三つ首白鳥亭

−カーリキリト−

雨は何時まで

雨がふる。

ざあざあ、ざあざあ雨がふる。

雨がふる。

ざあざあ、ざあざあ雨がふる。

はるか空からこぼれ落ち、髪をしたたらせ身体をぬらしていく。

そうしていつかは涙の跡さえけしさってしまう。


木陰に逃げこんだところで水滴が落ちてきた。またたく間に大粒の雨となり落ち葉がつもる森をしめらせていく。

馬を引きながらミサスは灰色の空をながめた。しばらくはあまやどりをしないといけないだろう。

こめかみがにぶく傷み、ミサスは表情を動かさずにおさえる。髪にかくれて目立たないがミサスのこめかみには古傷があった。引きつるような傷はもう何年もたっているのにいまだに天候が悪くなると痛み、はげしい動きをすると血がにじむ。厄介ではあったが命があるだけもうけものだった。

動かない主に馬が困惑したようになく。無視をしてミサスは考えこんだ。

なにが起きている。

精霊使いのウィロウが気づいたこと。影を操るラスティアの言動。宿命の者。翼の戦士。動きがある。ミサスの知らないところでなにかが起きている。

ミサスの仕事態度は優秀とは到底いえない。徹底して言われたことしかしない、頼まれたこと以外は絶対に行わない。たとえ目の前をまぬけな獲物が歩いても仕事時間外なら無視するし、「彼らを守ってくれ」という依頼は「最低限命だけは確保してくれ」と受けとっていた。気をきかすことや先回りをするつもりはまったくない。そのようなことをしてもミサスに利益はない。ミサス個人に労力に報われる益がないのならば絶対に行わないつもりだった。

だが、主義を撤回する必要がありそうだった。

重要なことが起きている。おそらくミサスの主義や身の安全などよりはるかに重視しなくてはいけないなにかが。ミサスはそのなにかに首までつかっていた。全力で対応しないといけないだろう。それこそ仕事に対する主義も自分の命も投げ捨てて。

覚悟はできている。ずっと前から決まっていた。なにもかもなげうって取りくまないといけない戦いがあるなら、黙ってなげうつだけだった。

さて。ミサスはこめかみを押さえながら別の方向へと考えを向ける。

それらについてアキトたちに伝えるかどうか。

これ以上へこみようがないというほどへこんでいるアキトの死んだ目と、熱血暴走一直線の少年イーザーと、外見よりはるかに複雑なものをかかえて不安定なキャロルを思いうかべる。

黙っていよう。

ひどくなった気がする偏頭痛を抱え、ミサスの目ははるか遠くをむなしく見つめた。

あの面子で戦いにいどまないといけないのか。頼るつもりはなかったが、ここまで厄介ぞろいな連中がそろっているというのもなかなか考えるものがある。

ミサスはまだ知らない。これから先フォロゼスにてもっと厄介な人物が待っていることを。3人を合わせたよりもっと手のかかる人物と会うはめになってしまうことを。


「こまったわね」

ザリは空を見あげて首をかしげた。かばんを守るように上着をかけ黒海の背にのせる。故郷の草原ではまず見られない森のこかげ、したたりおちる水滴に髪をぬらしながら空を見あげる。

「少し待ったらやむかしら」

ぬれた土の匂いはザリには慣れたものだった。積もった落ち葉にこけの匂い。その中にある、おそらくどこででも共通の水の香りをかぎとる。

「すぐにやみそうね、待とう、黒海」

ファナーゼの基準からしても巨大な馬は、主の提案にそっと顔をよせて賛成の意を示した。

「そうしたらフォローよ。あの千年続いた王国。ファナーゼ人だと支障があるかしら。もう独立戦争からはずいぶんたったんだし大丈夫だといいけど、人の恨みはそう簡単に消えないからね。学問はとても発達しているところなのよ。成熟した国で文化は世界一、だてに千年続いていないのよ。ねえ黒海、なにが待っているのかしらね」

ザリは目を細める。

「楽しみね。だれと会えるのかしら」

水滴に驚いたように目を開けた。

周囲は響などいないかのように忙しく歩き自分たちの仕事をしている。だれも響など見ていない。

まばたきを繰りかえして空を見あげた。落ちてくるのは水滴だ。よくある、この世界でももちろん日本でも珍しくもなんともない雨。

息を吐いて気を引きしめる。ほんの一瞬だけ見せた18歳の青年らしい表情はきえさり、孤立無援で目に映るものすべてが敵であるかのようなひどく険しい顔になる。

ありえるわけないのだ。もうあの場所からははるか遠い。

灰色の雨がふるなど。火山灰が混ざった、学問通りにふっていた雨がここにもふるなど。あの場所はもうない。ギリスがいる街はもうない。

一瞬の白昼夢をふりきりまた歩きはじめる。敵がいる、今はそれがすべてだった。敵を妨害しないといけない。ラスティアの命令に従って、かつて高校の後輩だった彼を手にかけるのだ。


たたきつけるような雨の中、なだらかな下り坂を必死で走る子どもがいた。荷物もろくになく今にも転びそうに息もたえだえに走っている。

子どもの髪が不自然な動きを見せた。風は正面からふいているというのに子どもを中心にはげしく渦巻いているかのように黒髪が浮きあがる。

「アル!」

子どもの腰にくくりつけていた巾着から甲高い声がしてピクシーが顔を出した。妖精のくせに針と頑丈な布地の服でいっぱしの戦士のような格好をしている。雨にひるみ走る速度に目をみはる。それでも巾着からとびだしアルの目の前を飛んだ。

「アル、なにしてんの!」
「フォロゼスに行くの!」

ぬれた前髪を払い顔をぬぐう。どなりかえすことで少し速度が落ちた。

「アットくんがつかまった。反逆罪だって。そんなの信じられない、嘘に決まっている」
「だからって、なんでアルが助けなくちゃいけないのさぁ!」

あっという間にシェシェイの全身もぬれた。羽根も水でしたたるが、ピクシーの羽根は雨によって飛べなくなるものではない。

「だったらアットくんはフォロー千年王国につかまっているんだよね。そんなのどうやって助けるのさ。共犯者に見られるよ、下手しなくても国家反逆罪だよ、アルのおかあさん泣くよ。よそうよ、やめようよ、ねぇ帰ろうよぉ」
「アットくんは、私の友だちなの」

立ちどまった。急に力尽きるように崩れひざを地につける。服が泥にまみれ、ただでさえ幼く見える外見をさらに汚くしていた。

「友だちだから、助ける。どうしても、なにがなんでも」
「アルゥ」

シェシェイはがっかりと首を落とした。決心は固そうだ。シェシェイはアルとの付きあいはそう長くはない、せいぜい数年だ。しかしその間いやというほど見てきた。アルは決めたことをそう簡単にひるがえさない。この「簡単でない事情」は天地変動の災害かそれ以上の大事件ぐらいしかない。少なくとも一人のピクシーの声など蝶が飛んでいる程度にしか聞こえないだろう。

「シェシェイ、邪魔しないでよ。家に帰っておかあさんに謝って」
「え〜?」

アルの母はシェシェイが住んでいる下宿の主だ。シェシェイはピクシーらしく俗世の細々としたことには無縁だったが、それでも人間の世界で暮らしている以上家主の機嫌をそこねたくはない。説得もできずにすごすご帰ったときいたらさぞアルの母はがっかりするだろう。シェシェイの頭の中で損得の天秤がゆれ動いた。

「やだ。アルについていく、そして危なそうだったら助ける。それでアルのおかあさんに勘弁してもらう。手ぶらで帰れない」
「おかあさんは手ぶらだからって怒ってたたき出さないよ」
「でもいやだ。一緒に行ってもいいでしょ。僕は有能だよ」
「有能なのは知ってる。いいよ、シェシェイがいると心強いな」
「なに調子よく言っているのさ。僕はいやいやしたがっているんだよ。分かっているくせに」

調子よく笑いかけたアルの瞳から色が消えた。焦点がゆれ動き大粒の雨がふる空めがけて立ちあがる。その動作は今までへたっていたとは思えないほど静かだった。

「呼んでいる」

ここではない遠くを見つめる。シェシェイは首をかしげ、次の瞬間鳥肌が立った。

「アル!」
「あ、うん。ああごめん、ぼんやりしていた」

シェシェイを巾着に押しこめ、顔をまたぬぐい雨を払って走りだす。

「……ぼんやり?」

巾着の中でシェシェイは鳥肌をなでた。

「精霊使いのぼんやりって、ねえ」

子どもっぽい外見と言動とは裏腹に、シェシェイはそれなりに世間というものについて知っていた。

精霊使いという、見えもせず聞こえもしないものを自分の思うがままにあやつる力を持つものは、その分普通の人にとっては理解できない理由で行動する。その結果周りに多大な被害を与えようと、自分の命を落とそうと。

「不安だ。なに見たの。なにを感じたの。そしてどう動くつもりなのさ」

ふだん楽天的なシェシェイでも今日ばかりは眉間のしわが消えそうになかった。


グラディアーナはのんきに遅い朝食を食べながら外の気配を感じとる。

「今日はやめておきますか」

小雨ながらも長引きそうだった。晴れて気持ちのいい日は外にでるのが最近のグラディアーナの日課だった。

「グラディアーナ、いつもなにやっているの?」

香ばしい茶を運びながら情報屋店員が軽く世間話といく。グラディアーナは猫らしい金色の目を女性に向けいたずらっぽく笑う。

「うれしいですね、気にしてくれるのですか?」
「帝国側の門で日ごろねっころがっているのでしょう。ふらりときて遺跡探索でもするのかと思ったら寝ているだけ。だれだって気になるわよ。いい若い者がごろごろするもんじゃないわ」
「ごろごろしているのではありません。待っているのですよ」
「あら、だれを。可愛い女の子?」
「いいえ、陰気な男の子ですよ。つい最近知り合ったばかりの」

大げさに肩をすくめ、いかにも気がのらないふりをする。

「じゃあなんで待つのよ」
「さあ。強いて言うなら運命?」
「馬鹿みたいね」

女性が笑い、グラディアーナも「その通り」と深くうなずく。

うなずきながら思い出す。あの泣きだしそうな情けない顔を。悪夢そのものの状況に必死に友を守り、最良の選択を選べたあの高校生を。

「ま、くるでしょうね。あなたなら。あの夜を生きのびたのですから私のところまでなんて楽勝でしょう」

いかにも面白そうに猫らしい笑いを浮かべた。

「でもはやくしなさい。アキト。私は飽きっぽいですよ?」

秋人は小屋からでた。まだ朝早く外は薄暗い。小雨だか霧だか分からないような天気で深い森の中視界が悪い。空は樹冠でがまったく見えない。

秋人はなにも考えていないようにさまよう。気温のわりに薄着でふらふらと、特に目的もなく歩く。

しばらく適当に歩くと木々が晴れ、湖のほとりに出た。霧が濃く湖は澄んでいるとはお世辞にもいえない。陰鬱な風景の中秋人は両手を空にかかげた。雨がふる。秋人の全身をぬらし、髪を水にしたたらせ、着ているものがずっしり重くさせる。

「アキト!」
「おおうっ」

突然強い力で後ろへとひきたおされる。予想だにしていなかった秋人はぶざまにしりもちをつき、目を丸くして後ろを見上げる。

「おまえ…… なにやってるんだ!」
「あ。イーザー」

ぼんやりと振りかえり、血相を変えた友人を見てやっと目がさめたようにつぶやく。

「あってなんだよ、あって。答えろ。こんな朝早く、なんでこんなところまで歩くんだ!」
「なんてって、その」

秋人はためらったがすぐに観念した。

「ウィロウのまね」
「は? ウィロウ?」

もちろんイーザーだってウィロウをよく知っている。あの優しいエントを忘れるなどけしてできないだろう。しかしどうして朝の森をさまようのとウィロウと関係があるのだろうか。

「雨がふった時ウィロウは外に出て雨をあびていた。だから、そのまね」
「雨に? 自分から? なんでだ?」

ウィロウはエントだが、いくらエントとはいえ直接雨にうたれて気分がよいわけではないだろう。草木は雨でも風はひかないが、はげしい雨だと土をほじくり傷を作って病気のもとになる。

「ウィロウも別に雨に当たって快適になるわけではないって言っていた。でも懐かしくなるんだって」
「懐かしい」
「うん。ずっと昔、目覚めたばかりのときはもちろん屋根のある環境に住んでいたわけではないから、直接雨にうたれることもよくあった。そのときが今より満足していたわけじゃないけど、時々懐かしくなって自分から雨にあたるって」

髪を水にしたたらせながら、いまさらながらに恥ずかしそうに視線をあさってに向ける。

「起きて外を見たら霧雨だろ。急にウィロウとおなじ気分になりたくて外に出てみた。でもぬれただけだな。懐かしくもなんともならない。俺生まれてこのかた屋根のあるところで生きてきたんだし」
「……それだけか?」
「ああ、それだけ。なんだよ、笑いにきたのかよ」
「笑いなんて、しない」

ぶっきらぼうにつぶやき、急にへたりこんだ。湖のほとりで泥が服に手につくのにもかまわない。

「それならいい。別に。アキトがどう感傷にひたろうとそれはいいよ。おどかすな、ったく」
「だから大丈夫って言ったじゃない、イーザー」

急にキャロルが森から2人へと姿を見せる。今まで気配を感じさせなかったが、彼らと同程度のぬれねずみになっているところを見るに、はじめからずっといたらしい。

「アキトがそんなことできるわけないのよ。今回もあたしが正しかったわね。なにも考えていなかったみたいよ」

内容だけを取れば憎らしいほどの高い目線だが、声も足も震え、とぼしい光の中でもはっきり分かるほど青ざめているのでは格好がつかない。

「キャロル? キャロルまでどうしたんだよ」

まったくわかっていない秋人の様子に、友人2人はそろってため息をつき、同じ歩数でちかよってなぐさめるように肩をたたきあう。

「ったく、もう」
「言うなキャロル。逆によかったじゃないか。こんなアキトで」
「よかったといえばよかったけど。しょうがないわね。アキトなにやってんの。風邪ひいたらおいていくわよ。戻りましょう」
「ああ」

秋人としてもいつまでも雨の中外にいる気はない。なぜか疲れている友人2人に手を引かれ、仲よくきた道へと足を向けた。


たたきつけるような雨に、リタは珍しいものを見るように窓から外をのぞきみた。

荒野国マドリームに雨は珍しい。少なくともリタが雨を見るのは初めてだった。はげしい雨はろくな草も生えていない野外にたたきつけ、一時的に川をつくり低地へと流れさってしまう。

この雨は実りには結びつかない。ほんの短期間で大量に降るためろくに大地に吸収されない。リタはかごの中のりんごをひとつつまみかじりながら不毛な雨をながめつづける。かごの中はまだたくさんあった。小さいしすっぱいがそれでも荒野国では貴重な果物である。

口の中の新鮮な酸味に、しかしリタはろくに感情を動かさなかった。

リタはまだ味覚に関しては勉強していない。どんなおいしいものでもよく分からなかった。周囲の反応にあわせてふさわしい行動を取ることはできるが、今彼女の周りにはだれもいない。服の袖からかすかに見えた肌にはまじないのこもった刺青が見えた。

「……彼らはみな、同じなのだ」

壁一枚をへだてた向こうには楽師の歌が聞こえてきた。

「年齢や性別も、能力も今どこの国にいるかなどは意味がない」

楽師の周りをリタと同じ年頃の乙女がとりまいている。彼女たちの中心にいるのはライラック姫だった。乙女たちと同じようにうっとりして楽師の声を聞いている。

「味方か敵かさえ関係がないことだ。同じ雨にうたれて同じもののためにふりまわされて行動する」

この楽師はどこのものとも知れないものだった。マドリームで気ままにふらふらしていたところを偶然ライラック姫の目にとまり、館にめしかかえられた。はっきりいって歌の実力は普通だったが、芸術家そのものが珍しいマドリーム人にとっては十分だった。遠い異国からきたという珍しさもてつだってちやほやされている。

「結局のところ、彼らはみな同じなのだ」
「まあ。とても悲しいことですわね」

ライラックが深い同情をこめて楽師に語りかける。リタの見たところライラック姫は本物の姫君だった。きっと人を恨んだり憎んだことさえないのだろう。ある意味でわたくしと似ている。リタは冷ややかに乙女たちを観察する。

「ええ。でもしょうがないことなのです」
「ねえフォールスト。お願いがあるの。いいかしら」
「はい、なんでしょうか」
「今度お父さまに連れられてバイザリムへ行くことになったの。堂々たるマドリームの首都よ。フォールストもついてきてくれる? わたくしフォールストがとても気に入ったの。離れたくないわ」
「はい。よろこんで参ります」

ころあいだ。藍色のドレスを着たリタはりんごの芯をその辺に捨てて部屋へと入る。

仲間の乙女の歓声に囲まれながら、リタはバイザリムの名前をかみしめた。ここでの生活はほんの戯れにすぎない。マドリームの首都にこそリタの仕事がある。

その先になにがあるのか、リタには見当さえつかなかった。


雨がふる。

ざあざあ、ざあざあ雨がふる。

雨がふる。

ざあざあ、ざあざあ雨がふる。

雨がふる。

はるか空からふりそそぎ、彼らをとどまらせ立ち止まらせて、ほんの一時の休息をあたえる。


つまるところ、彼らはみな同じなのだ。

同じ目的にふりまわされて走る。年齢種族能力立場の差があれど彼らはみな同じなのだ。


雨がふる。

ざあざあ、ざあざあ雨がふる。

雨がふる。


わたしに関わるすべてのものたちへ、雨がふる。

たとえどんなに離れていようと。


「……冷たっ」

はっと桜木は起き上がった。急に立ち上がったのでめまいがする。ほこりと、しばらく人が出入りしていないのであろう停滞した空気のにおいがする。

目がさめたのはほおに水がかかったからだ。桜木は無意識にぬぐう。

「雨?」

すぐに否定した。雨はふっていない、雨音は聞こえない。そもそもここは屋内だった。雨があたるわけがない。

なら、今の水はどこから?

にぶく痛む頭をおさえる。桜木はそれよりもっと大切なことがあるのを思いだした。記憶をたどる。

「私は。どうしてここに」

目をみひらく。

「大谷くん!?」

答えはない。寝ぼけたような表情に戻り、たしかに覚えている少し前のことについて合理的な回答を出す。

「……夢?」

常識的に考えて、夢だったとしか思えない。さもなくば桜木自身がおかしくなったとか。

街に化け物が出現し、大谷と逃げまわったあげくに気絶するなど。幽霊に鬼のような生き物。大谷に話しかけた白人は見る見る間に直立歩行する猫へと変身していった。

そんなこと、この現実に起こりえるわけが……

蛍光灯はついていず、窓からの明かりでかろうじて室内の様子は分かる。見知らぬビルの一室は仕事場に必要な家具は一切なく、やけに空虚ですすけている。桜木はよろめきながら立ちあがり、唯一の光源へと歩く。

そうだ、あれは夢なのだ。現実のことではない。文化祭の疲れが見せたとりとめのない空想だ。

窓を見下ろす。今までよく見てきた街の風景は赤く染まっていた。

パトカーと救急車のランプとサイレンが街中に満ちている。桜木が見たことがないほどの人数の警官が走り、互いに連絡を取りあっている。店のガラスは割られ道路はあちこちで乗用車の事故が起きている。まるで映画の世界そのもの、暴動が起きた後のようだった。

「あ」

夢ではない。桜木は後ずさった。足が震え立っていられない。

戦いはあった。もう怪物はいない、しかし爪あとは現実を生々しく桜木に突きつける。あれは本当のことだったのだ。

「待って、そんな。信じられない。なら大谷くんは」

大谷くんは?

どこにもいない。桜木と同じ年、日坂高校文化祭実行委員会書記係の高校生はどこにもいない。たしかに一緒にここに逃げこんできたのだった。追いつめられてもうどうしようもなくなり、そして桜木は気を失った。その間大谷はどこに行ったのだ? 怪物につれさられたのだろうか。それとも。

「私、見捨てられた?」

混乱の局地にあるはずだったのにかっと腹が熱くなった。思わずはいつくばり壁をつたって立ち上がる。

おいていかれたのだろうか。気を失ってもう動けないから、あの化け猫と一緒にどこかに行ってしまったのだろうか。桜木のことを無視して忘れて放っておいて。

また、私をおいていったのだろうか。

「そんなの!」

許せない。おびえてなえる足をふるいたたせ、放りだされているかばんを拾う。

おいていくなんて絶対に許せない。ついていかないと、思い知らせてやらないと。捕まえろ。あの時日坂高校前で偶然捕まえたように。今度こそ追いつくのだ。

歯をくいしばり、学校ではけして見せたことがない表情を浮かべた桜木は、急に背後から明かりがきたのでふりかえる。

「大谷くん!?」

桜木はまちがえた。大谷ではない。人間でさえなかった。少なくとも普通の人間は自分から明かりを発しない。ぼやけた輪郭の人影は―そのぼやけはまぶしさからくるのではない― 驚愕しつつもしっかり目を開く桜木を好ましそうに見つめ、静かに語りかける。


たとえどんなに離れていようと。