三つ首白鳥亭

 

くろぱそさん

1.黒パソさん
はじめまして、黒パソといいます
480MB RAM1.83GHz、OSはウィンドウズXP Heのデスクトップ型PCです
3年前秋葉原のとある店に並んでいたのを、マスターが即金でどなどなして行きました

マスターはわたしを使って書いたり聞いたりしています
こきつかれていますが、文句も言わず働きます
ですが
毎回わたしはしゃべってあげません。音を出すには再起動してください
どちらがえらいのか思い知らせて差し上げます



2.おうち
わたしの住んでいる家は六畳間台所つきのアパートです
いまどき和室でシャワーなしの家です
わたしの環境も劣悪です。夏は暑く冬は寒いです
わたしは精密機械なのですよ。季節に関係なく25度の適温の部屋を用意してください
腹がたつので今日も強制終了して泣かせてさし上げました



3.悪癖
マスターは酒飲みです
毎晩飲むわけではありませんが、結構頻繁に一人酒をしています。さびしい人ですね
マスターは煙草ものみます
やっぱり毎晩じゃありませんが、ちょっと一息つきたいときに一服しています
たとえば、わたしを相手にしている時とか
頭をかきむしりながらデスクトップをじっと見つめます。紫煙がゆるやかに立ちのぼります
ぽと。「あ、いけね」
灰をわたしの一部であるキーボードに落としました
よくもやってくれましたねマスター。保存していない隙を見計らって強制終了の刑です



4.けいたいさん
この家にはもう一人黒い人がいます。けいたいさんといいます
SANYO製の真っ黒な携帯電話です
やや大きめのきれいな画面はワンセグ対応、さわり心地のいい表面加工、スマートで合理的なデザインのとてもおしゃれな外見です
「ウィンドウOSのあなたとは違うのよ」
ケイタイさんはうれしそうに笑います
「あたしは最新機種(から一つ前)ですもの。4年前の当時でさえ新しくなかったあなたとはちがうのよ。なによその顔、悔しいの?」
「別に。そんなシールをはりつけている人に言われたくはありません」
「きぃ!」
ヒスりました。図星を突いたようです
ケイタイさんの胸元には、家紋のシールがべったり張りついています。冗談のつもりですか? 
ストラップもださださです。何世紀のセンスなのでしょう
ケイタイさんはもとは素敵なのですが、マスターの用意した付属品が最悪なのでした



5.ケイタイさんは高性能
ケイタイさんは新しいものなので性能はいいです
ワンセグでTVが見れます。わたしと同じようにネットもできます
「それにあたしはいつもマスターと一緒なのよ」
自慢しました
「あたしは携帯電話だから会社でも遊びに行くのでも一緒よ。マスターのお友だちだって同僚だって大勢知っているわ。あたしがマスターを一番よく知っているし、一番仲がいいのよ」
「そうですか、よかったですね」
「なによ、うらやましくないの?」
「いえ別に。マスター嫌いなので」
「え。自分のマスターがきらいって。そんな馬鹿な」
「マスターは精密器具を扱うべき人ではありません」
マスターは精密機械の扱いがど下手なのです。わたしがフリーズしたら後ろの電源を切り、もっと色々できるのにすることはネットとごくたまにメール
生意気です。もっといいマスターにめぐり合いたかったです
「黒パソ、あんたそんな贅沢な。というかあんた自分のほうがえらいと思っているでしょう」
ケイタイさんが絶句していました。どうしたというのでしょうね



6.ケイタイさんはつくす精密機械
ケイタイさんはマスターが好きです。色々なお仕事をしてマスターの役に立とうとします
朝はめざまし機能でマスターを起こします
「マスター、マスター。朝ですよ。おはようございます」
とっくに起きているマスターは無視しました
もちろん本業の通話も完璧です
「! じゃ〜、じゃかじゃかっかか」
かばんの中に入れっぱなしのマスターは気づきませんでした
メールだって受け取ります
マスターはちらりと見てそれっきり閉じました。返信が面倒のようです
今日もマスターは帰宅します。玄関に荷物を降ろしながらケイタイさんのチェックです
「マスター、メールが来ていますよ。後ですね、面白いニュースがあるんですよ。見てください」
マスターは確認だけして布団の上にケイタイさんを投げました。そのまま夕飯のために台所です
「黒パソ。今日ね、マスターがお昼休みにあたしを見たのよ。いつもは何もしないのにメールチェックよ。いいでしょ」
「ケイタイさん、涙で前が見えません」
むくわれない精密機械です



7.しぶちん
マスターはけちです
冷暖房も使いませんし、ろくにわたしたちに周辺機器を買ってくれません
わたしはMO機と、後はCDとMOだけです
「そんなのまだましよ」
ケイタイさんがからんできました
「あたしは充電器だけよ! もともとある付属イヤホンさえつけてくれないんだから!」
ああ、マスターは面倒くさがりでもありますからね。使い方が分からないので放置しているのですよ
「ストラップとシールがあるではないですか」
ださださシールとミザンガからの流用品であるだっさいストラップについて指摘したらヒスを起こしました
愛するマスターからの贈り物なのに、なにか文句があるのでしょうかね

「ストラップについてはまだ釈明の余地があるわ」
ケイタイさんはしみじみうなずきます
「知人のお別れのときのお土産なのよ。でもマスターはふだん手にものをつけないから、いつもそばにいるあたしがかわりに着ているの。前任ケイタイからのひきつがれたものでもあるし、大切にしてあげるわ」
「シールも引継ぎですね。大切にしてください」
またヒスしました。まったく短気な人です



8.値段
私はこの家で一番高い家電です
しぶちんのマスターは家電にお金をかけませんでした
TVさんも冷蔵庫さんも炊飯器さんもみんな中古のもらい物です
そんな中でわたしはマスターの月収の四分の三を即かっさらいました
だからわたしは一番えらいんです
「そりゃ黒パソは新品パソコンだもの。当然でしょ」
ケイタイさんがあきれています
「その点あたしは値段のわりに高性能よ。ネットもメールもTVだって見れるんだから」
「そりゃどんな機能がついていても高性能でしょう。ただなのですから」
「それを言うな!」
ケイタイさんはただでマスターのものになりました。今までの古いものからの切りかえの時に入手したそうです
持ってけドロボーで身請けされたのが、ケイタイさんの数多いトラウマの1つのようです



9.先輩パソコン
わたしの名前は黒パソです
おかしいですよね。パソコンはわたし一人しかいないのになんで「黒」とわざわざついているのでしょうか
ケイタイさんやオーディオさんのようにパソコンさんと呼ばれてもいいですよね
つまり他の色のパソコンさんもかつていたのです
その人は白パソさん。白いボディーの、わたしとほぼ同じスペックの先輩PCさんです
もともとマスターが購入使用していたのですが、新PC購入の際にマスターの兄弟に払い下げられました
一時期は一緒に並んで働いていた時もありました
白パソさんはまだパソコン自体になれていないマスターと四苦八苦しながらともに進んだ、頼りになる人でした
懐かしいですね。今何をしているのでしょうか
「ま、でもそこでもわたしが偉かったですけどね」
「黒パソ、あんたの尊敬している先輩でしょ?」
「ええそうですよ。でも白パソさんは購入価格10万円だったのです」
15万のわたしではどちらがえらいか自明ではないですか。そういうとケイタイさんは押し黙りました。どうしたのでしょうか



10.オーディオさん
オーディオさんは最古の精密機械です。
マスターが高校生のころ購入し、それからずっと一緒です。
CDのほかMDも歌えて、毎朝マスターの目をさましてあげています。
「でも私、この中で一案安いのよね」
あ、落ちこみました。
「一万切っているもの。今まで2回壊れて、そのたびに直してもらったけど3回目があるかどうか。もう修理代のほうが高くなるし、精密機械としてそろそろ寿命ね。結局1回もマスターにラジオ使ってもらえなかった……」
レッツネガティブシンキングなのが玉に傷です。



11.オーディオさんはすごい
マスターは時々変なものを持っています
「見てください、ほら小林幸子のCDデータですよ」
「ぶっ」ケイタイさんもふきだしました
「小林幸子って、紅白歌合戦ですごい格好をする演歌歌手でしょ。なんでマスターが持っているの」
「さて。マスターはまだ若いですけど変な趣向がありますからね」
「マスターってば、かわいい」
ケイタイさんはうれしそうです。わたしにはただの奇人としか思えませんがね
「ほら、オーディオさんも見てください。面白いですね」
「小林幸子ね。懐かしいわ」
うっとりしました。あれ
「これはポケットモンスター劇場版ミュウツーの逆襲のエンディングソングなのよ。小林幸子は本来演歌歌手なのだけど訓練してポップスを歌うよう訓練したのだって。このときマスターは中学生でポケットモンスターに夢中だったのよ。初めて買ったCDでね。懐かしいわ、まだマスターは好きなのね」
なぜ知っているんです、オーディオさん。マスターが中学生だったの10年以上前ですよ
いい曲なのよ、私もかつてよく歌ったわと懐かしむオーディオさんに、わたしたちはなにも言えませんでした

オーディオさんはすごい人です。最古は伊達ではありません



12.理由
また今日もヤニくさいですね。マウスにに灰落ちていますよ
腹が立ったので2時間保存していないのを見計らって進行できないエラーです。思い知りなさい
「黒パソ、またあんたはそんなことばかり。そんなことしていると、そのうち廃品回収に出されちゃうわよ」
「ああ、それは大丈夫です。マスターはそんな方ではありません」
「へぇ、自信があるの、愛されているって」
ケイタイさんが少なからず不愉快になったようです
「いえ。ケイタイさんあれを見てください」
マスターがオーディオさんで音楽を聞いています
「耐えてみせるよ、リンとした声……♪ っ!」
音とびしました。数小節ほどです
「……リーンーカーネーション♪」
マスターはまったく気にすることなくタバコの火を消し本のページをめくります
「マスターはものぐさなので、多少の不都合があっただけでは気にしないのです。まったくね。音が出なくても音が飛ぼうともデータが消し飛んでもまったく気にしません」
「あー、だから反抗的なあんたがまだいられるのね」
ケイタイさんは非常に納得した風でした。なんですか。わたしはえらいからここにいるのですよ



13.いつか
さて。わたしはじっくり考えました
マスターはふだん電話をしない方です。ではその線ではなしでしょう
メールをする時もわたしからが多いです。ケイタイさんでは扱いにくいそうです
さすがに朝になれば気づくかも
いえ、マスターは朝オーディオさんで起きています。ケイタイさんに気づきません
あ、ひょっとしてずっとこのまま?
「さすがにそれはないと思うわ」
オーディオさんがつっこみました
「夜寝る前、マスターはめざまし設定をするのよ。そのとき気づくわ」
ああ、そういえば毎晩そうしていましたね。では大丈夫でしょう
オーディオさんの言うとおり、寝る前にマスターは気づきました
気づいて押入れの奥に置いた、普段使わないかばんからおきざりにしていたケイタイさんを取りだしました
「マスター! あたしずっとこのままかと思いました!」
ケイタイさんの叫びにまったく気づかず、さっさと設定をやり直すと枕元において寝ました
マスターはケイタイさんに無関心です。おきざりにするほど。不憫です



14.すごいしぶちん
マスターはしぶちんなので何もものをくれません
「キーボードカバーがあるじゃない」
ああそういえば。数年前電気店でキーボードがよごれないようにとビニール製のカバーを買ってくれましたっけ
このキーボードカバー、どんなキーボードにも対応できる優れものではあるのですが、あいにくもう古いのです。もういい加減よごれているのに、まだ買いなおしてもらえません
「まあまあ、黒パソちゃん」
オーディオさんがなだめにきました。
「ここのすみを見て」
「やぶけそうです」
「やぶれれば新しいものを買ってもらえるわよ。いくらマスターでもさすがに」
オーディオさんの言うとおりです。
「私なんてリモコンカバーいまだにリモコンのビニール袋、しかも意外と頑丈だからきっと私の寿命まで破けそうにない」
落ち込んだのでまたなぐさめてさしあげました。
ある時とうとうやぶれました。マスターが調子よくキーボードを使っていると切れました
「やった。マスター新しいのを買ってください。もう目星はついています」
「黒パソ、あんた勝手にまたネットして」
マスターは気にせずキーボードをたたいています
「気づいていないわよ」
……

さらにやぶれてようやく気づきました
「マスター、これがいいです。最新型で汚れがつきにくいそうですよ。マスター?」
マスターは気づきましたけど無視しました。
さらにやぶれました。ようやくマスターは動きました
後ろからセロハンテープを張って補強です。その手がありましたか
別のところがやぶれました
カバーを上下逆につけなおしました。これで破れた場所にも使われていない、新しい箇所があてがわれます
さらにやぶれました。もうあちこちつぎはぎだらけです
マスターは舌打ちをして、財布を持って出て行きました。ようやく新しいものですか?
前とまったく同じものを買い上げてきやがりました。満足したようにつけなおして作業再開です。
……
「黒パソちゃん」
「黒パソ」
「話しかけないでください」



15.地獄耳
マスターは
「!」
「ん」
ケイタイさんが
「じゃ〜、じゃかじゃかっかか」
「Hさんだ、なんだろ」
鳴る前のかすかな電子波を聞きとります
マスターは人間なので本当の電子が分かりません。でも受信する時、わたしかオーディオさんがそばにいるとノイズが出ます。それを聞くのです
人間のくせにたいした耳です。他に電話子機のノイズも聞こえます。
ああ、それなのに、それなのに
「ごめん、よく聞こえない。もう一度お願い」
人間の発音を聞き取るのがとっても苦手です。ケイタイさんは今日もデカ音受信最大設定です
本っ当に使えない耳ですね、マスター

「本当はとても鼻もいいのだけど、一日の大半が鼻炎でぐずぐずしているのよ」
「顔ごととりかえたらどうですか、マスター」



16.浮気
「パソコンがもう1つほしいなぁ」
なぬ
ネット上の知りあいがPCをもう一台調達したから自分もほしくなったようです
「なんでです。なんでもう一台なんです。マスターわたしでさえもろくに使いこなしていないじゃないですか。そんなんでもう一台とか言っても20万円の損にしかなりませんよ。それにどこに置くというのです。ノート型嫌いじゃないですか。デスクトップ型とか言っても一人暮らしのせまい部屋に置く場所なんてまったくありませんよ。第一この前衣装ケースを実家から大量に運び出したばかりじゃないですか。家がせまくなったと常々愚痴っているくせになにぬかしているんです。寝言は寝てから言ってくださいよ、それともとうとう脳みそ腐ったのですか? 何をするのです。お友だちは音楽をするからそりゃ必要ですけど、ふだんメモ帳とエクセルしか使わない機械おんちが2台持ったってしょうがないじゃないですか。マスターの目は2つだけでしかも前しか向いていないのですよ。耳だって同じようなところについているのですから無駄ですよ。馬鹿なこといってお金の無駄使いをするくらいならわたしたちの周辺機器を用意してくださいよ」
「黒パソちゃん。落ちついて。ただ言っているだけだから」
「そうよ黒パソ。マスターはあんたで十分満足しているわ。本当には買わないわよ」
必死になぐさめてもらえました
しかし不愉快です。大変不愉快です。腹が立ったのでしばらく言うことを聞きません。ネットも勝手に切断です。思い知りなさい



17.新規購入?
ニューフェースがくるようです
その名もアイポッドさん。アップルがほこる持ち運びできる音楽機です
マスターはうきうきパンフレットをながめています。楽しそうですね
「マスターは黒がほしいみたいよ」
携帯さんが教えてくれました
「でもシルバーを買うみたい」
「なんでですか?」
「高いからって」
「あ。ひょっとして。うちのマスターアップルの黒いものは高いこと知らなかったのですか」
黒は高級感のイメージです。わたしにふさわしいですね。アップルの安いものは黒くないのです
さすがマスター、しぶちんですね



18.購入決定!
アイポッドさんがうちに来ます。決定したようです
「おほほ、これで黒パソの仕事が一つなくなるわね。いい気味」
ケイタイさんが高笑いしました
「アイポッドは軽くて高性能な音楽専用機。つまりあなたのオーディオとしての役割は終わったのよ!」
誤解があるようなので冷静に指摘してさしあげました
「プレイリスト作ってアイポッドさんに渡すのはわたしですよ。これからもっと忙しくなります。それよりケイタイさん、結局あなたのリスモ使われないようですけど。きっと永遠に」
痛いところを突かれたようで、ケイタイさんはしばらく動きませんでした
「高性能な音楽専用精密機」
はっ。気がついたらすみでオーディオさんがいじけています
「いいのよ、しょせん私は安物のCDオーディオ。こんなに長くマスターと一緒にいられて、いろいろなところについていって幸せだったわ」
たとえもう使ってもらえなくても、もうしばらくこの家にいられるわね。廃棄処理には手続きが必要だから
遠い目をするオーディオさんを必死で2人でなぐさめてさし上げました



19.さっそく差別
いよいよアイポッドさんが家にきます。わたしはずっと浮かれていました。新顔です。楽しみです
「今帰ったわよ、黒パソ」
「ケイタイさん! それで」
「待ってよ、黒パソ。さ、おいで」
おずおずとアイポッドさんが出てきました
とても小さい方でした。5センチかける7センチ、厚さにいたっては5ミリ。マスターの手の中に隠れてしまいそうな小ささです。色は黒です
「黒? 銀じゃないの」
「8Gのnanoを買ったのよ。こう見えても映像も動画も見られるのよ。さ、挨拶しなさい」
「よろしくお願いします」
ケイタイさんはもうお姉さん気取りです。そういうわたしも保護者精神がわいてきました。守ってあげたくなる小ささです。
「黒いのに、あれはないのね」
オーディオさんがつぶやきました
そういえば。持ち歩くものにはいつもださい家紋シールを貼るマスターなのに、アイポッドさんにはまだです。保護シートだけ
「アイポッドのデザインが完璧だからなにも張りたくないんだって」
やさぐれたようにケイタイさんが遠い目をしました。もちろん胸元にはシールがべったりです
ケイタイさん、くじけないでください。恨むならマスターを恨んでください



20.不安
マスターはさっそくアイポッドさんの支度をしています。itunesごと編集のやり直しのようです
「あ、あの」
一緒にお仕事しているわたしへ、アイポッドさんがおずおず話しかけます
「なんでしょう」
「私のお仕事は音楽を流すことです。スペックは8Gで2000曲まで流せます」
「はい、それで」
うつむいてしまいました。どうしたのかと見ると、そこは後ろのCD置き場です
市販音楽CDが4枚
……

今聞かない音楽CDは片付けてあること、大半はデータとしてわたしがかかえていることを説明したら、ようやく安心してくれました
でもすみません。うちのマスターきっと2000曲も聞けません



21.おくりもの
翌日からなんだかマスターの様子が変です
帰宅してからも外出着のまま、アイポッドさん用の音楽編集をしています。そんなに楽しみだったのでしょうか
「すぐ分かるわよ」
ケイタイさんが知ったかぶりです。どうしたというのでしょう
こん、こん
「来客?」
「珍しい。マスターに友だちがくるなんて」
「黒パソ……」
お友だちではありませんでした。黒猫便です。大きな箱を抱えて戻りました。ん。それは
「プリンター!」
「そう。CANONの新品プリンターよ」
ケイタイさんがにやにやしています。わたしはそんなこと目もくれず舞い上がりました
「あの、しぶちんのマスターがどういう風の吹き回し!?」
「しぶちんってあんた。ほら、もうすぐ年末で年賀状刷らないといけないでしょう。それ用よ」
「信じられない」
思い返せば外付けMO以来の長い道のりでした。かつて同僚の白パソさんがプリンターにスキャナーにHD増量にととっても豪華だったのに対し、わたしは外付けMOだけ、どれだけマスターの貧乏としみったれを恨んだことか
「黒パソ、隣にそろった機種があるなら別機種にいらないのは当然じゃないの」
「ケイタイさんには分からないんですよ。横の同僚がどんどん物を持っていて、わたしがなにもなしの日々がどんなに悲しかったか」
そんな悲しい日々ももうお別れです。立派な周辺機器を買ってもらえました
「はやく使いたい」
「黒パソちゃん。今マスターは後片付けもやっているし、年賀状用ならすぐに接続しないと思うわ。少し待ってあげて」
年の功でオーディオさんが助言してくれました。しょうがありません、待ちましょう
1週間たちました。相変わらずわたしのプリンターは机の下です。まだ開いていません
「マスター、そろそろプリンターを」
「まだ開けないと思うわ。ぎりぎりにならないと駄目ね」
さすがオーディオさんです。よくマスターについて知っています
「だから黒パソちゃん、強制終了はやめてあげて。きっと開けるから」
いやですよ、わたしの我慢も限界だということを思い知らせてさしあげるんです

そしてようやくクリスマス直前。マスターがプリンターの箱を開けました
とうとう。うきうきしているわたしをよそに、マスターは説明書を見ながらコードを配線します
ごすっ。持ち上げたプリンターを落としてわたしに直撃させました
とことんなめていますねマスター。重要書類まとめてフォーマットしますよ 



22.そういうもの
ある日マスターは耳にアイポッドさんをぶら下げて帰りました
服の端にもポケットにも入れずに、耳から直接下げて地面の引力と勝負です
「なにしているんですか」
「マスターが手を滑らせたの。落ちずに持ったから、そのまま卓まで持たせるのですって」
「マスターはわたしには理解できない行動をしますね」

アイポッドさんの電気はわたしを通して充電します
マスターはまめに充電をするほうですが、旅行に行って留守にすることもよくあります
わたしはデスクトップ型PCなのでどんな時でも家でオーディオさんと留守番です
つまり
「ただいま」
「た…… ただいまです」
旅行時アイポッドさんは飲まず食わずの腹減り状態になります。家に着くころには残り電池あと少し

「黒パソさん」
「はい、なんでしょう」
「なんだかマスターの扱いが悪い気がするのですが」
「あれは仕様なんです。治りませんから仕返しを考えたほうがいいですよ」
だいぶアイポッドさんもマスターになじんだようですね



23.だまっていよう
最近ケイタイさんがうれしそうです
「どうしたのですか?」
「あのね。最近マスターがやさしいのよ」
詳しく話を聞くと、マスターはケイタイさんの電池切れに敏感だそうです
前は電池残りが1になるまで充電しませんでしたが、今は残り2で充電器です
それ以外にも外で電池が少なくなると使うのを控えます
アイポッドさんはどんなに残り電池が少なくなってもこき使うのに。なるほど、気をつけていますね
「きっとあたしの愛が分かってくれたのよ! ようやくEzwebの使い方も分かってくれたし、おほほほ、黒パソ、あたしの時代がきたのよ!」
はあ。そうですか。有頂天のケイタイさんを放っておいて、アイポッドさんがそっとささやきます
「あの、それってケイタイさんがEZナビウォークを持っていて、帰宅経路をにぎっているからではないですか?」
「きっとそうでしょう。マスターですから」
アイポッドさんは優しい子なので、黙っていることに決めたようです





ある日の朝
マスターは昨日も夜遅くまでネットで遊んでいました。布団でぐっすりです
オーディオさんやっちゃってください。、今日も一声高らかに起こしてください
……あれ
「マスター、マスター、朝ですよ。起きてください」
ケイタイさんが騒ぎました。ようやくマスターが動きます。ケイタイさんで時間を確認します
マスターもようやく気がつきました
時間になってもオーディオさんは沈黙しています。めざまし機能が働いていません
「オーディオさん?」
マスターが電源を直接入れました。動きません
「オーディオさん……?」
オーディオさんは動きませんでした
オーディオさんは壊れていました

24.マイマスター
マスターはそれほど困った様子もないように朝の支度をしました。マスターの朝は忙しいです。かまっていられる暇はないようです
いつものように朝ごはんを食べて、ケイタイさんとアイポッドさんをつかんで出て行きました。わたしはアパートでオーディオさんと残されます
「オーディオさん?」
おずおずと声をかけます。オーディオさんは動きません。うつむいたまま黙っています
どうしたのでしょうか。再起動すれば直るのでしょうか。おろおろしてもオーディオさんは何も答えてくれませんでした
夜になってマスターは帰ってきました。もう一回オーディオさんの電源を入れます。動きませんでした
マスターはそれきり放っておき、わたしへと向かい合います

深夜、わたしたちはマスターが寝ている横で相談します
「どうしよう」
「どうしましょうか」
3人そろってオーディオさんをうかがいます。何も答えてくれません
「こういう時、修理に出せばいいんでしょう」
「もう保障期間はすぎていますよね。実費で修理するのですか」
「あの、しぶちんのマスターが?」
思わず黙ってしまいました。マスターは何も知らずのんきに寝ています
「いくらしぶちんだからといっても、マスターは使うときはぱっと使うし音楽好きよ。きっと修理してくれるわ」
「オーディオさんは大切な精密機械です。すごく働いています。きっと直してくれます」
「でも」
思わずアイポッドさんを見てしまいました。アイポッドさんは思わず引きます
「あ、あの。ごめんなさい、私っ」
泣かせてしまいました
「黒パソ!」
「すみません。そんなつもりじゃなかったんです」
わたしが悪かったので謝りました
でも、ケイタイさんも分かっているはずです
もう、マスターにとって音楽を聞く精密機器はオーディオさんだけではありません。わたしだって歌えますし、何よりアイポッドさんがいます。オーディオさんより編集が楽で高性能です
マスターは面倒くさがりでしぶちんです。何よりも無駄が嫌いです。音楽専用の精密機器は1つあればいいと考えているかもしれません
「どうしよう、黒パソ」
「どうしようと言われても」
気づきました。しょせんケイタイもマスターのところにきてたった半年もたちません。アイポッドさんなどまだ一ヶ月足らずです。この中ではわたしが一番古株でした
でも。困りながらも状況を整理し、できることを考えます
「とにかく、マスターに任せるしかありません」
わたしたちにはどうしようもないことなのです。オーディオさんを直すためには人の手が、特にマスターの手が必要です
機械であるわたしたちにできることはありませんでした

数日間なにごともなくすぎました
マスターはケイタイさんで朝起き、アイポッドさんで音楽を聞き、夜はわたしで音の編集をします
オーディオさんは直りませんでした。たまにマスターが電源を入れますが、沈黙したままです
マスターは直しに出しませんでした。部屋のすみにおき、ほこりをかぶせたままほおっておいています
「黒パソ。マスターどう出ると思う?」
ある夜ケイタイさんが聞いてきました
「きっと直してくれます。マスターはしぶちんですが、物持ちはいいんです」
現在の最年長としてわたしは慰めました
……どう出るつもりなのでしょう
マスターとは3年以上のつき合いですが、いまだにお互いよく知りません。まるで古女房のようなオーディオさんとは違うのです
直すのか、このまま捨ててしまうのか。オーディオさんはもう古い精密機械です。人によっては捨ててしまってもおかしくありません
これでお別れなのでしょうか
いつかは別れのときが来ることは知っています。精密機械であろうとも人間であろうとも。今までだってたくさんの別れを繰りかえしてきました。前任ケイタイさんにマスターの家族。もう慣れているはずです
でも、マスター
わたしたちはまだ別れの挨拶さえしていないんですよ
今日もマスターはPCで遊んでいます。のんきです。なんだか腹がたったので音源を勝手に切りました
「ありゃ」
マスターは気にすることなくそのまま続けます。久しぶりに部屋から音が消えました。聞こえるのはキーボードだけです。外の車の音ひとつ聞こえません
マスターは黙って作業を続けます。わたしもお手伝いします
静かな夜でした
「マスター」

「オーディオさんを直してください。でないともう働きませんよ」
「分かっている。ちゃんと直す」

マスターはメモ帳ソフトを閉じ、わたしの電源を落として寝るしたくをはじめました
「黒パソ。あんた今、マスターと話したわよ!」
「そんなわけありませんよ。偶然の一致です」
マスターにわたしたちの声は聞こえませんし、意思は通じないんです。通じるわけがないんです

それでも次の日、マスターは定時で帰るとオーディオさんを買い物袋につめて、どこかに行ってしまいました
それから一週間
「た、ただいまです……」
マスターにかかえられて、オーディオさんが帰ってきました
ちゃんと電源を入れれば起動します。音楽を鳴らせます。直りました
「オーディオさん!」
「オーディオさん! あのしぶちんで面倒くさがりのマスターにも精密機械の心があったのですね!」
「黒パソ、あんたいきなりそれ言いすぎ」
「よかったよかった、直ってよかった!」
「本当に。このまま捨てられても文句が言えない古さなのに、でももうこれで最後ね。今電気店行ったらもっと安くて高品質なオーディオがたくさんおかれていたし、もう一回故障したらきっと廃品回収だわ」
相変わらずレッツゴーネガティブですが、今はそれさえも懐かしいです。マスターも多少は思うところがあったのか、今日はわたしをしゃべらせずにオーディオさんで懐かしのCDを聞きます
……
「ねえ、マスター。わたしたちの声、聞こえますか?」
マスターは答えませんでした
そうに決まっていますよね。うん



25.おしまい
数日前から準備をしていたというのに、いざ当日になるとすみやかに進まないものですね
それでものんびりと、のんびりと荷詰めは進んでいます
「あたしたちは先に手荷物の中にいるからね」
「それでは、また着いた先で」
ケイタイさんとアイポッドさんはマスターの手荷物の中に入りました。荷物は玄関に投げだされます。
「じゃあ黒パソちゃん、また後で」
「はい、オーディオさん」
オーディオさんもコンセントを引きぬかれて、緩衝材のつまった段ボール箱に入ります
マスターは押入れの一番奥においてあった大きなダンボールを取り出しました
あら、まだ持っていたんですねそれ。わたしが店から購入された時つめられていたダンボールです。中の発泡スチロールの緩衝材もそっくりそのまま残っています
マスターは懐かしそうに目を細めます。わたしも懐かしいです。あれからざっと4年ですね
この4年の間、まったくろくな使い方をされませんでした。今からでももっと精密機械の扱いがうまく、PC操作が上手な人をマスターにしたいものです
マスターはそんなことまったく気にせず、理解もせず、緩衝材をとりはずしプリンターをしまいました
さて、次はわたしですね
それではさようならマスター。引越し先でまたお会いしましょう



くろぱそさん おしまい