坂下利香。23歳。社会人生活2年目。
「あっつう」地方都市、安アパートの一室でつぶやいた。床に直接寝そべって、ぼんやりと天井を見上げている。
「もう夏だったっけ」忘れていなかったのに忘れていたことを思い返す。古い型の冷蔵庫にマグネットで乱暴にとめたカレンダーには、確かに今が葉月だということを示していた。
「昨日まで涼しかったから油断していたぁ」残念そうに目を閉じる。
今は深夜、23時。普通なら風呂を沸かしている時間だった。それなのに利香はなにもしない。
住む前から備えつけてある蛍光灯から目をそらす。横たわった体勢は変えぬまま顔だけを移した。
以前はきれいに掃除し、すっきり片付いていたはずの部屋は連日の残業で見るも変わりはてていた。ゴミ袋にはコンビニの空になった弁当箱、すっかりご無沙汰のポットの横にもう3ヶ月は開けていないインスタントコーヒーの瓶が転がっている。座卓の横には生きるために書かなくてはいけない書類が山とつみかさなっている。
暑い。だらしない自分を責める言葉に心の中で反論した。
なんだろうこの暑さ。まるで水の中にいるかのような湿度は息苦しいし、汗が肌にまとわりつき髪の中に吸いこまれる。温度は高い上、換気が悪い部屋はまさに蒸し器。人が快適に住める部屋とは思えない。遠くから聞こえる電車の音が耳障りだ。
「はん」すねたように手元のステンレス製マグカップをつかんで、中の白ワインを口へと運ぶ。ころがったままなので半分ほどがこぼれて体温で暖かくなった床に落ちる。
暑いのはアルコールのせいだ。利香はぼやけた意識の中でうつらうつらと結論を下す。台所の隅には空になったビールの空き缶、夕食代わりの白ワインの瓶。動く気がしない。
「……ばぁか」なにに対して言っているのか、利香にとっても理解はしていない。泥酔している意識は確かにあたる対象を捕らえていたはずだったのに、口に出したとたん汚い部屋に霧散した。
今日は土曜日、楽しい週末。それなのに利香はなにもしていない。散らかり放題の汚い部屋で、アルコールに酔いながら時間を浪費している。
寝ぼけたように動かした右手に携帯電話が触れた。黄色い、真新しい携帯電話。なにかニュースを受信したのか緑色の光を点滅させる。
暇にあかして無意味に開く。夜のように黒い初期設定画像は変化なし。黙って閉じた。
「夏は、嫌いだ」利香はもだえながらつぶやく。
「いつだって嫌なことは全部夏にあるのよ」髪の毛がほおにつく。目に汗が入り痛い。視界がゆがむ。
「宿題だって、受験だって、就職活動だって全部夏が一番。せみの声にあせるし、暑くて毎年脳みそがとろける」眠い。だるい。なにもしたくない。
動きたくない。考えたくない。仕事に行きたくない。掃除も洗濯も炊事もしたくない。
「現実と空想の区別がつかなくなるのも夏だし、だれも声をかけてくれない。夏なんて、大嫌いだ」生産的なことも有意義なこともなにひとつできず、仕事にくたびれた身体で酔いに任せて時間の無駄使い。眠りにつきたいのに心臓音がうるさくて眠れない。のんびりしたいのにアルコールでもごまかせない不安に浸る。
やる気がない、生きるのが面倒。このまま溶けてしまいたい。ワインと一緒に空気になってしまいたい。
「ああ、あっつい」未来はない。明るい希望もときめく予感もない。酔った目に映るのは暑く汚い自分の家、黙って死に行くだらしない自分。きっとこのままいなくなっても、だれも気づかず社会は進行する。
それならいいじゃないか。
呆けたように目を閉じて結論を下す。そっと死んだように眠り続けたい。もしくは眠りに落ちるように死にたい。
「夏眠って合理的なシステムだね、考えてみれば」つぶやいた瞬間、今なにを考えていたのか忘れた。
閉塞感は熱にとろけ、まんべんなく部屋に広がる。ワイン色の絶望に酔いしれる。
雷光のように携帯がなり、軽快な電子メロディをかなでた。利香は跳ね起きてつかみかかる。
広げたモニターにはメール受信の一文。本文は完結で質素、事務連絡よりも短い。
『助けて』ただひとつ、友人からの救いをもとめる言葉。
「範美! ったく、なにやっているの」いらだったように舌打ちし、それなのに全身に血が巡ったかのように外へ飛びでる。室内よりはまだ涼しい、それでもせみの声が聞こえる暑い暑い夏へと。
だれかに名前を呼ばれたのなら、真夏の中でも生きていける。
あなたを助けるためならば、どこにでも行ける。
平成20年7月5日から7月30日にかけて