空が暗い。
地味な農民の服をまとった少女は、今まで当たり前の事をたった今知ったかのように夕暮れの天を見上げた。
空が暗いのは重い雲が天に覆いかぶさっているからだ。夏も冬も、一年を通して空が晴れ渡ることは滅多にない。その事をずっとこの集落に住んでいる彼女は知っている。赤茶けた荒野には大地の恵みは薄く、かろうじて住んでいる集落の畑にもわずかな雑穀が実るのみだ。どうやらこの地には神々も恵みを与えるのを忘れたらしい。
世界の片隅で、少女はため息をついた。
「どしたの? ハーディ」
うつむいた彼女の前に、甲高い声と共に子供の顔が出現した。唐突といえば唐突なその姿に、しかしあまり驚きもせずに「麻」と、この地域では聞きなれない名前を呟く。
「ちぇ。何だ、驚かないの?」「さすがにね。こう何回もされたら、驚くを通り越して慣れちゃうわ」
ちなみに少女の本名はハーベスト・ソルだ。ほとんど省略形でしか呼ばれないし、本人もそっちの方が気に入っているが。
「意地悪」「意地悪で結構」
軽くハーディは舌を出した。ひょいと雑穀の海から少年が飛び出す。異国風の衣服をまとったその姿は正式な人間のものではなかった。腕から先や耳など身体のあちこちが人の物ではなく、狐のそれに置き換わっている。
この世界に住む者は人間だけではない。麻は獣人、木霊の一族だった。木霊の一族はこの地よりずっと西に住んでいるのだが、麻の家族が東へ東へと流れてきたらしい。麻自身、数年前人間しか住んでいないハーディの集落に幼い姿でふらりと訪れて、それからずっと当たり前のように滞在している。集落から出た事のないハーディにとって、唯一知っている獣人だった。
「何でもないの。ただ、景色が寂しいなって、そう思って」「今年も収穫がいまいちみたいだね」
麻はハーディのそばに寄り添った。もうすぐ夏が終わり、実りの秋が来る。しかし葉も穂も少ない雑穀たちは大した収量にはならないだろう。
「毎年こうだもの、わたしにはこれが普通だよ」「外ではこうじゃないんだよ」
麻はその諦めた口調が不満らしい。口を尖らせた。
「ハーディも知っているだろ? 外では、一面緑なんて珍しくないし、僕だって森に住んでいたんだからね。たくさん樹があって、生き物もいて、何にもない所を見つける方が難しいところだよ」「うん、知っている」
ハーディはしゃがんで土をすくった。軽く目を閉じる。
「教えてくれるもの。大地が」「そっか」
麻は肩をすくめた。ハーディは大地の精霊使いだった。精霊使いとは風、火、水、土などの力を生まれつき扱うことができる人々のことだ。血族によって決まり、数は少なく、存在自体が珍しい。実際、ハーディの集落でも精霊使いは長の血縁のみだった。むしろ、その力を持っているから長の役割をになっているといえる。ハーディの家はその分家だった。分家といえど、ハーディの大地の声を聞く力は本家と大差がない。それはけしてハーディが優れている訳ではなかった。血が薄まりすぎて、どちらにしろ大した事が出来ないだけだ。
「だったらさ、ここから出てけばいいのに。みんなよく満足してるよね」「そう言わないで。私たち、ここから出た事がないのよ。外に出て、どこへ行けばいいの?」
それに、とハーディは後ろを見た。ハーディの視界の巨大な樹が入る。幹も枝も巨大で、この地には珍しい健康的な深緑色の葉が眩しい。
「恵みの樹があるからね。それで私たちは生きていける」貧しいながらも集落が存在できるのはこの樹があるからだった。葉や、幹を傷つけて得る樹液は良い薬になるらしく、外から高額で買い取る者が後を立たない。集落の生命線であり、最大の宝だった。
「あれはね、昔わたしたちを哀れんだ偉い魔法使いさんが恵んでくれたんだって。葉も幹も薬になる、この集落一番の財産だよ」「でも、枯れかけてるよ」
麻が唇を尖らす。確かによく見れば幹はもうぼろぼろで触れると幹が剥がれ落ちかけ、葉はしおれその先端は茶色に枯れていた。
「そろそろ寿命だからね。大丈夫、もうすぐ代替わりをするよ。祝祭が来るの」「祝祭? 何それ」
「内緒」
軽くハーディは笑って舌を出した。
「何それ。もったいぶってないで教えてよ。最近皆、その祝祭とやらの準備で忙しそうなんだ。ちっとも僕と話してくれない。祝祭って何?」「今度ね」
「け〜ち」
頬を膨らました麻は年よりさらに若く見えた。小柄な種族の上に言葉使いやしぐさが幼いのでついつい子ども扱いしてしまいそうになる。
「この集落でしか生きていけない私たちに、出て行けばなんて言った罰だよ」しれっとしてハーディはかごを持ち、頬を膨らましている麻を置いて帰路につこうとした。夕焼けにより茜色に空が染まる代わりに暗い曇り空がさらに暗くなりつつある。暗くなる前にハーディは家に帰りたかった。
少ない夕食の後、ハーディは奥の機織りの道具が安置されている部屋へ入った。機織り機には、昨日ハーディが中断した機が放置されている。色鮮やかなそれを見て、ハーディは軽く息をついて機織り機の前に座った。
この地域では機の材料になる糸も手に入りにくい。外から手に入れて、大切に織る。規則正しい音と共にハーディは昨日の作業を再開したが、その表情は楽しそうではなかった。本来機織りはハーディの好きな仕事の1つである。その規則正しい音と、ゆっくり機が出来ていくのは楽しい事だった。しかし今回は違う、麻の声が頭から離れない。
「残酷な事言われたね、わたし」麻に言われなくても、ハーディはここの集落がいかに小さくちっぽけな物か分かっている。貧しい集落に貧しい大地、ぼろをまとい、背を曲げて生きている自分。そんなハーディに麻が話す外の話は眩しすぎた。自分より幼い麻が頬を染めて話す話はいつも危険と魅力に溢れている。ハーディはその話を聞いて、外を想像し、そして気がつく。自分が何もないただの少女である事を。出て行くには外は恐ろしそうで、外への1歩が踏み出せず、結局集落にい続けるであろう事を。きっと生涯。
「おい、ハーディ」「わっ!」
物思いに沈んでいたハーディを起こしたのは、低くぶっきらぼうな声だった。急いで窓の外を見ると背の高い影が見える。ハーディは窓に駆け寄って開けた。よく知っている狩人の青年がそこにいる。内気で人見知りをするハーディにとって大きな人は苦手だったが、彼なら大丈夫だった。
「ライ? どうしたの、こんな夜に」「いや…… たまたま通りかかったら、夜なのに明かりがついているから気になって。どうしたのかと思った」
ライはそう言ってきょろきょろ周囲を見た。この時間、未婚の女性宅に行くのは非常識な事であり無礼でもある。誰か大人に見られたらひどく言われるだろう。
「うん、祝祭に使う布を織っていたの。急がないと、間に合いそうにないから」「そうか、がんばれ」
それだけ言ってそそくさとライは去った。ハーディは誰にも見られていない事を確認して窓を閉めた。
後には織りかけの機と機織り機のみ。
もうすぐ祝祭が来る。祝祭とは樹の世代代わりの事だ。もうすぐ恵みの樹は寿命が来て枯れる。恵みの樹は花を咲かせないから実もない。しかし、伝承では樹を与えた魔法使いの住処にはたくさんの樹の種が残っていると伝えられている。何十年かに一度、魔法使いの家に集落は大地の精霊使いの使者を出す。使者は種を1つ受け取り、精霊使いの力で芽を出す。集落で今までの恵みの樹を切り、それを台木にして芽を接ぐ。樹は1年もすればハーディの身長の3倍に、5年もすれば元の樹と同じくらいの大きさになる。
その使者を出す日が近づいている。祝祭の日が来る。その日のための機を見て、ハーディは物悲しい気分になった。
使者は長の娘であり、ハーディの従姉妹のミントが勤める。年も姿も大差なく、大地の声を聞く力も同じくらいのミントは宗家というだけで栄えある祝祭の主役になり、分家であるハーディは彼女を飾る布を織る。ミントは誇り高く集落を護衛と共に出発し、見事種を持ち帰るだろう。その栄光はけしてハーディには分け与えられない。
同じ能力を持っているのにこの違い。それも、その差はハーディがどんなに努力しても追いつけることが出来ない所から発生している。
しかし、きっとそれはしょうがないのであろう。ちっぽけな集落のちっぽけな少女。生涯をここに生き、小さく過ごす彼女にはその光栄は大きすぎて、になえそうにない。ハーディはそう自分を慰め、諦めさせた。よくある事だった。
所が。
「……え?」祝祭の日まで後10日もない時、農作業中に長や集落の大人たちに呼びだされたハーディは唖然として聞き返した。
「信じられないのも無理はない。だが、これは集落の話し合いの結果であり、総意だ。ハーベスト・ソルが今期の祝祭の使者に選ばれた」「……そうですか」
「護衛士はオーチャートとライだ。事前に話し合い、荷物等について相談しておくように」
ハーディは嬉しすぎて、目の前がくらくらしてきた。使者を守る2人の護衛士の話も耳に届かない。絶対に不可能だと考えていた使者に推薦されたのだから、無理もない。普段接しない大人たちに周囲を囲まれているのも目眩の原因なのかもしれないが、ハーディはそのことに気づかなかった。
「あの、どうして、わたしなのでしょうか。いえ、とても嬉しくて、嫌ではないのですけど、私、今までずっとミントの方が選ばれるのだと思っていたんです。だって、代々そうだったから。なのになんで今回わたしなのでしょうか」すぐにハーディは悔やんだ。聞かれたくない質問をしてしまったのだろう、大人たちの表情が変わったから。集落で一番長生きしている婆が彼らを代表するように前へ出る。
「本来ならミント・ソルがこの光栄を担うべきであった。しかしミントは臆し、泣きわめいて使者の任を拒んだ。そこでハーベスト、ミントと同様の力を持ち、血が最も近いお前が代理として選ばれたのだ」正直ハーディはがっかりし、そしてやはりと心の中で言った。しょせん本来はミントがやるべき仕事で、ハーディはその代わり、念のための代理に過ぎない。
それでも。しかしそれでも使者の任を頼まれたのだ。祝祭の光栄、華々しい役割、けして届くはずがなく、だから諦めていた栄光が今目の前にある。きっと、とハーディは感じた。きっとこの件以外でわたしが目立ったり、表舞台に出る事はない。永遠に私はこの小さな集落でひっそり生き、死んでいくのだ。
だったら1回くらい。たった1回、それだけ。
「分かりました。喜んで……承知いたします」ハーディは潤んだ瞳を隠すように深々と頭を下げた。
部屋を出て、ハーディは珍しく自分がとても浮かれている事に気がついた。足が地に付かないとはこの事を言うのだろう。だから薄暗い廊下にライが沈んだ表情でたたずんでいても、ハーディは何も気にしなかった。
「ライ! ねぇ聞いて、すごい事があったの」「ハーディ、お前使者に選ばれたのか」
問いかけではなく、確認。ハーディは珍しく満開の笑みで頷いた。
「まだ信じられないよ。このわたしが、使者なんて光栄な役に就けるなんて。すごく嬉しい」「道中化け物が出る」
ハーディの笑顔が止まった。
「え……?」「俺は護衛士として選ばれた。ハーディと同じように名誉ある仕事だと誇りに思ったが、その事を聞いた後ではそうは思わなくなった。荒野に化け物が出るらしい。一部の狩人が見たそうだ」
ライは改めてハーディを眺めた。2人の身長差から、自然とライが見下すようになる。
「きっとミントは、それで怖くなったんだろう。ハーディも止めとけ。化け物に襲われるぞ」ハーディの浮かれた気分がかき消えてしまった。無骨で愛想が欠如しているように見えるライは、今までハーディや他の物に嘘をついたり、本心でない事を語った事はない。
「い…… いや、だって、やっと」「やっと?」
「だって、使者が行って祝福の木の種を持ってこないと、集落の皆が困るのよ? 怖いから、なんて理由で断れない」
「ミントは、拒否した。ハーディもそうしろ。責める人がいるだろうが、死ぬよりはましだ」
淡々と死について語るライの口調は素っ気ない。それが逆に恐ろしい。ハーディは何かを言おうとして、それが言葉にならないことに気が付いた。
「何よ…… ライの馬鹿」ハーディはライの横をすり抜け、小走りで去る。背中にライの視線を感じたが、ハーディは意図的に無視した。
―いつの間にか、ハーディは外にいた。弱々しい陽光の中、生育の悪い作物の畑の間を走っている。何に怯えているのか自分でも分からないまま、ハーディは逃げていた。
「ハーディ!」「え?」
高い声に呼びかけられて立ち止まる。そうして初めて、自分が息を切らしている事に気が付いた。額に浮く汗をぬぐい、何も考えず近寄ってくる麻に無理に笑いかける。
「ねぇねぇ、どうしたのさ、ハーディ。そんなに走って」「麻…… ううん、別に」
「まさか。何、化け物にでも襲われたの? ふだんっからおとなしいハーディがそんなに走るのを見るのは初めてだよ」
化け物と聞いて、背中が凍る。ライの言ったことが蘇る。
「何でもない。そう、何でもないの。何も心配する事はないの」「なにそれ。ハーディ、それ心配してくれって言ってるのと同じだよ。どうしたの?」
半獣の麻は心配そうに、自分より背の高いハーディの顔を覗きこむ。ハーディは詰まった。
「ううん、舞い上がっているだけ。あのね、麻。わたしが祝祭の使者に選ばれたの」「え?」
子供っぽさを残す麻の顔が輝いた。
「すごい! 僕、後で祝祭について知ったよ。木の種を持ち帰ることでしょ。そんなのになれるなんて凄いね、おめでとう!」「ありがとう」
「でもなんで、ミントじゃないの? 僕てっきりミントがなるんだと思っていたよ。だって教えてくれたライも他の人も皆ミントだって言っていたし」
無邪気に人に祝福できるのが麻なら、無邪気に人を傷付ける事ができるも麻である。ハーディは内心少し痛かったが、めげずに説明した。
「ミントは怖くなって止めちゃったの」「怖い? 意気地なしだね、でもそのおかげでハーディが使者になれたんだからミント様様だね」
麻の深い考えのない発言にハーディはどきりとした。
「そんな事言わないの。でも、私がきちんと務め上げて見せるわね。期待していて」無理に強がってハーディは胸を張った。嘘でもそう言うとそういう風に思えてしまう。自分が言って、望んだことだ。引き返せない。
「うん、がんばってね、ハーディ。後それから」「なに?」
「僕も連れてって」
「ふぇ?」
予想もしていない言葉に、ハーディは間の抜けた返事をしてしまった。
「僕、祝祭を見たことないんだ。見てみたいんだよ。だってここは面白いこと何もないんだもん。唯一楽しそうな冒険でしょ、それ。僕にも見せてよ」ハーディはその呑気さに軽いめまいを覚えた。そう簡単に行けるものならば、ハーディはここまで望まない。
「あのね、麻。これは何十年に一度の物だから麻が知らなくって当然なの。むしろ、知っている人の方が少ない者なのよ。だから知らなくてもいいの。そしてね、祝祭にいける事が出来るのは使者と2人の護衛だけなの。護衛は強く、たくましい者が選ばれる。残念だけど、麻はそういう訳ではないでしょ?」「大丈夫。ぼくはうでっぷしは弱いけど、種族特有の特力があるし、法術も使えるよ」
特力とは獣人のみが使える精霊術でも魔法でもない固有の能力で、様々な道具を使用してけして他の種族が真似できない技を引き出し、獣の姿に変身したり完全な人間に化けることができる。また法術は魔法と精霊術の中間に位置する、未発達の魔術のような物で、魔法のように様々な事を起こす。一部の獣人や民族以外では使い手がいない、いまどき極めて珍しい術だった。麻の種族はその珍しい法術がまだ伝わっており、特に幻術に長けているそうだ。ハーディは見た事がないが、もし麻が常々自慢している事が本当ならばそれは単に腕力が強いよりもはるかに役に立つ。
「でも、もう決まっちゃったし。オーチャードとライだって。オーチャードは腕のいい猟師だし、ライも力は強いしいろいろな事を知っているよ。麻には悪いけど、護衛士として最適だと思うな」「僕、オーチャード嫌い」
珍しく麻が嫌悪を浮かべた。
「あの人意地が悪いし、ぼくのこと嫌いだもん」それにはハーディも否定できなかった。猟師のオーチャードは大柄の中年男性で、がっちりした立派な体格を持っている。いかにも辺境で生まれ、辺境に骨をうずめる者らしく新しいもの、珍しいものを毛嫌いし、一切受け入れない。獣人の麻とそりが合わないのは当然だった。
「まぁまぁ。麻が嫌いでも、あの人が護衛士となっているのはもう決まったことなんだし、ね。お土産話を話してあげるから集落で待っていてよ」麻は不満そうに頬を膨らませたが、ハーディはこれ以上反論させずに去った。
そして祝祭の日が来る。
ハーディはかつてミントのために織った上質の布から出来た衣装を身にまとい、長の前にひざまづいた。
「祝祭の使者よ。お前は何のために行く」「集落とそこに生きる全ての命のために」
「お前の使命を何と心得る?」
「恵みの種を手に入れ、大地の滅びの運命を回避させることです」
「それを何に誓う?」
「土竜神の御名とハーベスト・ソルの名にかけて。そして大地の声に誓います」
「よろしい。ではけして果てる事なく進むがよろしい」
ハーディはがちがちに緊張しながら、覚えてきた誓いの文句を間違えずに唱えた後、背を伸ばして叔父に当たる長と側近の前を立ち去り、ほとんど真っ暗の部屋から出た。夜明け前の空はぶ厚い雲で星1つ見えず、外に真新しい革の胴着を着たオーチャードとライがたいまつを持って待っていた。
「では使者殿、参られます」「はい」
ハーディはそろそろとライの手を取った。闇や荒野に慣れているライとは違って農民のハーディはこうも暗いと何もない所で転んでしまいそうだ。
「言っておくぞ。しきたりの上ではハーディ、あんたが一番偉いが、荒野に慣れているのは俺だ。死にたくなければ俺に従う事だ。俺の言う事は全て守れ。ライ、お前もだ」「はい、オーチャードさん」
「本当に分かっていればいいのだがな」
オーチャードはそう言うとたいまつを掲げて歩き始めた。オーチャードにしてみれば自分の子供ほどの年齢の者と対等、それ以上に役割があるのが不快なのだろうとは思うが、これからの道のりをずっと威張られてもなとハーディは内心思った。
「はい、お願いします」道中、地図はない。口伝で伝えられた道のりを周囲の景色を頼りに歩む。朝から夕方まで歩き、夜も2人の護衛士が交互に見張りをする。この無謀とも言える道は、しかし使者が大地の声を聞くことが出来る土の精霊使いだから出来る事だった。道を確認でき、食糧を供給できる。
ようやく夜が明けて、ぼんやりと空に色がついてくる。やっとハーディは後ろを振りかえった。
小さな集落が見える。ハーディが今まで生きて、これからも生涯をすごす集落だ。貧しい大地にしがみついている集落と、唯一立派な恵みの木を見て、ハーディはやっとたった一回きりの集落からの遠征を実感した。
「……あれ?」「どうした、ハーディ」
「ううん、何でもないの」
ハーディは視界に動く物を見た気がしたのだが、改めて見た大地には生きる物はなに1つない。寂しさのあまり見た幻だろうとハーディは自分を納得させた。
「あのな、ハーディ」
集落から旅立って2日間がたち、ライが話しかけてきた。
「なに?」朝食の支度をしながら、ハーディはライを向かずに聞き返した。例え使者といっても荒野に慣れていないハーディの立場は低い。ライはまだ同年代だし仲がいいが、オーチャードはハーディをどうしようもない役立たずだと思っている。そしてそれは、ハーディもきっぱり否定できないものであった。だからこそこうして少しでも役に立つよう、雑用を自ら行っている。
「俺たち、何かにつけられていないか?」ハーディは危うくなべを落としそうになった。そっとオーチャードを見る。ハーディの動揺に気づいていないらしい。
「どうして?」「いや、気のせいだろう。何もないのに、つけられているなんて。俺の勘違いだろうな。悪かった、脅かして」
「ううん、私も初日にそう思ったの」
それにライは目を細めた。
「じゃあ、やっぱり……?」「でも、誰が? 何のために?」
「さぁな。例の化け物か? でも襲ってくる気配はなさそうだが」
「わたし、調べてみるね」
ハーディはなべを置きそっと目を閉じて、荒野そのものを想像した。荒野と一体化した自分を思い浮かべる。ハーディより前に存在し、世界が崩壊するまで不変の大地を思う。自分が大地そのものになり、そこに生きる一本の植物、一匹の動物まで感じ取る。果てない空、その下の赤茶色の世界…… 散りそうになる自分の意識を必死に維持し、ハーディは何かを見ようとした。
「あっ」ハーディは胸元を押さえてうめいた。のど元に熱い物がこみ上げる。全身が泥沼の中に入ったように粘りつくような感覚を覚え、額に冷たい汗が吹き出る。さながら、毒をあおったようにハーディは荒い呼吸をした。
「おい」ライの手を払いのけ、ハーディは深呼吸をする。時々大地の力を借りようとするとこうなる。ハーディは自分がまだ精霊使いとして未熟だからこうなるのであろうと考えていた。
全力疾走した直後のようにぐったり疲れながらも、ハーディは目的を遂げた。
「やっぱり何かいるよ。とても近くからこっちを見ている。何かは分からないけど」「何のためにか分かるか?」
「ごめん、分からない」
「謝らなくてもいい。様子を見よう、オーチャードにも相談して」
ライは中年熟練狩人に声をかけ、何かを相談した。すぐにライは戻りハーディの周囲で何気ない振りを装い、オーチャードは弓の手入れをする。そしてすぐにオーチャードの弓が唸り、遠方の岩をかすめた。
「うわぁ!」「ちっ!」
ライが走る。ハーディは驚いたように口元を押さえた。そのハーディより高い声に聞き覚えがあった。
すぐにライは闖入者を捕まえて引きずりながら戻ってくる。その表情は荒野に生える岩ウリをかじったかのように苦々しい。そして闖入者はてへっ、とその場をごまかすように笑った。
「麻……」「ばれちゃった。お久しぶり、ハーディとライ」
本来ここにいる訳がない木霊の一族の獣人に、ハーディは立ちくらみを起こすかと思った。
「何でこいつがここにいるんだ」オーチャードが荒々しく怒鳴り、首根っこをつかもうとする。大声にハーディは怯えるが我慢して、止めて、とオーチャードを止めようとする。
「黙れ! これは罰せられるべき罪だ。本来使者と護衛士しか同行してはいけない旅にこの人外はついてきた。これが原因で魔道士の不興をかったらどうする」「ごめんよ、でも僕どうしてもその種を見たかったんだもん。ただそうしたかったんだもん、そんなに怒らないでよ」
「それだけで、荒野をついてきたのか? どうやって。隠れる所なんて何もないのによくここまで見つからずに来たな」
呆れ果ててライは手を放した。
「特力と法術で小石とかに化けてきたの。ライが気づくわけないよ。絶対に最後までばれないと思ったんだけどなぁ」気づかなかった訳だとハーディは苦く笑う。
「方法なんて、どうでもいい」ライは不機嫌そうに腕を組む。そんなに麻に気づかなかったことが悔しかったのかとハーディは思った。「それよりも、麻、これからどうするんだ」「罪を償うべきだ」
オーチャードは暗い目で大振りのナイフを取り出した。麻がびくりと飛び上がり、とっさにライは麻をかばう。
「何を考えているんだ、オーチャードさん。同じ集落の住民だろう」「そいつはここで生まれたわけではない、異邦人だ。だから平然と罪を犯す事も出来る。異邦人には異邦人なりの対応をするべきだ」
「乱暴な事を言わないでくれ。そんなのは論外だ。その魔道士は俺たちに種をくれたほど情け深い方なんだろう。そんな事をするほうが魔道士の機嫌に触れる」
「あの…… 麻には悪いけど、帰ってもらうというのは?」
ハーディはおずおずと提案した。ライが困ったように首を振る。
「それも駄目だ。荒野の化け物が出る。帰る最中に襲われたらどうする」「あ……」
ハーディは絶句した。確かにハーディたちはそのために2人も戦士がいるのに、ただの幼い獣人1人で荒野を歩かせるのは危険すぎる。
「そんな事はどうでもいいだろう。自業自得だ」「そんな言い方はないだろう」
険悪な雰囲気のライとオーチャードに、ハーディは内心怖がりながらも、だったらと必死で考えをまとめた。しゃがんで、麻と目線を合わせる。
「だったら、麻、一緒に来る?」「うん!」
「おい、何勝手な事を言っている!」
オーチャードが怒鳴った。ハーディは予想していたものの、思わず身体をすくめる。
「でも、帰す訳にも置いていく訳にも行かないのでしょう。だったら一緒に連れて行くしかないと思うのだけど」「食料はどうするんだ、水も。人数分しか持ってきていないぞ」
「僕、自分の分は持ってきているよ!」
麻が笑顔で手を上げる。考えてみるまでもなく、今まで飲まず喰わずで来た訳ではないから持ってきて当然だった。
「……麻の安全を考えるのだったら、それしかないよな」気乗りがしないように、それでもライも納得した。
「何ばかげた事を言っているんだ。過去を見ても使者と護衛士2人以上の人数で魔道士の元へ行った例はない。その最初の例になるつもりか」「でも、オーチャード」
「ハーディ、何か勘違いしていないか。あんたは使者だが何も出来ない小娘だ。何偉ぶっているのか知らないが、生きて帰りたければ俺たちの指示に従え。この獣人は帰す。それがいやならこの場で俺がじきじきに裁く。文句は言うな」
ハーディは唇をかんだ。麻がはっとして心配そうにハーディを見上げる。
分かっていた事だった。使者になって、実際に荒野を歩いてもハーディはハーディでしかない。怖がり、怯えて、オーチャードやライと一緒でないと生きていけないか弱い者でしかない。分かっていた事だったが、それでもハーディは目に熱い物がこみ上げた。
ライがオーチャードに殴りかかった。
「!?」誰も予想していなかった突然の事にあっけなくオーチャードは地に伏せる。さらにライは馬乗りになって顔に拳を叩きつける。
「ライ! 何を!」「オーチャードはナイフを持っているのに危ないよう!」
ハーディは身体がすくんで動かない。麻がライの背中をつかんで止めようとするも、いかんせん体格差がありすぎて止まらない。
「乱心したか、ライ!」オーチャードのナイフがライの右腕をかすり、赤い線が浮き上がる。ライは逆にオーチャードの右腕をつかみ返し、左手で顔中央を殴る。
「ライ、ライ! お願いだから止めてよ! うああ、もうっ、目に見えるもの全てが本当ではない、深い深い森の中、響く声の中で真実を聞き取れ!」突然彼らの前に、祝福の樹ほどもある巨大な二足歩行の蜥蜴が出現した。ハーディはもう声も上げられず、ただぼんやりと麻が話してくれたドラゴンとはこういう物なのだろうかと思う。ライが息を荒げて、ハーディの前に立ちふさがろうと飛び上がる。途端に巨大蜥蜴は消えた。
「……え?」「よかったぁ、うまくいって」
麻が手で奇妙な印を結びながら脱力したように笑う。
「麻…… 今のは、麻が」「うん、法術で幻を出したの。ライが引っかかってくれて助かった」
ライは無言でうつむく。オーチャードは鼻血をぬぐって険悪な顔で立ち上がった。
「ライ、どうしてこんなことしたの……?」ライは一言も返事をしなかった。ハーディはおろおろと3人を見て、つかえながらも口を開く。
「オーチャード。確かにわたしは何も出来ないけれども、しきたりによれば何かを決める権利はわたしにあるはずです。麻を同行させます。しきたりを重んじるのなら、従ってください」オーチャードはぎょろりとハーディをにらむ。思わずハーディは謝って、今の発言を取り消したくなったが、下唇をかんで耐えた。ここで明暗が分かれるのはハーディ自身ではない。
「勝手にしろ、小娘が」吐き捨てた言葉に、それでもハーディは安堵した。
伝承に従えば、道のりは半分以上過ぎた時だった。
「後、どれくらいで着くのかな」「ざっと1日2日、ぐらいじゃないか。よくは分からないけど」
「そっか」
それきり会話は尽きた。無言でライとオーチャードの後を歩く。あれ以来、この2人はほとんど口を聞いていない。ハーディはこっそりため息をつき、その後ろの麻は心配そうに大柄な2人を見比べる。仲良くなれとは言わないが、せめてお互いの嫌悪感を隠すぐらいはして欲しい。歩きずくめで腫れてきた足で文句1つ言わずにハーディはここまで来たが、このような状況では肉体的にももちろん、精神的にも辛い。
「ハーディ、大丈夫?」「あ、うん、大丈夫だよ。ありがとう」
「ねぇ、変な声しない?」
「?」
ハーディは立ち止まって麻を見下ろした。不安そうな表情を作っている。それが単に護衛士2人の不仲による物ではないことは分かる。質が違う。
「あのね、何か変なんだ。さっきから風の声の中に別の物が混じっている気がするし、臭いだっておかしい。それに鳥肌が止まらないし」楽天的な麻がここまで警戒するのは珍しい。それに単に子供が不安がって怯えているのとは違う。麻は木霊の一族、獣人だ。その半身である獣が危険を察知している。無視してよい物ではない。
「ライ、オーチャード。周囲に異常はない? 麻が怖がっている。例の化け物かもしれない」ライはすぐに、オーチャードは迷惑そうに「これだから獣人は」と周囲を見る。
「何もないな。化け物が出るのだとしたら俺たちの方が先に気づく。覚えておけ」「いや、オーチャードさん」
ライは矢を取り出した。自家製の長弓につがえる。
「どうやら当たりみたいです。あっちを」ライが弓を構えた方向をハーディも見る。初めはよく分からなかったが、まじまじと見て黒い一団がうごめいているのを見とれた。オーチャードたちが使う猟犬に似ているが、色が黒く毛が長い。
「あれが化け物?」「こっちに来ている」
オーチャードも弓矢を出す。麻が言っていた別の物、というのがハーディにもようやく分かった。谷を渡る風のような悲痛な鳴き声が聞こえる。ハーディはなぜか鳥肌を立てた。ハーディたちの方へ全力疾走している。
やっとハーディはその化け物の正体を見とれた。おぞましさに凍りつく。毛が長いと思ったのは間違いで、黒い粘膜のような物で覆われていた。元の色が分からないほど血走った目は狂おしく光り、汚い牙が見える口からはよだれと共に粘膜が地に落ちる。沼のような臭いがした。長い間雨も降らず蒸発もせず、ただただ爛れて腐った魚も住まない沼のような臭いが。
「あのねばねばに触れるな! そこから腐って死ぬぞ!」「ハーディ、そこを動くなよ。目を閉じていろ。麻、ハーディを任せた」
そして怯えすぎて目を閉じる事さえできないハーディに、ぎこちなく笑う。
「大丈夫だ」そのしぐさに、やっとハーディは涙をこぼした。
「も、もちろん。僕に任せてよ」麻は手足も口も強張らせながらぎこちなく小刀を抜く。
「なるべくひきつけて撃て。近寄らせるな」腐臭と悲鳴じみた声は思ったよりも早く近寄る。ひどく静かな緊張があった。
ばっ。
全ての始まりである、弓の弦がしなる音が意外と小さくした。人間のそれと大して変わらない悲鳴が荒野に響く。ハーディは化け物の群れがどんな生き物よりも早く駆け寄ってくるように見えた。たった2人の矢の嵐が吹雪く。1匹たりとも近寄らせない。1匹たりとも触れられたら。それは全滅を意味する。
ハーディはそれらを直視できなかった。涙で視界がぼやける。化け物の悲鳴、弓の弦、荒野に渡る風、全ての音がおぞましい。
最後の1匹の悲鳴が途切れるまで、ずっとハーディは麻の細い腕にすがって震えていた。
「ライ」
やっとハーディは涙をぬぐって顔を上げた。大地に累々と化け物の死体が転がっている。
「全滅したか、確認してこい」「……はい」
ライは弓を置き粗末な剣を抜くと、慎重に化け物たちに近寄る。ハーディはオーチャードを見上げた。
「何でそんな事をするの?」「完全に死んでいるかどうか確かめるためだ。万が一でも生きていて後ろから教われないように」
口を挟む隙を与えないオーチャードにハーディはそれ以上何も言えず、心配そうにライを見る。その後姿は何も言わず、けして化け物には触れずにその死を確認している。
「全滅のようです、オーチャード」「よし、戻ってこい。すぐにここを出る」
はい、とライは死体を放り、緊張を解いて去ろうとした。ハーディも息をついて、ライにそっと手を上げようとする。
ぬるり、と後ろの影がうごめいた。
ハーディの手は止まった。警告しようとした口はにかわが張り付いたかのように動かない。ためらいはほんの一瞬、しかしそれ以上の余裕を神は与えてくれなかった。
ライがハーディの様子を不審に思う。振り返る。もう遅い。かろうじて生きていた化け物の牙がライの左腕を襲う。地に落ちる粘膜に血が加わった。
「ライィ!」悲鳴は麻がハーディの代わりにあげる。ライは手にしていた剣で化け物を貫き、振り落とす。化け物はぐちゃりとつぶれた。よろりとライは少しでも離れようと走るも、化け物から10歩も歩けないうちに崩れ落ちる。
「大変だ、ライが!」麻がライへ駆け寄ろうとするも、オーチャードがその首根っこをつかむ。
「触れるな、あの化け物に触れられたら終わりだ。そこから全身が腐って死ぬ。猛毒だ、近寄るな」「だったら、ライはどうなるのさっ!」
「諦めろ。油断した奴が悪い」
「そんなの、ひどいよ!」
オーチャードに押さえられた麻は、ハーディ! と叫ぶ。
「ハーディ何とかしてよ! 精霊使いでしょ、怪我した人を治すことが出来るんでしょ! 何とかしてよ!」「馬鹿を言うな! 使者をそんな危険な事にさらせるか!」
「だって!」
「それに、ハーディは大地の精霊使いだ。毒は専門外のはずだ」
「ふぇ?」
「毒物は薬物と同じように大地から来る物、それを土使いが祓うのは無理だ。本来それは風使いが得意とする事だ。ハーディには毒を含ませる事は出来ても祓う事はできない」
「じゃあ、このままライは放って置かれるの!?」
「注意を怠ったライが悪い。ライは護衛士としての任務を全うしたのだ」
「そんなのってないよ!」
麻とオーチャードの会話もろくにハーディは聞いていなかった。ライは動かない。赤茶けた荒野に血の赤と粘膜の黒が張り付く。風の音がやけに近く響いた。
ライのぶっきらぼうな声、大柄な背中、弓矢や剣を持つのに適した硬い手。荒野に着てから、常に不慣れなハーディを気遣い、素っ気ないながらも優しかった。
ライは動かない。
ハーディは動いた。夢遊病のように、ぼんやりと歩く。耳に聞こえる風の音が変化して、ハーディは自分が確かに進んでいる事を理解した。
後ろでオーチャードと麻が何か言う。口論しているようでもあり、警告しているかもしれない。しかしハーディの耳には届かない。ただ、さびしい風の音のみ聞こえる。
ライのそばまで行き、その隣に座る。ライはもう目を開いていない。左腕には粘膜が張り付き、肌の色が変色していた。その上にハーディは手をかざす。
「止めろハーディ、死ぬ気か!?」「……土竜神様」
果てなく広がる大地を思う。自分は広大な大地の一部であると考える。ハーディという人格はそこには存在せず、あらゆる生き物の意識の中に泡となって消える。
「ハーベスト! お前でなかったら、誰が使者の犠牲になるというんだ!」オーチャードの声も荒野の風の音も存在しない。ハーディはそこにある異物を見る。土の精霊使いは風の精霊使いのように排除する、祓うと言う事は出来ない。無限の大地に属するもの全てを取り込み、力を振るう事のみだ。毒もこの大地の一部であり、消すことは出来ない。形を変えて、取り込む事のみ。
自分には早すぎるであろう事をしている、と遠ざかる自我の中でぼんやりハーディは思う。本来これは十分に修行を積み、今のハーディの倍の年になってから挑む事だ。今のハーディに出来るかどうか分からない。しかし諦める気もない。なぜだかはハーディも分からないが。
ライを汚染している毒に触れる。手がただれる気がした。それを取り込む。なるべく無害になるよう形を変えて。
息が詰まるかとハーディは思った。視界が歪み、白くなる。胸の奥から吐き気がこみ上げる。ハーディは大地を見る自分の力の限界かと思ったが、それは毒物その物から来る事を理解した。あまりにも似すぎている。そうか、とハーディは思った。この粘膜から来る毒と、この荒野に染みついている物は同等なのかと分かる。この化け物もハーディも、同じ荒野で住んでいるという点では変わらない。何を怯えていたのだろうと、ハーディは自嘲した。
同じなら怖くはない。ばらばらにする。毒自身を細かく細かく砕いて自分の中に取り入れる。額に冷や汗が浮き、呼吸が出来なくなる。慣れている。ハーディは荒野その物になる。それが毒を含んでいるのならハーディはけして死なない。
風が吹く。何の実りももたらさない荒れた土が舞い上がる。ハーディの知っている唯一の世界。一体になる。寄り添い、同一となる。
苦しいはずなのに、辛いはずなのに不思議にハーディは怖くなかった。知らずに優しい笑顔になる。そしてハーディはそのまま、自分が倒れる事さえ気づかなかった。
だからハーディが目を覚ました時、現状が理解できなかったのは仕方がないといえるだろう。ぼんやりと意識が回復した時、ハーディは大きな背中に揺られていた。
「あ、起きた! ライ、ハーディ起きたよ!」はるか下で麻が大はしゃぎをする。ハーディは慎重に降ろされて、それでやっとライにおぶさわれていた事に気がついた。
「ずっと起きないから心配した」そうぶっきらぼうに言われて、ようやくハーディは自分が意識を失っていた事を思い当たった。
「あ! ごめんなさい。ライ、身体はもういいの?」「平気だ」
「ハーディ」
オーチャードが不機嫌そうにハーディの前に立ちふさがった。
「あんたのした事は立派だが、状況を考えるべきだったな。かつて過去で使者のために死んだ護衛士はいたが、その逆なんて1人もいない。歴代で一番愚かな使者として名を残すところだったよ、ハーディ」「はい…… すみません」
ハーディはうなだれる。麻が反発した。
「いいじゃんか、おかげでライは助かったんだし。護衛士を助けた優しい使者で、ハーディは今までで一番いい使者だよ」「何も分かっていないのに、口出しするな」
麻は頬を膨らませる。ハーディは頭を下げると麻をなだめた。
確かに、オーチャードは正しい。使者として、護衛士の屍を踏みつけてでも行くような覚悟でないと駄目なのかもしれない。しかしハーディはもう一度ライが倒れても同じ事をするだろうと思った。だとしたら、ハーディは使者失格だ。使命より護衛士の方を優先してしまう。
「ハーディ」落ち込んだハーディはライを見上げた。
「何?」「助かった。ありがとう」
あさっての方向を見ながら言ったライの顔が突然歪んだ。
「お、おい、泣くな」「……だって」
「止めろって」
「だって、だって」
「麻」
困り果てたようにライは小柄な獣人を見る。
「駄目だよ、ライ。ハーディ泣かせちゃ」面白がっている麻の口調に、ライは途方にくれたようにハーディの頭を叩いた。
使者の旅の終着地点まで、あと少しだった。
その谷は、ハーディたちには唐突に現れたように思えた。
「見てハーディ、緑だ!」麻がはしゃいでハーディの手を引く。ハーディは驚きすぎて呆然と動けなかった。ライも目を見開いて立ち止まる。オーチャードはそんな若者たちをにらみつけた。
「何をしている?」「ここが、魔道士の住んでいる所」
荒野に乱雑に並ぶ岩陰に隠されたようにそれはあった。谷は細々と泉が湧き小さな川が流れる。澄んだ水を中心に、目が痛くなるほど緑が溢れていた。低木樹や背丈の低い一年草、全てがみずみずしくそこにあり、その下に小さな蛇がハーディたちを見て逃げた。
「すごい…… こんなにたくさんの緑、初めて見た」「俺もだ。魔道士の住みかだからか? 荒野が全部こうだったら、おれたちの集落もずっと楽に生きていけるのに」
駆け寄ってハーディはそっと葉に手を触れる。冷たい感触が心地良く、ハーディは笑っているような泣いているような表情になった。
「どうして、ここだけがこうなの? どうして?」「そんな事、知るか。使者、早く行って実を取って来い」
はい、とハーディはしぶしぶ立ち上がり、周囲を見てどこに行けばいいのか探す。何もない広々とした荒野を見慣れた目にはこの緑に輝く土地は込み入っていて、どこに行けばいいのか分からない。
「ね、あっちにある東屋は?」もともと森に住む種族である麻が一番早かった。麻の言うとおり、萱の屋根の四方を吹き放しにした小さな建物が泉から少し離れた所にある。そこへ行ってみると、地下へ続く石造りの階段を見つけた。
「この下、なの?」「行ってみよう」
ライが先頭に立ってたいまつに火をつける。火の粉が階段に散って下を照らした。
「すごい。こんなにしっかりした建物は、集落にはないよ」「ついでに言うとね、外でもなかなかないと思うよ。石だってどんな石か分からないけど、なめらかで白いし、紙も入らないくらいにびっしり石同士で組み合わさっている」
「すごいね、さすが魔道士の住みか」
ハーディは頬を染めて周囲を見た。たいまつの光が白い石に反射し、まるで月明かりの中を移動しているかのようだった。
「これで、使命を果たせる……」長い旅だった。普通に集落に暮らしていた時とは時間の流れが違っていた。今回で分かった事も、新しく知った事もある。平凡な日々に戻っても、ハーディはけしてこの旅の事を忘れないだろう。
地の底まで続いているのだろうかと思うほど長い階段を下ると、やっと白い扉まで着いた。ハーディが緊張して開ける。予想とは違い、中は昼間のように明るかった。納屋か倉庫のように様々な物が置かれたその部屋はどこにもランタンやたいまつがないのに暗くない。これが魔道士の魔法のせいなのかとハーディは思った。
「この中に、祝福の木の種が?」「これは、自分で勝手に探せと言う事なのか」
「どこかに目印がないかな。いちいち探していたら日が暮れちゃうよ」
麻がぼやくのも無理はない。てっきりハーディは中には種子以外のものは何もない所へ行って、種を手に入れるのだと思っていた。せめて案内がほしい所だが見たところハーディたち以外に動く物は何もない。変な物をさわってその魔道士の怒りに触れなければいいとハーディは心配した。
「麻、分からない物や危なそうな物はさわっちゃ駄目だよ」「分かってるって。ハーディこそ、分からないからって変な事しそうだよ」
ハーディたちは手分けをして部屋を回った。主にぶ厚い本や巻物、何かの石や杖などいかにも魔道士らしい道具から酒や鏡など、なぜここにあるのか分からないような物まで無造作に棚や床に置かれている。もしきちんと整理をしようと思うのだったら丸々3日はかかる大作業となるであろう程散らかっていた。
「どこにあるんだろう」「ねぇハーディ、これ見て」
ハーディはしゃがんで壁を見ている麻に近寄った。「なぁに?」
「この壁、よく見ると扉だよ。こっちにも部屋があるみたいだ」「そうなの? わたしにはそうは見えないけど」
「そうなの。こっちも見てみた方がいいよね」
「どうだろ……」
ハーディは少し考えた。普通に見ただけでは分からないと言う事は隠しているのだろう。本人が隠しがっている事を暴くのはどうかという気がする。
「やっぱり、これは放っておいた方が……」「ハーディ、あったぞ」
オーチャードの声に、ハーディははっと振りかえった。思わず麻の事はほったらかしてオーチャードの元へ向かう。
「どれ?」オーチャードは両手に大きな木彫りの箱を差し出す。ハーディは恐る恐る中を開けると、麻の小さい片手でも覆い隠せる程度の大きさの灰色の種子がぎっしり詰まっていた。
「これが、祝福の木の種。こんなに小さいのに」ハーディはそっと壊れ物を持つかのように種子の1つを手にした。大切に大切に、持っていた布で包む。そっとそれを胸の前で抱いた。
「これで、わたしの使命は果たせた」「うっわぁぁ!」
麻の甲高い悲鳴に、はっとハーディは目を開けた。
「麻!」「あの獣人! 何かしたのか」
ハーディはそれに、うっかり隠し扉について話しておきながら放っておいた事を思い返した。
「……そうだね。何かしたかも」さっきまで麻がいた所には開け放たれている扉があった。麻の姿は見えない。ライが駆け寄って中を覗いた。
「何があったんだ、ハーディ」「分からない。でもこのままだと麻が危ないかもしれない」
ライは軽くうなずき、剣を手に中へ入ろうとして、ふと見上げた。
「え?」ライの表情が珍しく崩れる。ライは身長がかなり高いので何かを見上げることは珍しい。天井に何かあったのかとハーディもつられて見上げ、そのまま強張る。
人がそこにいた。けぶるような暗い金髪に黒に近い灰色がかった碧眼。それが2つともハーディたちを見下している。その冷ややかな眼差しにハーディは動けなかった。血の色をした唇といい、ここの建物よりもはるかに白い肌の色といい、ハーディはこの人物が現実の物とは思えなかった。
女だった。ハーディよりずっと年上の、女性として魅力に溢れた。しかしそれでいて人間ではなかった。鬱金色の髪の女性の下半身は明るい緑色の蛇のそれだった。
身動き1つ出来ない3人だったが、ライがかろうじて搾り出すように口を開いた。
「あなたは、誰だ?」「あたしは鬱金と呼ばれているわ。あなたがたは?」
外見の割りに、普通の対応が返ってきた。ライはそれに安心したが、ハーディはまだ動けなかった。彼女の視線はハーディに注がれている。厳密に言えば、ハーディの手の中の種子に。
「俺はライ、こっちはハーディ、後ろはオーチャードです。後もう1人麻という木霊の一族がいるんですが、知りませんか?」「知っているも何も、あたしの後ろで倒れているわよ」
ライははっと鬱金の後ろを見て駆け寄った。きゅうとばかりに倒れている麻を抱きかかえる。
「何がッ」「そういきなり立たないで。あたしが気絶させた訳ではないわ。大体先にここに来てあたしを起こしたのはそっちよ?」
「あなたは一体誰ですか。ここは昔の魔道士の住処で、人はいないものだと思っていました」
どもりながらもハーディは口をはさんだ。
「貴方が、祝祭の使者?」「はい」
「ふぅん。まだそんな事をしていたのね。あたしが寝てから、ずいぶん長くたったと思ったのだけど。今は何年?」
「何年……?」
「ああ、ごめんなさい。この辺では世界暦は使われなかったのね。いいわ、別に」
「あの、あなたは。昔の魔道士の子孫ですか」
「あたしは当の魔道士本人よ」
鬱金はあでやかに笑い、蛇の下半身を座るかのように折り曲げた。「大魔道士、ナーガの鬱金」
ハーディはもちろん、オーチャードも理解できなかったように口を開けた。麻を抱えかけたライがそのままの姿勢で鬱金をまじまじと見る。
「……だって、その魔道士は昔の人物で」「ナーガは竜についで不老長寿なのよ」
「では、あなたがここにいるのは」
「あたしの住処だからよ。文句ある?」
「ありません…… あの、わたしたち、勝手に祝福の種子を取っていますけど、これは盗もうとしているのではなく」
「分かっているわよ。勝手に取っていけといったのはあたしですもの。しかしまだ続いているとは思わなかったわ」
ハーディは唐突過ぎて、何がなんだか分からなかった。伝説の大魔道士は人間ではなく、意外と気さくな人物で存命どころかハーディよりも生気に満ちている。祝祭の厳密さがぼろぼろ崩れていく気がしてきた。ライが麻の気を取り戻させるも、思いは同じらしく丸く見開かれた目は戻らない。
「……では、種子を頂きますね」ハーディはそれだけを言って後ずさりしようとした。鬱金はハーディを見てから軽く腕を組んでため息をつく。
「正気なの?」「え?」
「そこの護衛士2人も、こんな子に使者をやらせるなんて何を考えているの?」
「……どう言う事ですか」
ハーディは心臓を鷲掴みにされた気分になった。この人もハーディが名誉ある使者にふさわしくないと考えているのだろうか。確かにハーディは本来の使者の代理だ。しかし荒野をここまで歩いてきたのはハーディだ。それでもなお、代わりの使者としてでしか見てもらえないのであろうか。
「そうだ、ここまで来たのはハーディだぞ。あんたはどうしてそんな事を言うんだ」ライも意識が朦朧としている麻を肩に抱えながら食ってかかる。それにオーチャードは低い声で制止を呼びかけた。
「使者よ、種子は手に入れたのだ、行くぞ。こんなところで人外と関わっている時間がない」オーチャードは強引にハーディの肩を引いた。呆然としていたハーディは抵抗もせずにたたらを踏む。ふんと鬱金はオーチャードを見下した。
「知っているのは貴方だけみたいね。どうしてこんなに何も知らない子供たちに使命を負わせるの?」「何も知らない……?」
「ハーディ、聞く必要はない。行くぞ」
オーチャードの硬い手に肩を痛いほどつかまれ、無理にハーディは戻りかける。ハーディはのどを鳴らすと、身をかがめてオーチャードの手から逃れ、鬱金へ駆け寄った。
「何も知らないとは、どう言う事ですか? 使者にふさわしくないとはどう言う事ですか? 教えてください」「ハーディ!」
オーチャードが怒鳴り、ハーディにつかみかかる。手がかかる寸前にオーチャードは何かにはじかれたように吹き飛んだ。
「ここでは暴力は振るわないで」高飛車に鬱金は言って、手首の黄金のリングをなでる。
「いいわよ。貴方ぐらいは知らないと死んでしまうものね」「止めろ!」
「その種子は大地の精霊使いが『力』を使わないと発芽しないわ。もともと自然の物ではないからね。でも血が薄く、精霊使いとして凡才の貴方では発芽に至るまでに死ぬわよ。力が足りないもの」
「……嘘」
かろうじて発言できたのは麻だけだった。まばたきすら忘れているライから落ちるように地面に降り、鬱金に駆けよる。
「じゃあ。ハーディは祝祭の種子の発芽と一緒に死んじゃうの? それってひどいよ。それのどこが祝祭の種なのさ。オーチャードはそれを知っていたの? 知ってたのに言わなかったの? ミントはそれを知って使者を嫌がったの?」「そのようね。でもその男が隠しているのはそれだけではないようよ」
「他には、何を?」
ハーディはかすれたそれが自分の声だと言う事をかろうじて認識できた。
「そこの狐ちゃんが言った事よ。祝祭でも何でもない。その通りよ。その種はもともとある邪悪な術によって作り出されたものよ。周辺の土壌に毒を含ませ植物も動物も滅ぼし、ただ自分だけが成育する樹木の種子。この荒野を見て? 黒い粘膜に覆われたあの怪物を見て? ここはもともと緑に覆われていた大地だった。消して肥沃とはいえないけれども何もない土地ではなかった。貴方方人間がその木を植えたためにこうなったのよ」
「嘘だ、でたらめだ! そいつの言っている事は嘘だ!」
オーチャードが叫ぶ。どちらが偽りか、ハーディはもう分かっていた。大地を呼ぶたびに胸の奥が苦しくなるあの感触。ライの治療の時感じた異物。あれはハーディたちの命の糧である祝祭の樹から生まれた物だった。ハーディがあこがれていた祝祭の使者は生贄で、赤茶けた荒野はハーディたちが祝祭と呼んでいる災いによって生み出された物だった。
「ハーディ?」何が正しいのか。何が偽りだったのか。ハーディにはもう何も分からない。ゆっくり視界が暗くなる。
「ハーディ!」最後に叫んだのはライか、それとも麻か。それを最後にちらりと感じてからハーディが気を失った。
「ハーディ、ハーディ! ねぇ起きてよ、大変なんだよ」
揺さぶられてハーディは目を開けた。麻の幼い顔がすぐ横にある。
「麻……?」「お、起きたぁ」
ハーディはベットのような周囲より高い白い台座のような所に寝かされていた。自分たちが持ってきていたありったけの毛布に包まれており、ハーディが身体を起こすと毛布が床に落ちた。
「ここは」「えっとね、鬱金がここ使ってもいいって。だからねハーディが気を失って起きないからライが運んでくれたんだよ」
「そっか。わたし、気を失っていたんだね」
「うん、僕びっくりしたよ。もう大丈夫? どこか痛かったりする?」
「うん、大丈夫だよ」
ハーディは強がって少し笑った。実際、大丈夫とはとても言えない。
「そっか。でさっ! 起きてすぐだけど、ライとオーチャードを止めてよ!」「え?」
「オーチャードって大切なこと皆僕たちに黙っていたでしょう? それにね、まだオーチャードはハーディを使者として集落のために祝祭の種を発芽させて植える気でいるんだ。ひどいよね。それでライが怒って、ううん、あれは怒ったなんてもんじゃないよ。激怒だよ。もう、ほんとすごく怒って、それで決闘って事になって」
「!」
ハーディは完全に目が覚めた。飛び起きて立ちくらむ。そのハーディを支えながら麻がでね、と続ける。
「ハーディ、2人にがつんと言って止めてよ。僕が何言ったって2人ともやる気満々で人の話し聞いてくれないもん。ねぇお願いだよ」「う、うん、分かった。でもわたしが言っても、聞いてくれるかな」
「大丈夫だよ! ハーディは使者だもん、護衛士より偉いんでしょ?」
「建前はそうだけど…… ううん、分かった、やってみるよ」
実際に自分に何が出来るのか、ハーディは自信がなかった。麻に引きずられるようにつれられ、長い階段を駆け上がる。外はもう日が落ちかけていて、緩やかな緑の丘は消えかけた炎の名残のような緋が落ちていた。
「鬱金がここでは暴力は駄目って言っていたでしょう。だから2人とも外に行っちゃった」「いつごろ?」
「すぐさっき! だから僕はハーディ起こそうって来たんだよ。もう、ライもオーチャードも仲悪いけど、何も決闘しなくてもいいじゃないか!」
「そうね。無事でいて……」
だっと丘を走りぬける。低い草が生えていた丘は断ち切られたかのように唐突に荒野に変化する。そしてハーディはようやく2人の姿を認めた。互いに抜き身の剣を持ち向かい合っている。衣服や腕などから察するに、もう何回もお互い切りつけあったのだろう。ハーディは立ち止まり、深呼吸をした。
「2人とも止めて! 何やっているの!」険しい表情のライが呆けたようにハーディを見上げる。その隙をオーチャードは見逃さなかった。
「失せろ!」鋭い剣での突きにライはかろうじて反応しようとする。鉄が打ち合う鈍い音と共にライは弾き飛ばされた。オーチャードはすかさずライにさらに斬撃を与えようとする。2人の間にハーディは息を切らせて割って入った。麻がハーディと悲鳴のように叫ぶ。
「止めて、オーチャード。一体どうしてこんな事になったの?」言いながらハーディは自分が信じられなかった。おとなしい自分が、いつも怯えている1人ではなにも出来ない自分が、剣を持ったオーチャードの前に出ていけるなんて今まで考えもしなかった。
しかし引く気にはならない。どうしても引けない。
「そこをどけ、ハーディ」「嫌」
「どけぇ!」
「嫌! 何で2人が争っているの、どうして殺しあわないといけないの。それを聞くまでは引けない」
オーチャードが歯軋りをする。狂おしい目でハーディを見る。ハーディは内心怯えたが、平然としているふりをした。
「ハーディ、オーチャードは全部知っていたんだ! 村長から、祝祭の樹の事も、それを発芽させる事の罪深さも、それをすればハーディがどうなるかも! 知っていて、なおそれをさせようとしたんだ! 今でも!」ライの叫びにハーディは胸を突かれた気がした。予想はしていた、しかしその事を改めて聞くと、心のどこかが痛む。
「だが、ほかに集落が生きていく手段があるのか! 植えるのを止めた所でいつ大地が元のように回復するというんだ! 集落が残るためには祝祭の樹が不可欠なんだ! 今更、変えられないんだ!」「だからってハーディを犠牲にしていいというのか!? 違うだろ!」
「違わない! 集落全てと1人の小娘、どっちが大切か分かりきっているだろう!」
「オーチャード! 貴様ぁぁ! 」
ライが立ち上がり、食ってかかろうとする。ハーディはそれを手で制した。目の前が回る。視界が歪む。考えがうまくまとまらない。
何が正しいのか、何が間違っているのか。何をすべきで、何をすべきでないか。ハーディは、使者は、護衛士は、祝祭は……
「ライ! 貴様は過去最悪の護衛士だった、永遠にそう伝えておくぞ!」血走った目でオーチャードはライに襲い掛かる。
「!」ハーディの言葉としては捕らえられない悲鳴が何もない荒野に広がり、消える。オーチャードの剣は突然現れた土の壁に止められた。
「……ハーディ?」「オーチャード、これ以上戦いたいというのだったら、わたしが相手をします」
ハーディの口の中は渇ききっていた。声が震えなかったのは奇跡に近い。それでもハーディはそれを撤回する気にはなれなかった。
「使者よ、お前もか。ミントのように、自分の命が惜しくて責任を放棄するんだな。集落も、故郷も、命惜しさに捨てるというんだな。所詮それまでか!」オーチャードが剣を抜く。ハーディに切っ先を向ける。
「違う!」ハーディは動かなかった。所詮戦いに関しては素人のハーディは避けようと思っても剣を避ける事は出来ない。だから切られる事はしょうがない。いつの間にか覚悟は決まっていた。この状況で、ハーディがするべき事はただ1つ。
胸の奥が苦しい。慕情と、愛おしさでわけも分からず泣けてくる。ハーディは荒野を思う。一体となり、機を織るように、糸をつむぐように大地に呼びかけ、力を借りる。
剣が迫る。
「駄目!」ハーディのすぐ横から、祝祭の毒に侵された動物が出現しオーチャードに牙を向く。オーチャードは一瞬ひるむも、すぐに麻の幻覚だと見破る。
しかしハーディにとっては、その一瞬だけで十分だった。
足元に転がっていた小石や砂、土の塊が一斉に命を持ったかのように動き出し、オーチャードにかかる。その速さは投石器どころかライたちの弓にも劣らない。とっさにオーチャードは手で顔をかばおうとするも、あいにく研いだばかりのナイフのような破片はオーチャードの腕を切り裂き胴を打ち、大地に黒い血溜りをぶちまける。
人を傷つけるために力を振るったのは初めてだった。オーチャードの剣が落ちて転がる。後方で麻がのどを鳴らす音がする。ハーディは自分が全く動揺していないのに驚いた。背を伸ばし、太陽に向かうように直視する。
「ハーディ、お前は、ただの小娘だったはずだ。それがどうして」オーチャードの身体が揺らいだ。
「どうして、戦えるんだ? 命が惜しくないのか?」水がはねる音がして、ハーディに血が降りかかった。
「惜しいよ。でも、それ以上に何をすべきで何が出来るか分かったから、前に立てるの」それはオーチャードだけではなく、自分に対しての答えだった。天の空の真下に立ち、風を起こす。胸を張って、前を向いて。
「ハーディ?」「……ごめんなさい。オーチャード連れて、戻ろう」
麻もライもオーチャードを連れて帰ることには反対したがすぐに折れた。たとえ親愛なる友人ではないとはいえ、同じ集落に共に住んでいた者である。まだ若い2人はこんな所に野ざらしに出来るほど薄情ではなかった。簡単な手当てをしてハーディが寝ていた寝台に寝かせる。
やる事がなくなると、3人とも無言になった。ハーディはうつむいて何も言わず、ライはハーディをうかがい途方にくれたような、迷い子のような面持ちになり、麻はその2人を交互に見てうろたえる。
「ねぇ、何で黙っているの?」耐え切れずにあえて麻が口火を切る。
「これから、どうするの」「どうするのか、考えているんだ」
ライが小さく、やっと応えた。
「使者の仕事は生贄だった。そんな事、ハーディ1人にはさせられない。でも、ひょっとしたら種を持ち帰ってミントと2人で発芽させようとすれば、ハーディが無事で芽が出るかもしれない」「そんな事いっても、祝祭の樹は呪いの樹だよ。そんな物持ち帰るの?」
「分かっているよ。でも持ち帰らないと集落がどうなるか」
「どうなるの?」
「見当もつかない」
頼りなく揺れる炎がライの横顔に影を投げかける。
「俺たちは今まで、ずっと祝祭の樹に頼って生活をしていたんだよ。この過酷な地で集落が成立しているのは祝祭の樹のおかげだ。それを、大地を枯らすからと言う理由でいきなり捨てる事は出来るのか?」「でも、持ち帰っていいの? ずっとずっとこのままなの?」
麻はハーディを見上げた。
「ハーディはどう思っているの?」ハーディは表情を強張らせたまま、透明な視線で2人を見る。
「ハーディは使者だから、この中で一番偉いんでしょう。ハーディはどうしたいの?」「わたしは使者だから、どうしたい、ではなくどうすべきか、で行動するよ」
はっきりとした声だった。どういう意味か問いたげな麻を止めて、立ち上がる。
「外に出ない?」「別にいいけど、どうして?」
「どうもしないけど」
麻とライは顔を見合わせたが、特に止める理由もないので立ち上がった。
外でハーディは空を見上げた。常に曇っているこの地域の天候には珍しく晴れており、月はないものの星が見えた。天空の星は硝子を砕いたかのように深い藍色の天一面に広がり、骨まで凍りかねない冷たい風が髪を揺らした。荒野の夜は非常に冷える。まだ地に草が生え東屋があるここはましな方だが、それでも麻が震えて、ハーディが自分の上着を貸した。
「空がきれいだねぇ、ハーディ。でもどうするのさ」「うん……」
手を後ろに組んで、ハーディは歩いた。小高い丘の頂点に登り、そのまま腰を降ろす。草の上に座るという初めての感触はどんな上等の織物にも負けない、と感じる。
「わたしは使者だよね。代理の、急ごしらえの、護衛士とけんかする情けない使者だけど、大地の祝祭が始まる事を知らせ、その先触れを連れてくる使者だよね」「ああ」
ライは困惑しながらもうなずいた。丘の上からは鉄の色をした荒野が見える。星のおかげでよく見えた。相変わらず何もない、空白の土地。
「オーチャードは自分の命が惜しいのかといった。わたしは、祝祭の種子を持ち帰ることについて、自分の危険を考えちゃいけないんだと思う。まずはそれから」「おい、そんな事はないだろう」
「そんな事はあるの。わたしがただの村娘ならいいけど、使命を負っている以上はそんな事をしてはいけないの。そして考えないといけない事は、この種子は集落のためには絶対に必要だと言う事、これがないと集落が存続できないと言う事。もしわたしがこれを持ち帰らないと集落は離散してしまうかもしれない」
「ハーディ!」
「事実でしょう」
意図的にハーディは淡々と事項を述べた。ライが心配そうに自分を見ていると思うと心が痛い。
「でも同時に、その樹の存在が大地を痛めつけてしまう。元はここも豊かではないけど緑の土地だったと鬱金さんが言っていた。このままではけしてよくない。このままだと大地は死んでしまい、ここは何もない所になってしまう。大地の精霊使いとして、それは止めないといけない。この痛みに応えないといけない。大地の恵みを奪い去り、いずれ滅ぼしてしまうのだったら、今連鎖の糸を断ち切ろう。どっちにするのか、ずっと迷っている」ハーディは自分の頬が冷たく凍る感触から、自分が泣いている事を知った。
「命は木の葉のごとく、使命は岩のごとく」ライがハーディを見ないようにうつむいた。「狩人に伝わる言葉だ。全く、その通りだな」「ハーベスト」
麻が寝転がる。初めてハーディは小柄な獣人が自分を本名で呼んだ気がした。
「迷って決められない時はね、どっちを選べば自分が胸を張れるか考えればいいんだって。人は誰でも自分の中に影を持っていて、それに負けないように生きるんだ。自分で自分を誇れないと、自分の闇に負けちゃうんだって」麻は、ハーディ自身が祝祭のために織って作った上着を毛布のように自分の上に引き上げた。
「ほんとは、もう決めているんでしょ? でも踏ん切りがつかないんでしょ」迷いはほんの一瞬だった。
「……うん、そう」「僕、ハーディが考えて出した答えならいいと思うな。ハーディは開き直らず、集落と大地について真剣に考え、自分の答えを出した。天の下に立つ辛さと地の上に立つ痛みを知り、闇の重さを知っている。僕は信用しているよ」
「俺もだ」
ライはやっとハーディを見た。
「護衛士、だしな」「……うん」
ハーディはうなずいて天を仰いだ。視界がぼやけ歪む。天と地が融けて1つの世界になった。
本来、呪われた種子を大切に包むはずのハーディの手からたいまつが投げ込まれた。雨が降らない曇り空に一筋の煙が昇る。大切に大切に保管されていた祝祭の種子は静かに灰になっていった。
「使者ハーディとその一行は、使命を果たせず荒野で朽ちていった。そうするのが一番いいんだろうね」ハーディは誰に言うともなしに呟く。
「きっと、集落ではずっと語り継がれるね。歴代最悪の使者だったって」「べっつにいいよ、そんな事」
麻が何も考えず気楽な風に頭の上に腕を組む。
「それより、死んだ気になって集落に帰らないのなら僕が昔いた所に行こうよ。きれいだし、荒野育ちのハーディとライはすごく珍しいと思うよ。僕たち全員でも囲みきれないほど大きな樹とか、林に流れる泉とか!」「悪くないな」
ライがはしゃぐ麻を押さえながら苦く笑う。
「それもいいね」ハーディも同じ思いだった。ライと顔をあわせて、あまりに互いの表情が似通っているのを認め、また笑う。分厚い雲が覆う荒野に、憑き物が取れたような2人の若者の笑い声が流れて消えた。
「人々は確かに最悪の使者となじるでしょう。でもあたしはそうとは思わないわね」
そして、離れた所で人知れず彼らの背中を見ながら、鬱金が蛇の半身でとぐろを巻いた。
「起きたかいがあったわよ。やっとあの種子を捨てる人間に出会えたのだから。ハーベスト。あなたは本当の祝祭の使者よ。あなたが望もうと望まないと関係ない」