冬華はいつでも出して撃てるように握る。
(依頼の件か、それともどこかの恨みを買ったか)
周囲には人影どころか物音すらも遠い。ここで揉め事やそれに通じる流血沙汰が起こっても、外からの介入が入るのは時間がかかるだろう。それは多少派手に動いても安心、と言う事にもなるが。
「出てきたら? もう分かっているよ」どちらかといえば、冬華は待ちに入るより、攻めの行動の方が好きだった。覚悟を決めて呼びかける。それに答えて、冬華の目の前に物陰から2人の男がそろりと出てきた。みすぼらしい服にこの世界をふてくされて横目で見ているような目。手には安っぽい、しかしよく切れそうな刃物。
「……ただのごろつきか、かっぱらいか」どこかで恨みを買って襲われている訳ではなく、単に不運だったらしい。冬華は自分の後ろにも目をやった。もう2人足音を忍ばせて―少なくとも、忍ばせているつもりでいる。数の暴力は強い。特に単体では力の弱い者にとってはよく当てはまる。冬華は不幸より今まで気が付かなかった自分のうかつさを恨んだ。4人の暴漢にまんべんなく囲まれながら、どうしようかと頭をひねる。
結果的には彼らをひねりつぶす事は冬華には出来る。いくらなんでもナイフよりは銃器の方が強いし、1対1でもみ合いになったらそんじょそこらの男には負けない自信もある。しかしその後が問題である。いくら治安が悪いといっても銃声を響かせたならそのうち警察が来る。冬華は呼び止められて職務質問をされたくはない。なぜなら背中に背負ったライフルの説明がはなはだしく困難だからだ。このようなものを常備する職業の代表にテロリストと殺人鬼が挙げられる。どちらに取られても間違えられたくはなかった。さらにポケットには拳銃、それ以外にも冬華は色々な武器、刃物、火器を持っている。善良な一市民には到底思われないだろう。
ちなみにロングコートは防弾、耐火、衝撃にも強く、その下には隠密製に優れた胴着を身に着けている。衝撃耐性の端末といい救急医療セットといい、今すぐ銃撃戦に巻き込まれても全く問題なかった。「常に万全の状態でいろ」昔傭兵学校で世話になった講師の言葉だが、それが原因で別の厄介ごとに巻き込まれることまでは教わらなかった。
(銃なしで4人は厳しい。しょうがない、口先でごまかすか、さもなくば一箇所を突破して逃げる)
結論を下し、冬華は周囲を見回した。「何の用? 金ならないよ」
嘘ではない。日頃の美食と重装備がたたって、冬華の懐は常に秋だった。今もせいぜい夕食代と少ししかない。
「なら身ぐるみはいでもらおうか。その背中のでかい荷物もだ」財布を渡せ、程度なら冬華は応じたかもしれない。何せ軽い財布だし大した現金は入っていないのだから。しかし背中の荷物は困る。れっきとした商売道具でもあり、多額の金をかけてもいる。
「冗談。これはあんたたち4人分よりも高いんだ」「嫌とは言わせねぇ。無理にでももらう」
もちろん、冬華は最後まで聞いていなかった。後方にいた比較的近い男へ詰め寄り、のど元へ肘打ちを体重をかけて叩きつける。そしてもう1人の迫り来るナイフを避けて首をつかみ、普通の方向とは逆へ押した。そして男を放り出して、反対方向へ走って逃げる。
「っ、待て!」「誰が待つか!」
とはいえ、背中のライフルは重く、大した荷物を持っていない男たちはそれなりに速かった。おまけに冬華が手首をひねった相手はひねりが不十分だったらしく手を押さえながらもついて来る。3人に追われる事は想定外だった。
(速くどこか安全な所に逃げ込まないと。しかし安全な所なんてあるのか?)
そんな路地に入ったのは冬華だ。誰の責任でもない。角を曲がって、冬華は辺りを見渡した。周囲は皆住民が逃げた、あるいは見捨てたかのように崩れそうな家々が立ち並んでいる。そう見えても人は住んでいるはずだ、民家に逃げ込んでさらに騒ぎになりたくはない。その中で冬華は一番手入れが悪い、小さな店らしき場所に飛び込んで逃げた。覚悟していたほこりの代わりに、前の住民が焚いていたのか知らない香の香りがする。冬華は入り口近くで身を潜め息を詰めた。
乱雑な足音が近づいていき、そして離れる。足音が聞こえなくなって、ようやく冬華は立ち上がった。
改めてみると、全く変な店だった。店長が放置して間もないのか、ほこりはそれほどないし店の品物も売り払われていない。色とりどりの鉱物のアクセサリ、カードや何か植物の根、手をかたどったろうそく立て、商品はおかしな物ばかりだ。
「やれやれ。何の店だったんやら」「占いですよ」
冬華はとっさにポケットの拳銃に手を伸ばした。うかつにも、人がいたとは気が付かなかった。
「誰」「それはこっちの言葉です。どなたですか? 客にしては変な入り方ですね」
これで営業中だったのかと、冬華は変な事を思った。
声からするに男だが、その姿は男性とも女性ともつかない。まるでサリーのようなゆったりした布に身を包み、薄いヴェールをかけている。ヴェールの下からは緑なす黒髪が河のように豊かに流れていた。奥の薄暗い所でほとんど身じろぎもせず手元のカードで遊んでいる。その呼吸は瞑想でもしているのかと思うほど静かだった。気配が分かりにくい訳だと冬華は自分をごまかした。そして男は自分の前に3枚並んでいるうち、1枚のカードをおもむろにめくり、冬華にも分かるように見せる。
「タロットカード。ご存知ですか?」「いや、あまり。占いに使う物でしょう? と言う事は、貴方は占い師なんだ。こんな時代に古臭い……」
占い師が提示したカードは気味の悪いカードだった。中世ヨーロッパの鎧を着た髑髏が馬に乗っている。その馬の前にはひざまずく人々の姿があった。しかし向きが逆である。
「何、これ?」「これは現在、最も新しい過去の貴方です。そもそもタロットカードという物は、昔ヨーロッパで遊びの道具として発達した物です。22枚の大アルカナと56枚の小アルカナより成り立ちますね。一般的に大アルカナはよく知られていますよ」
「私は占いや超自然現象の類は信じないの」
「そうですか? 職業上、信じてほしい物ですね」
占い師はカードを分かりやすいようにひっくり返した。
「これは13番の死神。意味は分かりやすいはずですよ、「死」です。災害、損失、破局。それを意味するカードです」丁寧に占い師はそれをひっくり返す。
「しかしこれは逆位置、反対に出ました。これはその意味も逆になった事を示します。危険の回避、死には至らない病気。貴方は何か小さな幸いから逃げようとしてここに飛び込んだのですか」冬華は思わず居住まいを正した。
「カードから読み取りました」どうです、信用していただけましたか? 女顔負けの麗しい笑顔で占い師は冬華を見上げる。
「いや、全然」剣もほろろ、冬華は一蹴した。自分でも笑顔に内心自身があったのか、占い師は笑顔のまま軽くこける。
「驚いたけどよく考えたら観察眼があれば分かる事でしょう。息を切らせて人が飛び込んでじっと隠れていれば、誰でも追われているって分かる」普通は分からない。冬華は脳みそが荒事に向いているのでこのような発想になるのだろう。占い師は笑顔を消して、自分の左側のカードに手をかけた。
「でしたら、今度は別の物を見て見ましょう。今私が分かるはずのない物です」占い師がめくったカードは手前に白と黒、2頭の騎乗動物とその後ろで動物の綱をひいている人物の姿が描かれていた。
「戦車のカード。貴方は過去、手ひどい失敗や挫折をしましたが、たくましくそれを乗り越えたようですね。戦車の意味は征服者。2頭の馬は人の心にある悪と善を指します。王たる強者はそれらを強い力で操らないといけません。厳しい状況での勝利のカードです。貴方はどこに追い詰められても消して引かず、闘志をむき出しにして立ち向かっていく者です。その逆境の中での輝きは直視できないほど。違いますか?」「間違ってはいない」
「では、少しは信じてもらえましたか?」
「さっぱり」
穏やかな笑顔がまた凍った。無駄に胸を張って否定した冬華の態度から、心底ひとかけらも信じていないのは明らかだった。
「貴方も頑固ですね」「何言ってんだか。貴方がやったのは占いではなく推理でしょう。この世に失敗していない人間なんていないし、私がいわゆるたくましい人間だって事は態度と話し方を見ればすぐ分かる。私みたいな若い女がもめごとに巻き込まれてこんな風に動くのだから気合と闘志はあって当然でしょう。占わなくても分かるわよ」
立て板に水。占い師は心なしか後去った。
「貴方タロットカードに何か恨みでもあるんですか?」「特にない。科学の恩恵に常にあずかっているからその立場に立っているだけ」
「分かりました。では私も占い師としての意地があります、貴方の未来を見てみましょう」
冬華はあざけるように顔をゆがめた。占い師は鋭くそれを見据える。
「貴方、今馬鹿にしましたね。未来なんて未だ来ていない物だから何とでも言えると思ったのでしょう」「よく分かったね、その通り」
「では、保険をかけます」
「保険?」
前もって外れたときのためにあらかじめ言い訳しておくのか? 冬華は意地悪く考えたが、占い師は冬華を無視して最後の右側のカードをめくった。
良くない結果だと言う事は冬華にも分かった。占い師の表情に後悔がよぎっている。
「何が出たの?」
どんなに信じないといっても興味は湧く。冬華は前から覗き込むようにしてカードを見た。
天まで届くほど高い塔が描かれている。しかし塔は稲妻により破壊され、人が塔から落ちている。嵐のような暗い背景といい、落ちていく人々の絶望的な表情といい、見ているこっちまで暗くなりそうなカードだった。
「塔のカードです。神への挑戦として高い塔を作った人間への罰。天罰のカード。意味する物は災害、破局、危険。近いうちにひどい災害に襲われるでしょう。急に状況が変わり、危機に陥ります。そして何か大切な物を失うでしょう。それでも貴方は立っていられるのでしょうか」「……口先だけなら、なんとでも言えるからね」
冬華は帰ろうとした。機嫌が悪い。いくら信じていなくても面と向かってそう言われたら腹が立つ。その足元に、紙切れが舞った。
「待ってください。保険をかけると言ったでしょ。貴方にそのカードをお貸しします。2、3日したら戻って返してください。当たらず、馬鹿馬鹿しくなって来なかったら私の負け、カードを失います」冬華はカードを拾い上げた。足元にイヌを連れた青年が、崖っぷちだと言うのに空を見て歩いている。天には太陽が輝き、小さな荷物1つでやけに楽しそうに歩いている。冬華はふと紙の上の青年が羨ましくなった。冬華は太陽を見た事がない。ドームの外に出て空を見た事がない。あるのはぶ厚い雲のみ。
「これは?」「0番、愚者のカード。トランプのジョーカーの元ですよ。お貸しします。幸運をもたらしますよ」
「冬華」
「ん?」
「双琉冬華。わたしの名前」
「私はフォーチュン。ちゃんと当たったらカードを返してくださいよ」
「分かったって」
冬華はカードについても占いについてもさっぱりだが、この占い師がカードを大切に扱っている事は分かった。それを冬華に預けるのだから、よほどこの青年に意地を晴らせたのだろう。冬華は少し、申し訳なく思った。
「お願いします。情に駆られて、不吉な未来を見てしまいました。少ししても、貴方……冬華さんが生きている事を確認したいのですよ」「それって、わたしに命の危険があると言う事?」
聞き逃せない。冬華は接吻しかねないほど詰め寄った。フォーチュンは落ち着いている。
「ありえます。塔のカードですから。十分注意してください。けして焦らないで」「ちはっ、バッケン社の書籍配達便です、本をお届けに来ました、はんこ下さい」
緊迫した店内に明るい声が響いた。
「あ、はいはい、本はそこに置いてください、サインでもいいですか?」「はい、ここに」
今までの真剣さはどこへやら、よくある弱小店舗の事務手続きが淡々と繰り広げられる。冬華はちょっぴり真剣に対応した自分が恥ずかしくなり、長い髪をかき上げた。そして呼びかける。
「全」髪を青く染めている宅配便のアルバイトは冬華の尋ね人だった。どこにでもいそうな若いバイトは冬華を見て目を丸くする。
「あっれ、冬華さん、何でここに? 冬華さんが占いに興味があるなんて初耳だなぁ」「興味はない、ちょっとした事でここにいるだけ」
後ろでフォーチュンがむっとしたようだが、冬華は全く気にしなかった。
「それにしても奇遇だね。確か冬華さん、ぼくに聞きたい事があったんだよね」「うん、この配達が終わってからでいいから、食事に付き合ってよ」
「もちろん。冬華さんいいもの食べているから、一緒だと舌が肥えるよ。ちょっと待ってね、この家で最後なんだ」
うきうきと嬉しそうに全は本の手続きをして、端末で会社に連絡を取る。
「冬華さん、いいよ。今日の仕事は終わりだし、会社にはこのまま帰るって言ったから。行こう」「フォーチュン、これ、借りておくね」
冬華は愚者のカードを人差し指と中指で挟んで持ち、フォーチュンに見せるように上げてから店を出た。
「きっとですよ」返事は冬華が店を出た後で戻ってきた。