三つ首白鳥亭

 

不可視議都市

空気の圧縮音と共に、地下鉄のドアは閉まった。誰も乗客を乗せないまま、無人地下鉄道は静かに滑り出し、次の駅へと向かう。

駅のホームにも人はぼく以外誰もいなかった。時計のプラスチックの針は12と2の間で60度を創りだしている。ぼくは重いかばんを肩に改めてかけて、上着のえりを直して歩きだした。あちこち穴が開き、つま先とかかとが大きく削れたスニーカーの足音は空気清浄機の低い機械音と同じくらい静かだった。

50歩歩くごとに青い制服を着込んだ無表情の警備員と会う。ぼくが横を通り過ぎても見向きもせず、彼らは立ち続ける。ぼくはズボンのポケットから小さい紙切れを取り出し、無人改札口に入れる。改札機の緩やかな警備が解かれ、ぼくは駅から外へ出る事ができる。

外に出た途端、正面から来た突風によってぼくは一瞬息ができなくなった。短い髪が狂ったようにあおられなびく。前髪につられて空を見上げた。ぼくの身長の100倍はある超高層ビルが雲1つない浅葱色の空を映して、ぼくの背中にいくつもの影を作る。前を止めていない上着がビル風を含み、危うくぼくとここで別れるところだった。

古いせいで半分閉まらないかばんのファスナーを抑えて、風にあおられながらこの国の地図を取り出す。その辺でもらった小さいこの国の簡易的地形はあちこち青い印がついていた。ぼくは少し考えて、この国の真ん中より右にペンで大きく丸印をつける。風はちっとも収まらないけど、ぼくの方がビル風に慣れた。擦り切れてつぎはぎだらけの上着の前をつかんで、ぼくは歩道を歩き始める。

3月の日差しは暖かくて春らしかった。でも風が強すぎて体温を奪い、そのため上着を手放せない。3車線の道は清潔で塵1つ落ちていないけれども、肝心の車が1台も見当たらない。通る人間もぼくと警備員のほかは、スーツを着て黒いかばんと携帯電話を持った青年とすれ違っただけだ。高層ビルの1階に、暖かい朱鷺色と柑子色の色彩で構成された喫茶店があり、店員の若い女の人が無表情で店の外の風景へ顔を向けている。店には誰もいなかった。

歩く歩道に乗って動く風景を眺める。高層ビルはそれぞれ自分以外の風景を鏡のように跳ね返す。そのせいで三面鏡の中の現象があちこちで起こっている。けして中を見せない黒色のガラス窓はどこも同じ規定で作ったように規則正しく並んでいる。いつの間にかさっきまで歩いていた道が下になり、歩道はエスカレーターになってビルに沿って作られた空飛ぶ道に繋がる。

ぼくは顔を上げた。遠くに一面の硝子板の低い建物が見える。平べったいようなそれは黒いガラス窓は1つも使っていない。建物の内部は上から下まで緑色だった。常盤に翠、黄緑や裏葉、ぼくの知っている全ての緑色を透明な体育館にまいたらきっとああなる。ぼくは予定していたホテルへ続く道ではなく、すぐ隣にある下へ向かうエスカレーターに何の気なしに乗りかえる。

そこは温室だった。天井の硝子板だけ開け閉めできる仕組みの、温室としてこの世に存在している中では一番古い仕組みの建物だった。

入り口らしい扉の上には、文字が消えかかった看板が危なっかしく引っかかっていた。長い間雨と風と太陽にさらされた文字はその意図を失っている。かろうじて最後に植物園という意味を読み取れた。鍵はかかっていない。誰にも断りなく扉を開けて中へ入ってみる。中は外から見たのと同じように植物だらけだった。

硝子に守られて、ビル風はここには来ない。外より温度は高く、湿度はもっと高く、ここでは上着はいらなかった。ぼくは上着を脱いで、ぼくと同じ身長のサボテンにひっかける。

かろうじて歩ける道はあった。天から降りそそいでくる鮮やかな緋色の花をそっと押しのける。暖かな日差しの中で、何かの黄金色の果実が重く木の枝にしがみついていてしなだれている。足元は水をたっぷり含んだ土で、汚い靴がさらに汚くなる。

温室の中の一角のみが仕切られていて、低い天井と高い床の組み合わせが古い古い本やノートを守っていた。

その一角に擦り切れた毛布に包まれて、女の人が眠っていた。身長ほどもある長い髪が顔の回りでゆるやかに渦を巻き、深緑色の泥だらけのつなぎを着ている。そばには泥だらけの白衣が投げ出されている。白というより黄土色の白衣のポケットはペンやメモ帳、紙切れでどこも一杯だった。

温室は風が吹かないので物音1つしない。静寂の中、女性はゆっくり起き上がった。眼をこすり、しばらくぼんやり虚空を見つめると白衣を脱ぎ捨て起き上がる。奥にあるポットとボールを出して、ポットのお湯をボールに注ぐ。鈍い銀色の半円から柔らかい湯気が立ち昇る。女性はお湯で顔を洗い、長い髪を大雑把な1本の三つあみにあむ。そして顔を上げ、不意の侵入者であるぼくを見る。女性は口を開けた。

ぼくは謝罪の意味を込めて軽く頭を下げる。すぐに今来た道を引き返す。


翌朝、ぼくは予定通り27階のホテルの一室で目を覚ました。

起き上がって髪の毛をとかす。洗顔用ソープで顔を洗う。ホテルの部屋の入り口近くには昨日出していたぼくの服が綺麗にたたまれて置いてあった。袖を通す。ホテルの洗濯機と乾燥機は性能がいいらしいが、それでも散々着た汚れは取れない。

ホテルのベットの枕元にあるコードにぼくは自分の情報処理端末を差し込み、ひざに乗せて平べったいキーボードを叩いた。情報端末の中央上部にあるプラスチック板からぼくの目前にいくつもの立体映像を結んで展開した。

一番最初の項目は世界情勢。今日も世界は平常、異常なし。次に来た項目は総合教育機関からのいくつかの連絡事項だった。一番上に取得単位数と小さく書かれている。その数字の分子は200、分母は192だった。文字の色は緑色、卒業必須学業単位数は満たされている。全6年間の過程のうち、5回生むけの学内情報の羅列をぼくは指一本で消去する。昨日机の上に出したままだった地図をもう一度ぼくは見る。卒業まで後1年と一ヶ月。それまでにはこの国の地図全てに青いペンの印を描きとどめられる。

外に出る。道のあちこちに設置されているディスペンサーの1つから紙幣を数枚出して、かばんの奥深くにうずめる。ぼくの背後では紺色の服の人々が、何も喋る事もなく、高く靴音をホール内に鳴らして歩いている。それぞれ都市のあちこちの建物に彼らは入り、白い機械に囲まれて昨日した事を今日もする。

朱鷺色と柑子色の喫茶店でモーニングを頼み、にこやかな作り笑いを浮かべる店員の女性が運んでくるのを待ちつつ、ぼくは大きな硝子板を眺め、紺色の人々を肘をついて眺める。今現在の世界で都心と呼ばれているところはどこもこんな風景。高層ビルが立ち並び、その中には機械とそれを管理する少しの人間しか存在しない。その中でぼくは異邦者であり異端だった。ここで果たすべき仕事もない、なすべき用もない。本来は総合教育機関の白い敷地内にいるべきぼく。

朝食を済ませると、ぼくは外に出た。もう外を歩いている人はぼくしかいない。後は身じろぎ1つしない警備員と、上着とシャツをゆらすビル風だけ。正面からの強い風で、ぼくは少しよろめいた。髪が手でかき回したように乱れる。

ぼくは徒歩と歩く歩道を組み合わせて、昨日見たばかりの看板を確認する。硝子の扉は昨日と同じように鍵はかかっていない。

中は湿度が高いが涼しかった。水をまいたばかりなのだろうか。木も草も水滴が光り、春の強くなりつつある陽光をはね返している。土はいっそう黒く、歩くとすぐに靴に泥がはねた。

その中で、大きなカメラと三脚で樹を写している女性を見つけた。つなぎの上に白衣を着て、時々何かを手帳に書き記しながら三脚を調整している。ぼくの方を向いた。珍しい昆虫でも見かけたかのように目を丸くして2回目のふてぶてしい侵入者へ凝視する。声をあげる事も追い出す事も警備員を呼ぶ事もせずに、しばらく凍りついていた。ぼくが何もしないのを見て徐々に緊張を解く。

女性は手招きをした。ぼくは歩み寄る。女性の前のカメラにはサボテンの鮮やかに紅い花が写っていた。女性はぼくにはもう見向きもしないで、再びサボテンの写真へ注意を戻す。しばらくその場に留まる。やがて満足したのか、女性はカメラを取り外し三脚をたたむと両手に抱えるように持って歩き出す。初めに出会った広い温室内のわずかな人間の生活空間のすみに置き、デジタルカメラから小さいメモリーチップを取り出して、旧型の大きな情報処理端末に差し込む。さっきの写真の一覧表が低画質の画面に表示される。その中で女性は焦点がぼやけているものや余分な写真を削除して新規作成のフォルダに納めた。

次に自分の身長ほどはあるスコップを担ぐと、手押し車にビニール袋に入った3キログラムの肥料を2袋乗せて、車の手の部分をぼくに差し向ける。乞われるままにぼくはそれを取り、慣れた足取りで温室内のほとんどないような道を進む女性について行った。


外が薄暗くなる。夕日が高層ビルの陰に落ちていく。人工照明のない温室は明るいサンセットに染まる。女性は大きな蔓草を温室の屋根から滝のようになだれ落ちるように、ビニールテープで吊り下げて固定していく。ぼくは安定の悪いアルミ合金スチール製の脚立に軽く手をそえる。

若草色の蔓草はぼくの手の長さごとにつぼみがある。ぼくは何の気なしに卯の花色のつぼみを見上げていた。天が瑠璃色の色にすべり移る。女性が大きなため息をついて脚立を降りた。

ぼくの髪に水が落ちた。天井の水滴が落ちたのではなかった。霧のような細かい水が次々に落ちる。天井に数箇所設置されているスプリングクラーから降りそそぎ、雨のようにぼくをぬらす。

人工的降雨には慣れている女性が居住空間に逃げ込み、ぼくにタオルを投げた。ぼくがそれで髪の毛をふいている間に手帳に何かを記入して、小さなポットに水を注ぎ、調理プレートに向かう。大して時間をかけずに、軽食と香り高いお茶をいれて盆の上に乗せた。何も言われなかったが、ぼくはカップに手を伸ばす。

雨はすぐにやむ。温室から音が消える。明かりが一切ない温室だが、暗くはならない。周囲のビルは例え人が警備員しかいなくなっても煌々と蛍光灯をつけている。空には銀色の月が浮いている。ぼくは情報処理端末を開き、今日の世界の動きを見る。世界に異変はなし。今日もつつがなく物事は動いていた。ぼくはお茶を音を立てずにすすりながら情報処理端末を操作する。キーボードの小さい音の中、女性は身動きせずに若草色の蔓草を見ている。

無為に時間が過ぎた。銀の月が天の頂点に達して、白い光が温室にふりそそぐ。女性は立ち上がり、三脚にカメラを設置して蔓草にレンズを向ける。

ぼくは情報処理端末の立体映像を消去する。やっと卯の花色のつぼみがほころびかけているのに気がついた。

月光の下、つぼみは開いた。小さな花葉は純白で、僕の指ほどの長さもないほど小さい。蔦の花は次々に咲き、やがて全ての花が開く。明るい月に長い大きな影を落としながら花は咲き誇る。

女性は花から目をそらさない。ぼくは動けなかった。一番最初に咲いた花の花弁が蔓草から離れ、雪のように地面に落ちる。女性はやっとカメラのシャッターを切った。フラッシュは焚かない。

涙のように、花びらは静かに落ちていった。


ぼくが起きたのは、まだ太陽も昇っていない時間帯だった。温室は空の色の藍色を映している。女性は若草色の蔓草の前で立っていた。足元の花びらはもう全て枯れている。

ぼくは起き上がり、3回通った獣道を歩く。重いガラスの扉を開ける。途端に顔にビル風がかかり、ぼくは息を詰まらせた。

誰もいない都市を歩く。まだエスカレーターも歩道も動いていない。紺色の制服の警備員以外の生きる物は見当たらない。髪が春の風でくしゃくしゃになる。

駅の前に設置されているコードに情報処理端末をつなぐ。今日も世界は平常、異常なし。

遠い空の端が透明な白に染まり始める。ぼくの背後でエスカレーターの稼動する機械音が聞こえる。朝が訪れる。都市が目覚める。

ビル風に背を押されて、ぼくは情報処理端末を閉じる。ぼくはエスカレーターに乗って地下鉄道へ向かう。

ぼくはこの都市を立ち去った。