三つ首白鳥亭

 

なくしもの

カーテンを閉めそこねてかすかな隙間から見える向こう側は青かった。わたしは寝そべりながら眺める。

おとといまでは梅雨で、気を緩めたら豪雨がたたきつけて傘を忘れたうかつさを笑っていたのに。今の空は雨が降る気配がみじんもない。

「晴れるかもしれないね」

起き上がる。いつ目がさめたのか分からない。昨日も帰りは遅かったし、すぐ寝たつもりでも布団に潜ったのは深夜0時を回っていた。次の日が休日だから思いっきり寝過ごすつもりだったのに、思ったよりも早い時間に目覚めた。

消すのを忘れていたTVが小さな声でニュースを告げる。ぼんやりと身体を起こした。パジャマはよれよれ、髪の毛はあちこちはね放題。我ながらひどいありさま。

朝だというのにすでに厚いカーテンは日差しを吸収しきれていない。わたしが住んでいる1階アパートはすでに気温が上昇しつつあり、少し動くだけで汗がにじんでくる。外には雑草まみれの小さな庭とかろうじてわたしが置いた植木鉢があり、植えていたことも忘れがちな朝顔が熱に耐えていた。

まだ半分寝ながらペットボトルを改造したジョウロで水をやる。TVは陰鬱な殺人事件から天気予報に移った。今日の予想気温は最高36度、一日中晴れ。

「暑い」

言わなくても分かることをつぶやく。なにかをする気にもなれずにTVのおしゃべりを眺める。暑さのせいで異様に眠い。今すぐにでも寝てしまいそう。

携帯電話が紫色に点滅し、寝ている間に留守電メッセージを与っていたことを伝えていた。気づいたからといってわたしの動きは速くならない。のんびり充電コードにつなぎっぱなしの携帯を耳に当てる。テーブルも床も日常のせわしなさですっかり散らかっていて、ちょっとメモを取る隙間も見当たらない。

このところ、忙しかったから。いつものことだけど。

『もしもし、先崎ですか?』

津久井の声が聞こえた。そういえば今日は月一の友人たちでの集まりだった。集まるのは昼間からだから忘れていたけど。

電子音の合間に虫の声が聞こえた。外からの小さな音、蝉の音。本来大きいはずの声なのに、幻聴かと思うほど一瞬かすかに聞こえて消えた。

蝉の音をしばらく聞いていないことを思い出した。

『夜遅くにすみません。あのですね、明日の集まりは中止です。藤野さんに急な仕事が入ったそうです。もともと湖町さんと城山さんはこれないことになっていますし、2人で集まっても仕方がないので中止にします。続いて申し訳ありません。やっぱり昔とは違って集まりにくいですね。次回の集まりはまた打ち合わせて決めます。また明日連絡をしますね』

わたしは電話を返した。短いコール音の後留守番電話に繋がる。

「おはようございます。先崎です。連絡はいりません。わたしも急用ができたので今日集まりがあっても休みます。すみません。みんなによろしくお願いします」

電話を切る。透きとおった青い携帯電話はボタンも軽く、あっけなく伝言を打ち切った。


わたしは用意をした。顔を洗って動きやすい格好に着替える。荷物を仕事用かばんから移す。財布、手帳、携帯電話にハンカチ。化粧ポーチも結構な重さがあるメモ帳も。飲みかけのペットボトルも読んでいないまま入れっぱなしの葉書も。冷蔵庫から最後のひときれ食パンに、冷蔵庫で冷やしているモルツビール350mlもタオルにくるんでかばんに入れる。

戸締りをしてアパートを出る。安っぽくて重さのないドアの向こうは青空だった。地面に濃い影がくっきり投げかけられ、日陰とそうではないところをきっぱり区別する。いっせいに汗が噴出して髪の奥を湿らせる。

「今日も暑くなる」

歩いて15分、それなりに大きい最寄り駅で電車に乗る。そのまま南へ。

電車の窓際でぼんやりしているうちにアスファルトと高層ビルを通り抜けてそれなりの雑居ビルと大きな工場地帯を通る。住宅街を抜けるとまばらな緑の畑に、そして山になった。

長いトンネルを見知らぬ電車の乗客と一緒に迎える。抜けた先は一面の海で、観光客らしい軽装の女性二人組みがきゃあと明るく叫んだ。

電車は終わりを忘れたように続く。2回ぐらい乗客が入れ替わり、わたし自身も1回乗り換える。

乗り換えた先は一時間に一本しか線がない、自宅周りでは考えられないような田舎だった。製紙工場の煙を吹き上げる煙突を眺めながらおとなしく標記に従う。電車を待っている人たちは普段ならけして見ないような人種ばかりだった。観光ガイドを片手に路線図をたどる若い女の子、ハイキング姿の小母様方、こんなところでもノートパソコンを片手に、さすがに居心地悪そうなサラリーマン。

そういえば朝ご飯を食べていない。それどころか水一滴も飲んでいない。思い出したのは片道2時間はかかる鈍行に乗ってからだった。

細かいことだからいいか。かばんにあるパンへの食欲さえわかない。

夏はいつもそうだ。のんびりとした車内扇風機に髪の毛が揺れるのを眺めながらわたしは外を見る。外は山しかなく、人家がごくまれに経過するだけ。

いつもそうだ。夏は生きる気がなくなる。食欲がわかず、行動する元気が消える。ぼんやり、水槽底の魚のようにひそやかに生きるようになる。眠くて眠くてたまらなくなり、身体を起こしていたくなくなる。気持ちはあせるのになにもできない。

開けっ放しの窓からかすかに聞こえる、夏からへの呼び声。見下ろすと空よりも深い蛇行が映っていた。

次の駅でわたし以外に降りる人はいなかった。手動ドアを開けて無人駅を出ていく。たよりない方向感覚とあいまいな勘のまま下ると、舗装された道路に沿う川が待っていた。


空色の携帯電話が鳴った。こんな山の中でも電波は通じているんだ。驚きながらも腰かけている岩に缶ビールを置く。もう軽い。

真下は川で思い出したように動く足は裸足だった。ほとんど使っていないのでまだ新しいスニーカーは横に並べている。わたしはそのまま飛びこんでもよさそうなゆるやかで深い流れ。若葉がまぶしい木々は快適な木陰をわたしに貸してくれる。それでも暑い、肌に汗がじっくり張りついて休日しか着られないTシャツをぬらしている。

「もしもし」
『先崎? 起きています?』

いきなりご挨拶だった。

『ええと。留守電を聞いたのだけど、それで不安になってかけてみたんです。なんか変だったから』
「計画が復帰したんですか? みんなが集まれるようになったとか」
『いいえ、それは駄目です』
「だったらどうして電話かけるの」
『そういえば先崎は夏に弱かったなと思いまして。ほら、暑くて全然ご飯を食べなかったから5キロやせたとか、毎夏そんな感じなので、つい。今どこにいますか? なんだか電波の具合が悪くて』

津久井は心配性だ。思えば日坂高校時代からそうだった。

「いやね。聞いてよ、津久井。わたしは今の生活に不満はないけどね」

こうして遠くにきてもいまだに携帯電話に頼っている。夜になったら電車を乗り継いで狭くて暑いアパートに帰るのだろう。別にそれはいい。契約社員としての日々の生活にも不安はあるけど満足している。そもそもわたしは都会生まれの都会育ちだ、不便で面白くない田舎が恋しいなんてまかり間違っても思わない。わたしは今の都会生活に満足している。

それはいいんだけど。

『待ってください、聞こえないんです。えっとですね、留守電もらったのに電話した理由はですね』
「蝉の声を浴びるように聞けないのは、なんだかつまらない」

だからたまには、目覚めたようにこんな無茶もする。

『今日梅雨明けしたってさっきニュースでやっていて、ふと不安になったんです。先崎は夏、変になるから』
「ああ」

今日だったんだ。

「きっとそのせいだったんだ」
『なにが』
「夏がきたんだ」

強烈でくっきりした、風はすがすがしくて湿度は水の中にいるように高く、強烈な日差しはわたしを融かして眠らせる。そんな季節が今日きたんだ。今年もまた、夏がきたんだ。



平成22年7月17日