三つ首白鳥亭

 

空白の土曜日

7月だというのに、長袖がちょうどよい日だった。

空は曇りで自宅は静か。閑静な住宅地の家に住むものは坂下利香と飼い猫だけなのだから無理もない。一時間半かけてようやく終えたアイロンのスイッチを切る。廊下で丸まっていた猫が待ちこがれたように膝の上に乗った。

いい加減にアイロン台を片付ける。特等席でくつろぐ猫はそのままにして、なにもしない。

静かだ。家の中はもちろん、外もずっと無人であるかのようだ。人も車も聞こえない。今日は休日、土曜日なのになにもない。

利香はじっとしていた。

こんな風にぼっとするのは久しぶりだ。平日は仕事仕事で、朝は早く夜は遅く、家では酒を飲んで猫を抱いて寝るだけ。家賃がもったいない。

遠くにアブラゼミの声が聞こえる。こんなに涼しいのに夏で、蝉は鳴くし隣の隣の家にはトマトとゴーヤが元気で猫は夏毛だ。

不思議だった。休日なのに家にいて、意識をはっきりさせて猫と一緒にいる。利香にとっては冷たい夏と同じくらい不思議だ。引越しして3年、慣れ親しんだはずの家を久しぶりの実家のように眺める。

昔からたまにある。

例えば冬なのにやけに生暖かく、見上げた空に強風が渦巻くような夜。例えば春なのに凍え、セーターとブランケットを着てじっと耐えるような午前。

そういう季節が狂ったような日は、理由も道理もない不安と共に予兆を感じる。なにかが起こるような、なにかがくるような。想像もできない非日常が急に利香を飲みこんで、すっかり変化させてしまうような。

もちろん本当になにかあったことはない。ただの一度もない。

利香は脚の形はそのままで、上半身を後ろに倒した。猫は素早く身体を組み替え、より寝心地よく丸まる。

利香の人生はいつもそうだ。なにごともない日々、ありきたりの毎日。たまになにかあるかもと思ってもあっという間に時間の流れに押しつぶされる。高校入学、大学入学、それぞれの卒業に就職、引越し。いつもなにかあると思っても、新しいはずの日々は以前の大半を引きずる日常でしかなかった。

むしろそういうものなのだろう。ドラマや漫画みたいには行かない。劇的な変化なんていうのは空想の中にしか存在せず、日々はあくまで平凡で退屈な積み重ねなのだ。人は生きたいようにではなく生きてきたようにしか生きられない。

第一そんなことを思っていても、他ならぬ自分が変化を嫌っているくせに。

だれに聞かせるでもないため息がもうひとつこぼれた。

「まあいいわ。少なくとも猫の手触りはいいしね」

答えるように、猫はぷすともふうともつかない寝息を聞かせた。